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第1節 千崎雄二『まだ、追えない』―7―
「子どもを自分との間にだけ作るって努力義務を果たしさえすりゃ、百合香と付き合うことを許す、ってな」
「……は?」
「百合香は……俺と雪絵の契約に巻き込まれただけだ」
「けど、それじゃ百合香さんは……」
「分かってる。そんなの、百合香は絶対に報われねぇ。けど……あいつはそれでもいいから、俺と一緒にいたいと言ってくれたんだ」
「……っ!」
「雪絵からは……百合香を切れなんて話は一度もされていない。――そういう契約だからな」
佐山の顔色が変わる。
理解してしまったのだ。
自分が、そんな事情を何も知らないまま、百合香を悪だと決めつけ、追い詰めたことを。
「……俺」
絞り出すような声。
「俺、百合香さんになんてことを……」
雄二は煙草へ火を点けた。
紫煙が夜の空気へ滲んでいく。
「……カシラ! 俺に今すぐ、百合香さんを探しに行かせてください!」
佐山が頭を下げる。
「責任取らしてください!」
佐山の真剣な目に、雄二は吐息交じりの煙を大きく吐き出した。
相変わらず、美味くない、苦いだけの煙だ。
「……俺、必ず百合香さんを連れ戻してきます!」
雄二の視線に、佐山がグッと拳を握ってそう言い募るのを見て、雄二は煙草を口から放した。
「……いや、連れ戻すのは無しだ。――もし見つけても、絶対に接触はすんな。それが守れるなら……許可してやる」
低い声だった。
佐山が「え?」という顔をして雄二を見つめる。
「俺が迎えに行くまで、余計なことはするな。……お前じゃ、百合香を連れ戻すのは無理だ」
その声に迷いはなかった。
百合香は、簡単に意見をひるがえすような女じゃない。
中途半端な状態で追えば、今度こそ本当に消える。
雄二は、それを知っていた。
***
佐山を送り出したあとも、しばらく雄二はその場に立ち尽くしていた。
昼の熱をまだわずかに残した風が、頬を撫でていく。
手元の煙草は、いつの間にか根元近くまで燃えていた。
短くなったそれを携帯灰皿へ押し込み、雄二は小さく息を吐く。
(……百合香、本当にいなくなったのか?)
まだ、どこか現実味がなかった。
百合香が自分の前からいなくなる。
そんなことは一度も考えたことがなかった。
どれだけ傷付けても。
どれだけ待たせても。
百合香は最後には笑って雄二を出迎えてくれる。
勝手にそう思っていた。
そうであってほしいと、甘えていた。
車へ乗り込む。
エンジンを掛けると、静かな振動が身体へ伝わってきた。
向かう先は決まっている。
百合香のマンションだった。
***
到着した頃には、空は茜色へ染まり始めていた。
昼と夜の境目みたいな曖昧な光が、街並みを赤く照らしている。
見慣れたマンションを見上げる。
何度も通った駐車場。
何度も見上げた部屋の窓。
だが――。
「……」
夕陽を反射するだけで、そこに灯りはなかった。
百合香はもうここにはいない。
頭では理解していた。
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だが、こうして現実を目の当たりにするのとでは、話が別だった。
胸の奥が重く沈む。
雄二は無言のまま車を降りた。
オートロックを解除し、エレベーターへ乗り込む。
階数表示がゆっくり上がっていく。
その時間すら、妙に長く感じられた。
やがて到着を告げる電子音が鳴る。
降り立った廊下は静かだった。
百合香の部屋の前へ立つ。
チャイムを押す。
応答はない。
もう一度押す。
やはり反応はなかった。
雄二はポケットから合鍵を取り出した。
鍵穴へ差し込み、回す。
小さな音を立てて扉が開いた。
「……百合香」
呼び掛けながら中へ入る。
返事はない。
室内は不気味なくらいひっそりと静まり返っていた。
だが、言いようのない違和感が胸を掠める。
空気が違う。
生活感は残っている。
家具もある。
食器もある。
それなのに――そこに百合香が〝いる〟気配だけが綺麗に消えていた。
コメント
2件
こういうのってグッとくるよね(涙)
今のエピソード、めちゃくちゃ胸に来たわ……。雄二が「俺が迎えに行くまで余計なことはするな」って言うところ、自分のせいで百合香を追い詰めた自覚があるからこその判断だよな。合鍵で入った部屋に「いる気配だけが消えていた」って描写、刺さりすぎる。生活感はあるのに本人の存在だけが抜けてる感じ、想像するだけで苦しくなる。次、どうなるんだろう。続きが気になる…!