それから彼の生活は一変した。
ベッドに手錠で四六時中拘束され、自由が許されているのは日に二回の食事のときのみだ。
手錠の鍵は女主人から私が預かった。
彼に対してこんな犯罪まがいの仕打ちをしているくせに、彼女はさも自分がひどいことをされたような傷ついた顔でそれを渡してきた。
実際のところ、娘と彼との間に何があったのか。
さらに、女主人と娘の間に何があったのか。
私には知るよしもなかった。
しかし女主人は自室で塞ぎこんでいることが多くなり、少女は少女でお役御免とでもいうように遅く帰る日が増えていた。
だから―――。
完全に油断した。
彼が食べ終わった食器を下げた後、台所のアイランドキッチンにそれを盆ごと置いた。
白い陶器のスープカップに少しだけミネストローネが残っていた。
彼は右利きだ。
スープも当然、右手で取っ手を持って飲む。
私はその通りにやってみた。
顎のラインまで持ち上げると、カップからはトマトの酸っぱい匂いが香った。
「……………」
そのまま唇を付けて私は目を瞑った。
顎を上げ、僅かに残ったミネストローネを飲み干す。
彼が唇を付けただろうカップに、
彼の唾液が残っているだろうそこに口をつけて、
彼が残したミネストローネにを啜る。
彼女が―――女主人がもし、彼を要らないというなら。
私がもらいたい。
生まれて初めて欲しいと思った男。
私なら、少女との浮気なんて気にしない。
あれだけかっこいいのだ。愛人の一人や二人、気にならない。
ただ最後に私のところに帰ってきてくれれば。
愛しているのは私だけだと呟いてくれれば。
他には何も言わないのに―――。
目を開けた。
陶器のカップの内側に、自分以外のもう一つの影が映っている。
「―――――!」
私は慌てて振り返った。
そこには、
学生鞄を持った彼女が立っていた。
「坂本さんでしたっけ」
「――――」
彼女は抑揚のない声でこちらを見上げて言った。
「はい。お嬢様」
言うと彼女は僅かに口元を綻ばせた。
「やめてください。お嬢様なんて。あなたの雇い主はあの女でしょ。私に気を遣うことはないんですよ」
「そうかもしれませんが、奥様のお嬢様は、お嬢様ですので」
言うと彼女は今度はふっと鼻で笑った。
「だから、私はあの女の実の娘じゃないって言ってんの」
「――――」
彼女の不適な笑顔を見つめた。
その顔は確かに女主人と全く似ておらず、
地下に眠る男とうり二つだった。
「あなた女性でしょう?どうして男装してるんですか?」
彼女は少し馬鹿にするように首を捻って見せた。
「―――なんでそれを……」
言うと彼女は私の頬に細い手を当てた。
「だって、髭がないもの」
「――――」
「喉仏だってないし」
その手が首元を滑る。
「肩幅はあっても……」
肩を撫でて、
「鎖骨が細い」
白シャツの中に入ってこようとする。
「ボタンを二、三個外すだけでも、もっと色っぽくなるのに。勿体なーーー」
「やめてください!」
私は彼女の白い手を払いのけると、自分とあまり年齢が変わらない彼女を睨んだ。
「悪いけど、あなたたちと同じだと思わないでください。私は女なんかに生まれていいことなんて一つもなかった。だから女を捨てたいんです!」
言うと、彼女は首を傾げた。
「ーーー嘘つき。彼に欲情してたくせに」
その声は突き刺さるように迷いがなく直線的で、その話し方は血が繋がっていなくても、女主人にそっくりだった。
「彼の部屋にあるカメラだけど―――」
彼女はこちらを睨み上げながら言った。
「介護用のカメラだから録画機能はないけど、気を付けてね。あの女、一日中見張ってるから」
「――――」
暗い部屋に閉じこもる赤髪の後ろ姿。
目の前にはカメラの映像をリアルタイムで移しているモニターが青く光っている。
そんな彼女を想像して、私は鳥肌が立った。
「―――チンコが痒い」
彼が言い出したのは突然だった。
いつもはほとんど合わない視線が、バチッと音を感じるほど強く合わさった。
「あんたが掻いてくれるか?裏筋の方」
私は迷った。
男としてはここでどんな行動をするのが正解なのか。
彼の僅かに盛り上がった股間を見下ろす。
「……………」
言い淀んでいると、
「んん……早く……」
相当痒いのか、彼の膝が立てられ、僅かに跨った私の股間に触れた。
「―――――」
私はベッドから足を下ろした。
『ほらね?やっぱり彼に欲情してる』
娘の声が聞こえる。
―――違う。
『所詮あなたは女なのよ。心も体もね?』
娘のあざ笑いが聞こえる。
―――違う!
私はバスルームからフェイスタオルを持ってくると、迷いを打ち消すように彼に跨り、そのチャックを下ろした。
「―――やっぱり女か」
彼が呟いた。
娘に言われたからではないが、今日はシャツのボタンを二つほど外していた。
だから気づかれたのかもしれない。
不思議と焦りより喜びの方が強かった。
タオルで陰茎を拭いていると、彼は少し息を弾ませながら、
「咥えて?」と言った。
カメラは私の背後にあるため、背中で手を隠している限り、何をしているかはわからない。
しかしさすがに咥えたらバレてしまう。
思考を巡らせる。
部屋に閉じこもっている女主人ではあったが、今日は出かけると言っていた。
娘はとっくに登校している。
つまり家には私と彼の2人きり……。
陰茎を、そして彼の美しい顔を順に見下ろした。
彼を、私の好きにできるーーー?
◆◆◆◆◆
女主人が出かけてから、私は彼の元を訪れた。
指示通りに彼のソレを口に含み、愛撫すると、彼は私の口の中で果てた。
それからは女主人がいないときは、必ず彼の元を訪れた。
関係は親密になり、行為は大胆になっていく。
彼の服を脱がせるたび、無防備な陰部を見つめるたび、彼に言われて体内に入れた私の指が、何かを確実に育てていった。
赤く、艶やかに滴る欲望の果実を―――。
彼もきっとそう思ってくれているはずだ。
それなのに―――。
「―――手錠は、外せない」
私は彼を拒んでしまった。
否が応でも蘇る記憶。
何年経っても色あせてくれない。
抑えつけてきた男たちの手の強さ。
蹴られた腹の痛さ。
身体の中に押入ってきた違和感。
全て、全て忘れられない。
それでも、彼なら。
彼が相手ならーーー。
そう思ったのに。
「パリス―――私に会えなくて寂しかった?」
女主人が割り込んできた。
目の前で彼の唇を奪う。
真っ赤な蛇のような舌が彼の口の中に入っていく。
やめて。
離して。
侵食しないで。
私の彼を―――。
カタカタと小さな音が聞こえた。
気が付くと自分の握りしめた右手が震えていた。
そうだ。
この女さえいなければ―――。
この女さえ――――。
やっと唇が離れた。
口の端から唾液を垂らした彼が、女主人を見上げる。
「……我慢……できない……」
その言葉に、握った拳がほどけた。
女主人の満足したような低い声が響く。
「―――出てなさい……」
私は盆を握りしめるように抱えて部屋を出た。
迷いはなかった。
私は階段を上り、廊下を通り、二階への階段を上った。
女主人の部屋に入ると、モニターを付けた。
声も音も入らない。
しかし彼の上に女主人が跨り、腰を振っているのはわかる。
彼女の白い手が彼の身体を這い、乳首をつねる。
彼の眉間に皺が寄り、口が開く。
私も―――。
いや、
私《《が》》―――、
彼と思い切りセックスしたい。
彼が上でも私が上でもいい。
身体と身体の中心で、彼と繋がり、一つになりたい。
だって私は、彼を愛している。
私を綺麗だと言ってくれた彼を。
女であることに、生まれて初めて喜びを感じさせてくれた彼を。
画面の中の彼と目が合う。
確信がある。
彼もきっと、私が観ていることをわかっている。
あの女には渡さない。
あの娘にも渡さない。
彼は―――私のものだ。
◆◆◆◆◆
チャンスは唐突に訪れた。
いつものように彼が平らげた食器を洗っていると、背後にいつもなら学校に行っているはずの娘が立っていた。
「今日は父の法要なのよ」
彼女は聞いてもいないのに、一方的に話し出した。
「奥様から聞いてます。セレモニーをするとか……」
私は何でもない風を装って、食器の水を切った。
「その後、グループ会社の会合もあるから、夕方まで帰らないわ」
その言葉に思わず振り返った。
「―――何が言いたいんですか」
言うと彼女はぷっとピンク色の唇を震わせて笑った。
「別に?事実を言っただけよ……?」
彼女はそういうと、プリーツスカートを翻しながらキッチンから出ていった。
ーーーー夕方まで帰らないわ。
ーーー夕方まで帰らないわ。
ーー夕方まで帰らないわ。
その言葉が、頭の奥でずっと響いていた。
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