テラーノベル
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お母様は引きつった笑みを浮かべたまま、私の横を通り過ぎ、お父様の隣へと腰掛けた。
「お帰りなさい、リリス。今回の外出は、とても実りあるものだったようね」
母の言葉は酷く穏やかで、先ほど図書館の扉を開けたときの冷徹さは綺麗に消え去っていた。私は胸の奥で、ドクドクと高鳴る鼓動を必死に抑え込む。
「ええ、お母様。とても静かで、良い本が見つかりました」
完璧な人形のフリをして答える私を、お父様がいつもと同じ穏やかな笑顔で見つめている。その薬指の根元で、鮮やかな青いインクが静かに脈打つように滲んでいた。
(あのインクは、ヴェルの青だ)
あの時、ヴェルがめくっていた本。そこに書かれていた青い文字。お母様の支配する黒いインクの世界に、確かにヴェルの青が侵入し、お母様の呪縛を消し去ってくれたのだ。
ヴェルは私を助けようとしてくれている。この狂ったループの檻から、外の世界へ連れ出そうとしてくれている。
胸のポケットにある青い手紙の感触が、まるでお守りのように私に勇気をくれた。次のループが来たら、今度こそ私はあの図書館の窓際で、ヴェルの手を取ってここから逃げ出せる。
「リリス。今日はもう部屋に戻って休みなさい」
お母様が優しく微笑みながら言った。その瞳には、いつになく温かい、母親らしい光が灯っているように見えた。
「ありがとうございます。おやすみなさい、お母様、お父様」
私は静かに一礼し、執務室を後にした。
廊下を歩く私の足取りは、いつになく軽かった。ついに、このおぞましい日常に終わりが来る。明日が来れば、私はヴェルに──。
自分の部屋に戻り、重い扉を閉める。
私はすぐに、胸のポケットから名もなき「貴方」──ヴェルの手紙を取り出した。
もうお母様に怯える必要はない。私は確かな希望を胸に、その青いインクの文字に、愛おしさを込めて指先で触れた。
その、瞬間だった。
指先が、妙に生温かい液体で濡れた。
「え……?」
手紙の紙面を見つめた私の目から、一瞬で光が消え失せた。
ついさっきまで、私の知らない流麗な青いインクで書き殴られていたはずの、あの『リリス。騙されるな──』という文字。
それが、私の指が触れた場所から、まるで生き物のようにドロドロと溶け崩れていく。
青いインクの層が剥がれ落ち、その下から、見覚えのあるべっとりとした黒いインクが、禍々しく浮かび上がってきた。
心臓が、冷たい鉄の杭で貫かれたように凍りつく。
黒いインクで、凛とした美しいお母様の筆跡が、そこにはこう書き直されていた。
『一月十四日。七回目の修正プログラムを完了。リリスの「希望」というバグの発生、および観測を終了する。明日、八回目の休日を開始。さあ、私を呼んで、リリス』
「あ、ああ……っ」
喉の奥から、言葉にならない悲鳴が血のように溢れ出た。
天国のような救いだと思っていた青い手紙も、図書館のあの綺麗な少年ヴェルも、お父様の指から消えた指輪も。
すべては、私がこれ以上バグを起こさないよう、お母様が「希望」という餌を与えて私の精神を綺麗に調律するための、あらかじめ用意された舞台装置に過ぎなかったのだ。
逃げ道なんて、最初からどこにも存在していなかった。
私が必死に掴んでいた蜘蛛の糸は、お母様の手首へと繋がる、ただの黒い操り糸だった。
パチ、パチ、パチ。
背後で、ゆっくりと衣服の擦れる音が響き、静かな拍手が部屋に響き渡る。
振り返ると、いつの間にか開いていたクローゼットの闇のなかから、お母様が、涙が出るほど愛おしそうな歪んだ笑顔で私を見つめていた。
「よく頑張ったわね、リリス。さあ、次の休日を始めましょう」
私の視界が、お母様の放つ真っ黒なインクの波に、ゆっくりと、完全に塗りつぶされていった。
コメント
3件
わわわわ(?)、救われないタイプのやつだった!救われないタイプのやつ好き!すげぇ好き!やっぱ蜘蛛の糸は駄目だったか…
む、娘への執着激強お母様…何故にそこまで…と言いたいけど今居るお父様は空想なら本当のお父様はどこに居たんだろう、何かしらの試行錯誤の末に今の形に落ち着いたとかならまあ過保護になるくらいならあるにしたって過保護というか重いというか… あと蜘蛛の糸って最後滑落する話だからそれの執筆者ってどちらかというとあんまり良いイメージはないなと最初に思ったけど割とそうだった
あおいです🌷 第7話、読み終わりました…。最後の数ページ、手が震えました。青い手紙が黒く溶け出して、お母様の罠だとわかる瞬間の絶望感。掴んだと思った蜘蛛の糸が、ずっとお母様の操り糸だった—という一文が胸に突き刺さって離れません。ヴェルの存在すら「希望の餌」だったという真実。リリスの感情の揺れを丁寧に描いてくださって、本当に素晴らしかったです。次話が待ちきれません。
ゆず
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