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病室。 電子音が規則正しく、私の時間を刻んでいる。
「…………」
それは、7歳の誕生日からほどなく経った、いつかの日。
私は鉛のように重い体を、軋むようにベッドから起こした。
視界を埋め尽くすのは、白くのっぺりとした天井。
消毒液の匂いと、何度も繰り返す原因不明の熱。私の感覚はとうに麻痺し、まるで出口のない悪夢の海を漂っているようだった。
――ウィ、ン。
静寂を破り、自動ドアが控えめな音を立てて開く。
「待たせてごめんね、空。……ちょっと、今日の実験(シゴト)が長引いちゃって」
白衣を纏った母が入ってくる。
その顔には疲労が滲んでいたけれど、私を見るとすぐに柔らかな笑みを浮かべた。
「ううん。お母さんがお仕事頑張ってるから、私はこうして生きられてるんだよ?」
本心だった。 けれど、そう言った次の瞬間、私は折れそうなほど強く抱きしめられていた。
「っ……! 子どもがそんなこと考えなくていいんだよ! このマジメっ……!」
「…………」
背中を撫でる手が、小刻みに震えている。
母はいつだってそうだ。私の病気を、まるで自分の罪みたいに背負い込んでいる。
「世界ってのは、**本当に**理不尽で……クソだよ」
沈痛な声が頭上で響く。
母の悲しみが伝染し、私も胸が苦しくなった――その時だ。
私の濡れた視線が、開けっぱなしのドアの向こうに釘付けになったのは。
「……? ねえ、お母さん。誰か、見てる……?」
ドアの隙間。
そこからぴょこんと飛び出た一本のアホ毛が、まるでご主人様を見つけた犬の尻尾のように、
ブンブンと小刻みに揺れていたのだ。
「……はぁ……」
母は私を抱きしめたまま、スッと涙を引っこめ、そのアホ毛へ冷ややかな視線を向けた。
「ついてきたのか……。 なんだ? 暇なのかい?」
母の問いかけに、アホ毛がビクッと硬直する。
観念したのか、一人の少女がヌッと姿を現した。
「は? は? は? 暇じゃないし。私は決して暇じゃない。断じて暇ではない」
茶髪のツインテールに、作り物めいて整った顔立ち。
そして何より、宝石のように無機質な瞳。
少女は表情筋を一切動かさず、早口でまくし立てた。
「じゃあ、そこで何を?」
「円周率の計算処理で忙しい。もちろん、**世界記録更新予定っ**」
「ホントに何やってるんだか君は……」
母は深く、重いため息をついた。
「?」
少女は、小首をコキリと傾げ、私と母を交互にスキャンするように見比べる。
その頭上で、アホ毛だけが「興味津々!」と言わんばかりに揺れていた。
「あー、えーと……この子は、空の妹みたいなものだよ」
「え……!? 妹……!?」
私は驚きのあまり、母の胸から顔を離した。 私に、妹? いつの間に?
「適当な定義付け(ラベリング)はやめて欲しい」
少女は即座に反論する。
鈴を転がすような、けれど温度のない澄んだ声だった。
「私が君の開発者なんだから、ある意味では合ってるだろ」
「……論理的飛躍を確認」
母はやれやれという表情で肩をすくめた。
その腕の中で、私は初めて見る妹の姿を、ただ呆然と見つめることしかできない。
「……なるほど」
逆に、あの子は私のことを「珍しいサンプル」を見るような目で、じっと凝視してきた。
私の痩せた腕、点滴の管、そして母に抱きしめられている姿。
「私は人間の精神と成長をサポートする自律型AIボット。コードネームME93」
「えむ、いー……?」
「……ただの人間をサポートするためのAIだよ。ほら、後ろに浮いてるだろ? そいつが体を動かしてるんだ」
母が指差した先、少女の背後には黒い立方体(キューブ)が重力を無視して浮遊していた。
微かな駆動音と共に、幾何学的な光のラインが走っている。
「私の傑作になる予定だったんだが……勝手に人間性を学習した結果、肝心な時以外、役に立たないポンコツになった」
「訂正を要求する。人間のヒューマンエラーと愚かさを仕方なく学習しただけ。本来の私は天才」
「傲慢で救いようがないね」
「そんな天才は、ちょうどタスクにちょー余裕がある」
「は? 何言ってーー」
少女――ME93は、私のベッドの縁に手をかけ、その無機質な瞳で私を覗き込んだ。
「興が乗ったからなってあげる。あなたの妹に」
「え?」
アホ毛が、嬉しそうにくるりと円を描く。
この日。 私、有海空は出会ってしまった。
悪夢の地続きのような、この停滞したセカイをぶち壊してくれる――愛すべきバグのような存在に。