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廊下の入口でずっと待機していた自分たちの禿や新造に声を掛け、椿妃太夫の禿三人を医務室に連れてくるよう伝えると、金襴と茉莉花は泣きじゃくる夏蝶を慰めながら足速に医務室へと向かう。しかし、医務室に近づくにつれ、金襴と茉莉花の眉間に皺が刻まれた。
遊女屋の医師は腕利きだ。堺の街の中で一番の名医とも言われているのだから、膝の傷くらいなんてことない。しかし、遊女屋の旦那と女将の傀儡である医師が夏蝶に丁寧な処置を施すだろうか。
夏蝶は椿妃太夫の血を引いている。傾国の美女と謳われる椿妃太夫の子だからか、その容姿はこの遊女屋にいる十歳以下の幼女たちの中で一番優れていると言っても過言では無い。本来ならば、この遊女屋を出て両親に蝶よ花よと大切に育てられるはずの子だった。
だけど、夏蝶はあの男の血も引いている。椿妃太夫を射止め、身請け話を進めていたにもかかわらず、出産直前の椿妃太夫と腹にいた夏蝶を捨て他の女を選び、挙句、その女にも子を孕ませたあの男の血も。
あの男の血を引き、ただ椿妃太夫の遊女としての価値を下げさせた要因となった子を誰が優しく出来ようか。
少なくとも遊女屋の旦那と女将は夏蝶を良く思っていない。それどころか「死んでほしい」とさえ思っている。旦那や女将だけじゃない。椿妃太夫に恋心を寄せていた男たちからもだ。
何より、夏蝶は母であるはずの椿妃太夫本人からはなんの関心すらも持たれていなかった。
だから、夏蝶は「いらない子」と呼ばれるようになってしまった。死んだ方がいい。居なくなればいい。遊女屋にいる全員がそう思っている訳じゃないが、その悪意は今にも夏蝶を飲み込まんとしている。
話を戻すが、医師は旦那と女将の傀儡だ。夏蝶が流行病にかかり倒れてしまった時も、医師は旦那と女将に言われ、夏蝶を診ず性病にかかった下級遊女がひしめく病人の小屋に押し込み放置した。そんな中、夏蝶が助かったのも、茉莉花が自分の命をかえりみず病原菌が蔓延する小屋に押し掛け遊女屋を脱走し、堺の医局へ駆け込んだからだに過ぎない。
旦那と女将の言うことしか聞かない医師が、夏蝶の足の怪我ごときに治療をするとは思えない。金襴や茉莉花も頭が良く医学にも精通しているためこの程度の怪我なら処置できる。しかし、治療薬は全て医務室にしかないし、医師が夏蝶のために治療薬を譲ってくれるとは限らない。
人気のない廊下に、茉莉花の小さな舌打ちが響いた。