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第26話 沈影香包の真意と、皇帝不在の恋
翠蓮様の言葉は、しんと静まり返った居室に波紋のように広がった。
そこには一切の敵意も、嘲笑も含まれていなかった。
ただ静かで、どこか慈愛すら感じさせるほどに深い瞳が、真っ直ぐに紅玉様を見据えている。
その見透かすような視線を前にして、紅玉様の表情から怒りの色がすっと抜け落ちていくのがわかった。
小刻みに震えていた肩の力が抜け、代わりに呼吸が浅く、乱れ始める。
「な……んで、そんな、目で……」
戸惑うように紡がれた紅玉様の声は、ひどく頼りなかった。
激しい拒絶の裏側に隠し持っていた脆い部分を、不意に暴かれたかのような狼狽。
そんな彼女を前に、翠蓮様は困った子供を見るような小さく、優しい溜息を一つこぼした。
「貴方はいつも、思い込んでしまうきらいがあるわね」
「……え?」
「私が送った香包の匂香を思い出して」
翠蓮様がゆっくりと語り始めたのは、紅玉様の体調を崩す原因となったあの『香包』のことだった。
『沈影香包』
後宮において、他妃へ贈り物を渡す行為には様々な暗黙の了解が存在する。
特に香包は、その香りが影のように纏わりつくことを連想させ、表向きの解釈では「影のようにあなたを見据える」という、明確な宣戦布告となる。
強大な権力を持つ翠蓮様が、自分を敵として排除しようとしているのだと、紅玉様が焦るのも無理のない話だった。
「表向きは宣戦布告。でも、あの沈香の香りに込めた本当の意味に、貴方なら気づいてくれると思ったの」
「本当の……意味?」
「沈香は、水に沈んでも長く香り続ける。……時が流れても、あなたへの想いは消えないという、暗喩があるのよ」
翠蓮様の言葉に、紅玉様の目が見開かれた。
つまり後宮の覇権を巡る陰湿な嫌がらせ。
そう思い込んでいた呪いの贈り物は、その実、ひどく遠回りな愛の証だったのだ。
「でも、侍女頭の麗華が……あれは明らかな牽制で、私を呪うためのものだと、そう言って……」
混乱し、言い訳のように言葉をこぼす紅玉様。
その言葉を、翠蓮様は僅かに目を細めて遮った。
その震える唇を塞ぐように、甘く窘めるような声を紡ぐ。
「そういう処よ。貴方は素直すぎるから、他人の言葉ばかり信じて、自分の目で見ようとしなかった」
翠蓮様の言葉に、紅玉様は身を固くした。
「私たちの立場がどう変わろうとも、私は貴方の事をずっと想っているわと伝えたかったの」
一歩、また一歩と、翠蓮様が距離を詰める。
紅玉様は逃げなかった。
ただ、大きな瞳に涙をいっぱいに溜めて、目の前の美しい妃を見上げていた。
極めて近い距離。
翠蓮様は、紅玉様の白く細い指先にそっと自身の指を重ねた。
「大好きよ、紅玉」
その真っ直ぐな言葉が、紅玉様の中で張り詰めていた見えない糸を、ぷつりと切った。
ぽたぽたと、丁寧に施した化粧を濡らして大粒の涙がこぼれ落ちる。
「私も……私も、ずっと、お慕いしております……っ!」
わなわなと震える唇から零れ落ちたのは、抑えきれない本当の想い。
紅玉様が堪えきれずに翠蓮様の胸に飛び込むと、翠蓮様は愛おしそうにその背に腕を回し、抱きとめる。
「馬鹿な子ね」と囁く翠蓮様の横顔は、私がこれまで見てきたどの瞬間よりも美しく、満ち足りていた。
美しい二人の妃が、長いすれ違いを経て互いの想いを確認し、涙ながらに愛を確かめ合う。
それは、一枚の絵画のように完成された、純粋で美しい光景だった。
(……なるほど)
部屋の隅、影と同化したまま息を潜めていた私は、目の前で繰り広げられる純愛劇を静かに見つめていた。
これまでの翠蓮様の不自然なまでの執着と干渉。
そして、紅玉様の過剰なまでの拒絶反応。
私の頭の中で散らばっていた違和感が、たった今、一本の線として綺麗に繋がる。
(……2人は恋仲だったのか)
だから、互いに牽制し合っているように見えて、その実、ひどく歪な形で愛を確かめ合っていただけ。
覇権争いなど、彼女たちにとっては表面上の瑣末な問題に過ぎなかった。
私は内心で深く頷き、そして、もう一つの極めて明白で残酷な事実に思い至った。
(……となると、つまり)
今夜の『お通り』。
この密室で、皇帝を待ちわびているはずだった妃は、今、別の妃の腕の中で至福の涙を流している。
(紫苑様は、初めから入る隙など微塵もなかったという訳だ)
後宮の妃が、別の妃と恋に落ちている。
脈ナシなどという生易しいものではない。
皇帝という存在そのものが、彼女たちにとっての完全なる「蚊帳の外」なのだ。
あまりの不憫さに内心で呆れ返っていた、まさにその絶妙なタイミングで。
――ギイィィ、と。
重々しい音を立てて、部屋の扉が開かれた。
回廊から幾人かの足音が止まり、お渡りの刻限を迎えた今夜の主役が姿を現した。
「……」
豪奢な夜着を纏い、堂々たる足取りで足を踏み入れた紫苑は、そこで完全に動きを止めた。
彼の視界に飛び込んできたのは、
自身の到着を待っているはずの可憐な妃が、彼女自身が最も警戒しているはずのもう一人の妃と情熱的に抱き合い、涙を流しているという、あまりにも難解な光景である。
「……おい? なんだ、これは……何が起きている」
呆然と呟く紫苑の傍らへ、私は音もなく歩み寄った。
そして、深く恭しい一礼をし、無表情のまま、淡々とした口調で事実を告げた。
「ご愁傷さまです、陛下」
コメント
1件
いやー、最高だったわ…! 翠蓮様と紅玉様、まさか恋仲だったなんて。香包の本当の意味、あれはもう完全に裏かれたわ。皇帝が現場で固まってるところに「ご愁傷さまです、陛下」って締める語り手の塩対応、めちゃくちゃツボった。この構図、続きが気になりすぎる🔥