コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
ユカリたちは再び、しかし今まで以上に不気味で怖ろし気な黒松の森を進む。死者の魂を静かに運び去っていく川に沿って進む。グラタードが先導し、ユカリたちが殿を勤めた。サクリフ含め血の呪いを浴びた者や怪我人のさらに後を歩いた。
太陽はすでに地上に姿を見せているが、魔女の牢獄の天板に隠れていてユカリたちの位置からはまだ見えない。ただし、遥か先の岩壁を天板の亀裂から垂れるように陽光が降りてきている。牢獄に阻まれた光の神秘が亀裂から輝かしい腕を伸ばしている。その陽光の腕の先、手の先、指の先で囚われの街に触れようとしている。
「エイカ、怪我はない?」とベルニージュはユカリに尋ねる。
「はい。何とか助かりました。ベルニージュさんのおまじないのお陰です」
「謙虚だね。ユカリは大活躍だったと思うけど」
「ベルニージュさんの炎とグラタードさんのあの矛のような魔法の武器のお陰じゃないですか。私とグリュエーの攻撃はあまり効果がなかったみたいですし」
戦果といえるのは翁の右目に刺さった剣くらいだろうか、とユカリは思い返す。
「片目を潰して以降の被害は大いに減ったと思うけど。まあ、謙虚なのはいいことだよ。戦果が報酬に繋がる時以外はね」
それにしたってグラタードの矛がなければ勝利も難しかっただろう。
「あの巨大な矛は魔導書の力によるものなんでしょうか?」とユカリは声を潜めてベルニージュに意見を聞く。
「かもしれない。もしくはあの槍に宿っているとか。何せ人に宿る魔導書があるんだから物に宿る魔導書もあるのかも」
いつの間にか大蛇に突き刺さった矛は姿を消していて、グラタードがそれを持っている様子もなかった。大きくできるのであれば、小さくもできるのだろう。
「サクリフも案外できるやつだった」とベルニージュは評する。
「そうですね」とユカリは同意する。「ベルニージュさんも助けられてましたし」
ベルニージュはなぜか不満げに言う。「それは、そうだね。私が私以外を助けている隙にサクリフに助けられた。それは否定できない」
「わざわざ否定しなくたっていいんですよ。素直が一番です」
もしくは謙虚が。
それには答えず、ベルニージュは続ける。「重武装の割に素早くて、機転が利いてた。今回は重装歩兵のような格好のお陰で呪いを受けずに済んだけど、散兵向けだね、あの人は」
「散兵って何だい?」と、いつの間にかユカリたちのそばまで下がっていたサクリフが尋ねる。
ベルニージュは驚いた様子で、しかしすぐに何でもないかのように取り繕って答える。「簡単に言えば密に陣形を組む重装備の歩兵と対照的に散開して軽装で戦うのが散兵。機動性を活かして戦うわけ」
「なるほど」サクリフは己の千切れた鎧を見下ろして言う。「しかし軽装で怪物に挑む英雄など聞いたことがないよ。ねえ、エイカ」
「そうですね。怖ろしい牙に爪、毒や炎の息、何をとっても身の守りを固めるに越したことはないはずです。でも怪物退治をした重装備の英雄というと、ゲーミルヘッドにせよ星団の移ろいにせよ、えてして馬に乗っているものでは?」
「なるほど。言われてみると、そうかもしれない。馬か。馬。良いなあ。重装備に馬か。軽装か。ううむ」
サクリフは理解したが納得は出来ないという様子だ。
「良ければ適した魔術をいくつか教えるよ」とベルニージュ。
「お礼にですね」とユカリ。
「まあね」
「ありがとう。考えておくよ」とサクリフは答え、顎紐を失ってずれる兜を抑える。
「何者だ!」という唐突な叫びは先頭を行くグラタードのものだった。
全員に緊張が走る。陽光が増して少しばかり明るくなってきた川のそばで何者かがひた走り、木の裏に隠れた。しかし細い木の裏に体は隠れているが、何重にもなった赤い衣の長い裾が見えている。
よくよく見るとその木の向こうの川は泉だ。そこが今までたどってきた川の源流らしい。
「そちらこそ、いったいどなた? どこから来られたんですか?」
それは美しい調べだった。不純物の一切を取り除いた真銀で作られた鈴の音のように澄んだ空気も清められる不思議な声色だ。しかしそこには見ず知らずの血に汚れた男達を前にした不安の震えが聞き取れる。
「我々はこの魔女の牢獄の外より参った。怪物を退治し、虜囚を救うべくやってきた次第だ」対照的な青銅の鐘のような声のグラタードが答える。
「ですが怪物はとても大きくて恐ろしいんです。とても人間の敵う相手ではありませんよ」
「案ずるな。すでに我々は怪物を倒して、ここへ来たのだ。もう何も恐れるものはないだろう。後はここを出るだけなのだから」
「ええ! すごい! みなさん勇敢で逞しいのですね! それじゃあ、わたしたち、ここから出られるんですか? 何てこと! そんな日が来るなんて、夢にも思っていませんでした!」
木の陰から出てきたのは溜息の出るような美しい娘だった。輝かしい顔貌で、慎ましやかな微笑みを浮かべ、血よりも赤く美しい綺羅をまとっている。その場にいる誰もが見惚れ、眩いばかりの太陽を見つめる時のように目を細める。しかしそれ以上にユカリを驚かせたのはその細部、夏の雲のように白い髪、新雪のように白い肌、夜明け前のような青紫の瞳だった。魔女の牢獄の外ではまず見ることのない顔立ちだ。
「お嬢さん。よければ街まで案内してくれるだろうか?」とグラタードが言った。
「はい、もちろん。わたしなんかで良ければ。でも、いいえ、案内するまでもないんです。すぐそこです。ほら、見えます」
少し先に進むと、黒松の木々の向こうに輝きが見えた。統制の取れた焚書官たちも思わず駆け出す。ユカリとベルニージュ、サクリフもまた怪我人たちを気遣いつつ森を抜け出た。
そこにあったのは仄明るく輝く街だ。ようやく太陽が天板の亀裂から姿を見せて街に差し込んでいる。虜囚の辱めを受ける小さな町に対しても、天空の主たる輝きの君はいと深き慈悲を注いでいた。町は天の光を身に受けて、その石の衣は夜の星も羨むほどに煌めいている。
「あなたたちのような子供も怪物と戦ったんですか?」
青紫の瞳の娘が、いつの間にかそばにいて、ユカリとベルニージュに向けてそう言った。
「はい。ユ、エイカと申します。それより、ずぶ濡れじゃないですか? どうしたんですか?」
赤い服は幾重もの襞があり、たっぷりと水を吸っている。裾は長く、地面を擦り、泉の方から濡れた道を作っていた。女は面映ゆげに長い髪を絞り、水を滴らせ、悪戯っぽく微笑んだ。
「そうでしょう? ずぶ濡れです。乾かしたいけれど、街へ行くまでは我慢ですね。水浴びをしていて、そしたら森の奥から人がやってくるものだから、慌てて服を着たんです。驚きました。わたしは西方の輝き。よろしくお願いします。そちらは?」
そう言ってシュビナはベルニージュに向き直る。
「ベルニージュです。よろしく。シュビナ。一人で森に入って危なくないんですか?」
「危なくないとは言えません。でも、怪物のことなら、石の祭壇からこちら側に来ることは滅多にないんです。それに、あの泉は町に最も近い水源ですから。朝はみんなで水汲みに来ます。その前に水浴びしておきたかったんです」
ユカリたちは壁も門もない街までやってくる。あのような巨大な怪物がいて、防備は何もない。とはいえ、そもそも数年おきに生贄を捧げるという話だ。滅多に怪物に襲われることはないというわけだ。そして襲われる時には怪物が満腹になるまで諦めるということだろう。そういう生活をずっと続けてきたのだろう。
町の輝きは陽光に照らされた石だけではなかった。何度か話には聞いていたが、怪物を目の当たりにしてなお、ユカリはそれほど期待していなかった。町は、ここにある建築は主に石造りであるが、確かに輝かしいばかりの金銀に溢れ、繊細な煌めきを放つ宝石、瑠璃、玻璃、紅玉、蒼玉を使って惜しむことなく装っている。黄金で葺いた屋根。緑玉の窓。瑪瑙畳の通りまである。
本当に財宝があったのだった。怪物に挑んだ英雄たちの心が弾んでいる。怪我人どころか焚書官までもが浮かれているのが伝わってきた。
町の人々は大層驚いている。逃げも隠れもせず、怒りも恐れもせず、ただただ来訪者を興味深げに眺めている。その営みの手を止めて、客人を観察している。
怪物殺しの英雄たちもこのような場所に町があり、怪物の住処の中に人が生活していることを驚いている。
町の人々も皆白い髪、眉、睫毛、肌、唇。ただ瞳だけが深い青紫色の、シュビナと似た顔立ちだった。衣服もまたシュビナと同様に襞の多い紅の服だ。男も女も似たような服を着ている。
グラタードが代表して魔女の牢獄の煌びやかな囚人たちと話をする。多少訛りはあるようだが、言葉は通じるらしい。
人々は大いに歓迎してくれた。そして親切にも怪我人たちを休ませる場所を提供してくれるという。
集団から離れて一人、サクリフがじっと町や人を眺めている。
ユカリは声をかける。「どうかしましたか? サクリフさん」
「いや、何というか、思いのほか美しいな、と思ってね」
「そうですね。荒い石造りなのに、ふんだんに宝石があしらわれていて、不調和な魅力があります」
「それって褒めているのか?」とサクリフが苦笑し、ユカリは少し焦る。
「すみません。悪く言ったつもりはないです。本当にそれが、この街の魅力だと思って」
「いいよ。僕もそういう風に思ったんだ。外では怪獣の餌皿呼ばわりされている町が、こんな所でも、懸命に生きているんだなってさ」