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霧雨の降る山々のようなぼんやりとした意識の中でユカリの取り留めのない思考が巡る。
そういえばチェスタの顔のこと忘れてたな。まあ、取り戻し方が取引材料になるかも。カーサは、別に助けてくれとは言われてないけど良かったのかな。
朦朧とする意識の中にふと、握った手のように温かで親しみ深い風が吹きつける。尋ねなくても分かる、それはグリュエーだ。
「どうかしたの? グリュエー」と意識の靄に尋ねる。
すると靄の向こうから聞き慣れた声が返ってくる。「お別れだよ、ユカリ」
「どういうこと?」
「ユカリと共に旅したグリュエーは今、元の魂へと還るんだ」
「それはお別れではないでしょ? 同一人物なんだから。記憶だって引き継がれるんだし」
「グリュエーはね。でもあのグリュエーは風に魂を融合させた魔法なんだ。だから、風とお話ができるユカリにとっては意味が違ってくるんじゃない?」
「そう言われると……。そういうことか。風の方も私にとっては……。でも一緒にいればいいじゃない。私とはお話ができるんだし、友達でしょ?」
「でも記憶は引き継がれてしまうんだ。風はユカリのことをすっかり忘れて、気ままに吹き去って行くと思う。ごめんね」
「私の方こそごめん。もっとグリュエーの魔法のことよく考えていれば何かできたかもしれないのに」
「気にしないで。二度と会えないわけじゃないよ。きっと、またユカリと巡り会えたなら声をかけてくれると嬉しいな」
「きっとそうするよ。だから、またね、グリュエー」
ユカリは埃の浮かぶ暗闇の中で飛び起きる。背中に痛みを感じた。暗闇の中にいるのによく見えているように思えた。時と鼠と魔性に弄ばれてきた廃屋の中だ。六角形の陶板張りの壁の一部が崩れているが、その向こうも壁だった。深奥の浅い方向、現実へと帰ってきたようだ。
捉えどころのない悲しみが首筋をくすぐるように頭の奥で主張している。グリュエーに会いたくて仕方がないが、それはどちらのグリュエーのことなのかユカリ自身もよく分からなかった。
自分が取り乱していることに気づく。落ち着かなくてはならない。心臓がうるさいくらいに高鳴って、いない!?
ユカリはより一層慌てて心臓のあることを確かめようとする前に、直ぐそばに硬い面持ちでベルニージュが座っていることに気づいてやめる。
ベルニージュはユカリの両手を両手で包み込み、囁く。「【堅固】」
「え? ベル? 戻ってきたんだよね? 私、そうだ、形容しがたい蝶が地面を這っていて――」
「良いから文字が表す力を答えるの」
「ここって……」ベルニージュの握る手が強くなり、ユカリは言う通りにする。「使者、番人、鉄槌、剣を掲げる女、誘惑、加護、聖なる守護者、避けられぬ戦争。ねえ、ここは――」
「【回復】」
「また? 歌、歌う月、惑いの言葉、神秘、黄金の輝き、黄金の煌めき、尽きぬ財宝、再生。何かの、回復の魔術なの? 私なら別に――」
「【安息】」
有無を言わさぬベルニージュの堅い声を前にユカリは観念する。ひとまず言う通りにしよう。
「荒れ野の泉、血、清い水、曇りなき鏡、祭壇、捧げ持つ者」
魔術でもなんでもないことはユカリにも分かった。おそらく落ち着かせるために無関係なことを考えるよう誘導してくれているのだ。
「ワタシとエイカはちゃんと無事に戻って来たよ」ベルニージュはユカリを安心させるよう力強く断言する。「ユカリも戻って来たけど、知っての通り気を失ってた」
前にも似たようなことがあった。感覚的にも似ているそれは刃の化け物となったパジオに憑依し、共に爆発した時のことだ。あの時も魂までばらばらになったようなそんな感覚に陥った。
「ありがとう、ベル。落ち着いてきたよ。ちゃんと心も体もここにある」
「言いにくいけどそうとも言えない」とベルニージュははっきりと断言する。「またもや失くし物を置いて来たみたいだね」
失くし物? 何か失くしたっけ?
ふと心当たる。ユカリはゆっくりと上半身に手を這わせ、深奥に飛び込む前と変わっていないことに気づく。鎖骨の下あたりから臍の上あたりまでがすかすかだ。背中の痛みは変わらず感じているにもかかわらず。
「どうして? じゃあエイカは!?」
「私はここだよ」と耳元で聞こえたエイカの声にユカリはびくりと驚きつつ振り返る。
エイカの方は完全に腹も体も取り戻していた。深奥の中での妖精のような衣ではなく、深奥の闇に消えた時と同じ、焚書官の黒衣に身を包んでいる。ただし鉄仮面は外していた。深奥で見た母の顔の魂と違うところはないようだった。
「もう! なんで死角にいるんですか」
「まあいいじゃん。ずっとラミスカの死角にいたようなもんなんだから」
どうしてそんな冗談を平気で言えるのかユカリにはまるで理解できなかったが、そういう人物であることは目の前の人物をルキーナと認識していた時には分かっていた。
突然、直ぐ近くに落雷があったかのような激しい唸り声が轟き、ユカリはびくりと身を震わせる。
「聖獣メーグレア!? みんなは大丈夫なの!? ベル!?」
よくよく聞くと巨体が走り回っているらしい重々しい地響きのような音が聞こえていた。
「大丈夫だよ。落ち着いて。一人も欠けてない」
「落ち着けないよ! 早く助けにいかなきゃ」
ユカリはふらつく体を何とか起き上がらせ、魔法少女に変身する。失われた体が塞がって、むしろこちらの小さな体の方が馴染んでいるように思えてくる。
ベルニージュの制止も聞かず、ユカリは外へと飛び出す。深奥に潜る前とすっかり状況が変わっている。緑の空は再び黒雲に覆われてしまい、辺りは黄昏の訪れた森の如く薄暗い。しかし呪われてはいない玉虫色の毛皮の巨大な虎がソラマリアとグリュエーとじゃれあっていた。ジニが通りの反対側で廃屋の壁にもたれかかって休んでいる。
ユカリは思っていた状況と違って呆気にとられる。しかしもしも想像通りの状況だったならベルニージュが対処しないわけがない、と気づき、ユカリはようやく冷静さを取り戻す。
相変わらず巨大で、凄みのある玉虫色の獣がその身に備わった黄金の輝きの如き威厳とは裏腹に仔猫のように喉をごろごろと鳴らしてソラマリアに体をこすりつけていた。
ユカリはメーグレア虎の不思議な色合いの胴体をじっと見つめる。巨大な蜂が巣食っていたにしては五体満足だ。しかし見間違いでなければ腹の辺りに大きな傷跡のようなものがあった。見覚えのある位置だ。呪われた虎蜂の姿の時にユカリの放った石礫がその神聖な毛皮を射抜いた傷だ。塞がれてはいるが、体毛が禿げている。心痛むが、他に手はなかったのだと自身に言い聞かせる。
入り口のそばではエイカがソラマリアたちの様子を見守っていた。驚いて家屋の方を振り返る。そちらにもエイカがいる。目の前にいるのはレモニカだ。今までは鉄仮面をつけた焚書官として表現されていたユカリの大嫌いらしいエイカが仮面を外し、素顔を晒した姿になっている。
レモニカはユカリに気が付くとすぐさま魔法少女を抱擁し、本来のレモニカの姿に変身して、再会を喜ぶ。
「ユカリさま。良かった。お目覚めになられたのですね。体調はいかがですか?」
「見ての通りぴんぴんしてるよ」変わらず体が分断されていたことを黙っておいて、ユカリはいかにも元気に見えるように伸びをする。「それで、一体これはどういうこと? 空から降ってきた糸の衣は脱がすことができたの? でもなんでまた空は曇ってるの? これはただの曇り?」
「順にお話しますわ」
ユカリは深奥に潜っている間の皆の奮闘ぶりと、レモニカの閃き、そしてグリュエーが魂を取り戻し、しかし再び雲に魂を憑依させて空を覆ったことを教わった。そうすることで光る糸は途切れたのだという。
「ユカリ!」グリュエーが溌溂とした呼び声と共に駆けてきて抱き着く。
「どうしたの? グリュエー」
「どうしたのって? 心配したんだよ。おかしい?」
「おかしくはないけど」おかしい。ずいぶん愛想が良くなった。そもそも風のグリュエーと違い、本体のグリュエーとユカリの接点は薄い。レモニカやソラマリアと違って、クヴラフワで初対面なのだ。「ああ、そういえば離れていた魂が経験した記憶も取り戻したんだね。その影響かな」
「ユカリがそう言うならそうなのかも。二人でここまで来た旅のことは全部覚えてるよ。時系列が何だかちぐはぐしてて混乱するけど」
それも当然だ。全く同じ時間にグリシアン大陸の遠く離れた五つの場所でそれぞれに別の経験をしているのだから。
救済機構に囚われていたグリュエー。ミーチオンでユカリと出会い、旅をしてきたグリュエー。アルダニで合流したグリュエー。遥か西の土地からソラマリアを導いてきたグリュエー。その四つが揃ったことになる。一つはまだ取り戻していないので、計四年分の経験を得たことになる、のだろうか。
ユカリはそもそもメーグレアを追ってきた理由を思い出す。
「そういえば檻の鍵は取り戻せた?」
「ええ」そう言ってレモニカは鈍く光る鉄の鍵をユカリに見せる。「飲み込んでいたようでしたが、衣から解放したら苦しそうに嗚咽して吐き出しました。ユカリさまの回復を待って檻の神殿の正門へと向かおうと思っていたのですが、いかがなさいますか?」
「もう平気だよ。正門に向かおう。これ以上シシュミス教団の人たちを待たせちゃ悪いしね」