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「行ってくるわ。何かあったら携帯電話を鳴らしてちょうだい」
女主人は振り返ると、私の目を見ずにそう言った。
彼女の背後で、義理母とは対照的に、凝視するように娘が見つめてくる。
「かしこまりました。いってらっしゃいませ」
ドアが閉まってからきっかり三秒待ってから私は顔を上げた。
―――勝った。
音もなく笑った。
彼女に勝ったのではない。
一つの賭けに勝ったのだ。
彼女が地下室への鍵、そして彼の手錠の鍵を、回収して出かけるかどうかは、直前までわからなかった。
しかし風呂敷に包まれたものを大事そうに抱えた彼女の意識は、地下室の彼ではなく、胸の中にある遺影の夫に向いているらしい。
しおらしくも目に涙を溜めて、彼女は家を後にした。
ウィーーーーン。
シャッターのモーター音がする。
続いて彼女の愛車、ビートルのエンジン音。
ブオオオオオン。
ウィーーーーン。
発進に合わせてシャッターが再び動き出す。
ガチャン。
―――はい。密室完成。
この家には今、私と彼しかいない。
そしてその時間は夕方まで続く。
私は|逸《はや》る心を抑えつつ、自室として与えられている洋室に戻った。
簡易的な衣装ケースを開け、私服に着替える。
これで私は、掃除係ではない。
給仕係でも、介護ヘルパーでもない。
私は、私と言う一人の女として、地下への階段を下りていく。
愛する男に、抱かれるために。
◆◆◆◆◆
夢のような時間だった。
気が遠くなりそうな快感だった。
彼の浮き上がる筋肉を触り、
彼のたまらないような顔を見て、
彼の雄の匂いを嗅ぎながら、
彼の舌と唾液を味わい、
彼のくぐもった悩ましい声を聞いて、
私は、絶頂を迎えた。
―――はずだった。
一瞬、何が起こったのかわからなかった。
ただ今まで見下ろしていた彼の顔がズレて見えた。
ズレたのが自分だとわかった瞬間、私はベッドの脇に転がり落ちていた。
頭が痛い。
右目が熱い。
受けた衝撃で身体が動かない。
ーーーなんで?
右手の手錠は外してあげたが、左手は付けていたはずなのに。
真っ赤に染まる視界の中で、彼が立ち上がるのが見えた。
その左手にはベッド柵が握られている。
そうか。引き抜いたのか。
そのために手錠をヘッドボードからサイドレールに移動させた……。
―――やるじゃない……。
身体が動かない代わりに、思考はやけに研ぎ澄まされていた。
◇◇◇
昔。
まだ私が女を捨てていなかった頃。
小学校の校門前の側溝に、雀が落ちていた。
傍に雀が巣を作れそうな雨樋や軒下がある建物もなかった。
巣から落ちた飛べない雛が這いつくばってここまで来たのか。
それともカラスやフクロウに攫われた雛が、ここで暴れて落ちたのか。
とにかくその雀は、段ボールに入れられ、私のクラスで飼うことになった。
雀は雄か雌かもわからないまま、ぴー太と名付けられた。
ぴー太は初めは人の手から餌を食べようとしなかったが、少しずつ慣れると、市販のセキセイインコ用の餌を食べるようになった。
誰かが持ってきた古い皿に、身体を浸し水浴びをして、割りばしで摘まんだ餌を口に運びコリコリと食べる姿は、普段動物に関心がない私が見ても可愛かった。
5月の暑い午後だった。
エアコンの冷気をねだる子供たちに、苦笑した教師が窓を開け放った瞬間、
「あ!ぴー太が逃げた!」
クラスの男子が叫んだ。
誰一人その言葉を信じる者はいなかった。
だってぴー太が、鳴きもせず、音もたてずに、突然いなくなるなんて思わなかったから。
命を救われ、餌をもらい、毎日かいがいしく世話をしてもらったぴー太が、
何のお礼もなく無慈悲に、勝手に、去るなんて信じられなかったから。
しかしよく考えれば、
彼は私たちに何も頼んではいなかった。
餌が欲しいとも、
段ボールに毛布を敷いてほしいとも、
休みの日に当番を決めて連れ帰ってほしいとも、
そして、
命を、助けてほしいとも。
彼を勝手に世話をしていたのは私たちだ。
彼を勝手に生かしていたのは私たちだ。
そう考えたら私は妙に納得できて、
遠くを飛び立っていく、ぴー太ともわからない小鳥の影を目で追った。
彼は、ぴー太と同じだ。
彼は一言も頼んでいない。
自分にご飯をくれなど。
自分の下の世話をしてほしいなど。
自分とセックスをしてほしいなど。
自分を生かしてほしいなど、一言も。
だから彼はここを出て行く。自分の意志で。
部屋の鍵を開け、手錠を外させるための道具として私を選び、
その手段としてセックスを選んで。
私に彼を止める権利など、あるはずもない。
そもそも身体が動かない。
唯一動くのは、右手の指先だけだ。
私は目で彼を追った。
ぴー太はあの後、幸せになっただろうか。
自由になった途端、カラスやフクロウに食われていないだろうか。
でも、もしそうだとしてもーーー。
段ボールの中で一生を終えるより、青空に飛びたって死ねた方が何倍も幸せだったはずだ。
あなたもーーー。
足を引きずりながら部屋を出て行こうとする彼の後ろ姿を見つめた。
あなたも、幸せになって―――。
彼が扉を開けた。
二枚目の扉にも手をかける。
私は施錠していない。
ほら、開いた。
彼は嬉しそうに階段を上り始めた。
ーーー気を付けて―――。
「―――!!」
ベッド柵を杖代わりに階段を上っていく彼の頭上に、黒い影が見えた。
あれは―――。
女主人だ。
逆光のため、表情までは見えないが、手に何かを持っている。
まさか、猟銃?
違う。もっと短い。
ハンマーのような……。
ーーー危ない……!!
口より先に身体が動いた。
声より先に足が出た。
歪む視界。
ふらつく足。
定まらない思考回路。
それでも私は、彼を追って走り出した。
彼の左手首が繋がれたベッド柵を掴んだ。
「―――離せ……!」
一生懸命階段を上ることに集中していた彼は、階上に女主人が立っていることに気づかない。
「行かせろ!俺を―――!ここから出せ!!」
―――違うわ。上を見て。
彼女が立っている。このままじゃあなた、殺されてしまうわよ!!
私の声は脳内で響くだけで、上手く口をついて出なかった。
こうしている間にも、彼女は音もなく階段を一段一段下り始めた。
―――危ない!私の後ろに隠れて!!
急に柵を引っ張っていた彼の力が弱まったと思った瞬間、その鉄の棒が私の鼻元に突き入れられた。
視界は反転し、私は階段を転がり落ちた。
ーーー意識が遠くなる瞬間、
彼女の手に握られたハンマーが振り落とされた。
意識が戻ったのは、殴られた翌日だった。
潰れたと思っていた右の眼球は無事で、その代わり右の頬骨と、上顎骨の一部にヒビが入っていた。
腫れあがる顔に包帯を巻いた私に、女主人はこう命じた
「動けるなら庭の草むしりをして。それが終わったら、部屋の掃除と夕飯の支度をしてくれる?」
それはつまり、彼完全かる剥奪を意味していた。
一切、地下には近づかないこと。
一切、彼とは関わらないこと。
無言の圧力を感じ、私はただ頷くしかなかった。
ここを追い出されたところで私に行く当てなどない。
警察に駆け込んだところで、身元を明かせない私のいうこと等、信じてもらえない。
私は彼女が地下室へ沈むときを見計らって、彼女の部屋のモニターで、彼の生存を確認することしかできなかった。
裏切られる形にはなったが、私には彼に対する怒りはなかった。
仕方がなかったのだ。
逃げるために。
生きるために。
ーー可哀そうな彼。
あの女は狂っている。
手錠に加えて足枷までされた彼は、抵抗することもできず、今日もヘラに組み敷かれて、犯されている。
ろくに栄養も採れないのに、亀頭から強制的に貴重なたんぱく質を射精させられながら。
―――このままじゃ……殺されてしまう。
画面の中の彼の瞳から、光が失われつつあった。