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安住 穂乃果が、遅番予定だった親友・里奈の急な発熱を知らされたのは、本来遅番としての業務が開始される時間のわずか十分前という最悪のタイミングだった。
「ごめん、穂乃果……。どうしても動けなくて……」
受話器越しに聞こえる里奈の掠れた声に、穂乃果は思わず時計を見上げた。この時間から代わりのスタッフを募る余裕など、現場には一秒も残されていない。
「……仕方が無いよ。里奈、無理しないで。ゆっくり休んでね」
お人好しだと自分でも思う。けれど、目の前のナースステーションがパニックに陥るのが目に見えている以上、他に選択肢はない。
結局、本来は日勤で業務を終えるはずだったはずの穂乃果が、そのまま急な残業を引き受けることになった。
シフト制という勤務形態の過酷さを、今さら恨んでも始まらない。
「……仕方ないよね」
自分に言い聞かせるように小さく呟き、重い足取りで病棟へと向かう。
ようやく三時間の残業を終え、疲れ果てた体を引きずるようにして病院を出た時には、夜の静寂が街を支配していた。
十一月下旬。煌びやかなイルミネーションに彩られた街路樹が、かえって自分の影を濃く落としているような錯覚に陥るほど、外気は冷え切っている。
吐き出す息は白く、雨を含んだ湿った風が容赦なく体温を奪っていった。
穂乃果はかじかんだ指先で、デパ地下の紙袋を強く握りしめる。
中にあるのは、閉店間際になんとか手に入れた二つの小さなショートケーキ。
今日は、二十九歳の誕生日。
本当なら今頃は、夜勤明けで家を温めてくれているはずの恋人・真鍋直樹と二人で、穏やかな夕食を囲んでいたはずなのに――。
ようやく辿り着いたマンションの自室前。廊下の突き当たりにあるその扉は、いつも通り無機質に穂乃果を待っていた。
バッグの底から鍵を探り出し、かじかんだ指先で強引に引き抜く。金属が擦れ合う小さな音が、静まり返った廊下に妙に大きく響いた。
(直樹……流石にもう起きてるよね?)
鍵穴に差し込み、ゆっくりと回す。カチリ、と解錠の音がした瞬間、穂乃果の鼻腔を突いたのは、自分の部屋には似つかわしくない、湿り気を帯びた熱気だった。
微かに漂う、甘ったるい香水の匂い。そして、密閉されているはずの部屋の奥から漏れ聞こえてくる、獣のような荒い息遣い。
「……あ、っ、直樹、……っ、すご、い……っ」
心臓がドロリと溶けて、足元へ落ちていくような感覚がした。
聞き間違うはずがない。それは、数時間前に受話器越しに「動けない」と泣きついてきた、里奈の艶めかしい嬌声だった。
「……っ」
穂乃果は息をすることさえ忘れ、半開きになったドアの隙間に視線を吸い寄せられた。
視界の端で、見慣れたリビングのソファが激しく揺れている。その上で重なり合っているのは、肌を剥き出しにした二つの影。
直樹の、逞しい背中の筋が快楽に波打ち、その下に敷かれた里奈の白い足が、彼の腰に淫らに絡みついている。
「はぁ、っ……里奈、最高だよ。……あいつとは、全然違う……」
直樹の、聞いたこともないほど低く、濁った声。
彼が里奈の首筋に顔を埋め、吸い付くように舌を這わせる。その仕草は、かつて穂乃果に注いでくれた優しさなど微塵も感じさせない、純粋な「欲」そのものだった。
「ふふ、……穂乃果に、悪いと思わないの……?」
「あいつ? 今頃必死にナースコール対応してるんじゃないか? バカだよな、お前の嘘をいとも簡単に信じてさ。まぁ、お陰でこうして里奈と沢山出来るんだけど」
「あぁっ! もう、直樹ってば全然萎えないんだもん」
「そりゃそうだ。アイツは、マグロだからな。抱いたってつまんないんだよ。男の悦ばせ方知らないんだろ」
二人の嘲笑が耳に響き、世界が暗転していく。
「……っ、ふ……っ」
溢れ出しそうになった嗚咽を、穂乃果は掌で強引に押し殺した。
自分の部屋。自分の初めての給料で買ったお気に入りのソファ。自分が里奈のために代わった、地獄のような残業時間。
すべてが、この二人の快楽のための「舞台装置」にされていた。
直樹の、あの低く甘い声。
かつて自分の耳元で「愛してる」と囁いた同じ口が、今は別の女の体を賛美し、自分の愚かさを笑っている。
酸素が足りない。視界がチカチカと火花を散らし、立っていることさえままならない。
穂乃果は逃げるように、音を立てないよう細心の注意を払ってドアを閉めた。
カチャリ、と虚しく響いた閉扉の音さえ、中の二人には届かない。
廊下を駆け抜け、エレベーターを待つ余裕もなく階段を駆け下りる。
外に出た瞬間、頬に冷たい雫が滴った。視線をあげると暗い空から糸のような雨が、静かに降り注いで来た。それは瞬く間に濃くなって、穂乃果の全身を包み込んでいく。
「……あ……」
かじかんだ指先から、力が抜ける。
握りしめていたデパ地下の紙袋が、泥水の中に滑り落ちた。
中に入っていた二つのケーキは、箱の中で無残にひっくり返り、真っ白な生クリームが泥のように潰れていく。
それは、彼女の二十九年間の人生そのもののようだった。
雨に濡れたアスファルトを、当てもなく歩く。
足の感覚はとうに消え、どこを歩いているのかも分からない。
煌びやかなクリスマスのイルミネーションが、滲んだ視界の中で不快なほどに輝いている。
(どこへ行けばいいの? ……私には、もう、何もない……)
激しい寒さと虚脱感に襲われ、穂乃果は新宿の路地裏、古びたビルの影に膝をついた。コンクリートの冷たさが、薄いストッキング越しに容赦なく体温を奪っていく。けれど、それ以上に胸の奥が凍りついて、呼吸の仕方を忘れたように肺が震えた。
脳裏にこびりついて離れないのは、先ほどまでドア越しに聞いていた、あの酷い声。
そして、それとは正反対の、かつて直樹が見せていた甘い表情だった。
『穂乃果、来年の誕生日は、もっと広い部屋で迎えたいな。……そろそろ、一緒になること、真面目に考えようか』
そう言って、彼は少し照れたように笑い、穂乃果の頬を慈しむように撫でてくれたはずだった。その指先の温もりを信じていた。看護師の激務に疲れ果てても、彼がいつか用意してくれる「温かな家庭」という居場所があるから、どんなに辛い仕事も耐えられた。
それが、どうして。
――いつから?
不意に、底なし沼のような疑問が湧き上がり、穂乃果の思考を侵食し始める。
二人は、いつからあんな風に肌を重ねていたのか。里奈が「体調が悪い」と言ってシフトを代わって欲しがったのは、今日が初めてじゃない。あの時も、その前の時も、二人はあの部屋で、穂乃果が必死に働いている間に嘲笑いながら繋がっていたのだろうか。
(信じてたのに……。親友だって、思ってたのに……)
里奈のあの掠れた電話の声さえ、今は卑劣な演技にしか思えない。
アイツはマグロだ、抱いたってつまらない。
直樹の口から放たれた言葉は、彼が愛を囁いた同じ口から出たものとは思えなかった。
自分の献身も、愛情も、将来への夢も、彼らにとっては二人を繋ぎ止めるための都合のいい踏み台でしかなかったのだ。
心臓を素手で握り潰されるような痛みに、穂乃果は自分の肩を抱いて小さく丸まった。雨に打たれ、泥に汚れ、ただ震えるだけの塊。
もう、一歩も動けない。このまま冷たいアスファルトに溶けて消えてしまいたい。
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