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そんな絶望のどん底にいる彼女の頭上に、不意に、派手な紫色の影が差した。
「……ちょっと。そこ座られると邪魔なんだけど。営業妨害よ」
低く、けれどどこか作り物のような、不思議なキンキン声。
穂乃果が重い瞼を上げると、そこには雨の夜には不釣り合いなほど極彩色の「女」が立っていた。
完璧なフルメイクに、縁を飾る派手な紫色のドレス。雨を弾く大きな傘を差し、ゴミを見るような冷徹な瞳で穂乃果を見下ろしている。
「す、すみません……っ」
慌てて立ち上がろうとした瞬間、視界がぐらりと揺れた。膝の力が抜け、無様に泥水へと沈みかけた身体を、抗いようのない強い力で引き揚げられる。
「……っ、あ……」
二の腕に食い込む指の硬さ。それは、繊細な女のそれではない、紛れもない「男」の剛力だった。
「酷い顔ね。この世の終わりみたいな顔してるじゃない……」
至近距離で放たれた言葉には、同情の欠片もない。厚く塗られたファンデーションの奥、冷徹な瞳が穂乃果の絶望を容赦なく射抜く。
「……」
穂乃果は何も答えられず、ただ俯くしかなかった。言葉を発すれば、せり上がった熱い塊が喉を焼き、堪え続けていた涙が決壊してしまう。
彼女――その人物は小さく鼻を鳴らすと、穂乃果の二の腕を掴んだまま、背後にある《BLACK CAT》と書かれた重厚なドアを、空いた方の手で静かに押し開けた。
カウベルが控えめな音を立てて、隙間から溢れ出したのは、外の雨風を忘れさせるような、温かく落ち着いた熱気だった。
「……あの、離してください……っ。私、お金も持ってなくて……」
「いいから黙って付いてきなさい。あんた、今この手を放したら、そのまま消えてしまいそうな顔をしてる。……うちの店の前を、そんな縁起の悪い場所にしたくないの」
その人物は、決して声を荒らげることはなかった。
彼女は穂乃果をカウンターの端の席へと促すと、自らカウンターの奥へ入り、棚から清潔な、厚手のタオルを取り出した。
「……まずは、それを使いなさい」
無造作に、けれど丁寧な所作で差し出された純白のタオル。
震える手でそれを受け取り、穂乃果は消え入るような声で尋ねた。
「……あ、ありがとうございます。……あ、の……」
「ナオミ。……ここでは、そう呼ばれてるわ」
彼女――ナオミは、カウンターの上のグラスを一つ手に取り、磨きながら淡々と名乗った。
「……あんたは? 自分の名前くらい、言えるわよね?」
「……穂乃果です。安住穂乃果」
震える声で告げた名前に、ナオミはグラスを磨く手を止めず、鏡越しに一瞬だけ視線を向けた。
「ふぅん。穂乃果ちゃん。……可愛い名前じゃない。その酷い顔には、あまりに不釣り合いだけど」
ナオミは磨き終えたグラスを棚に戻すと、流れるような動作でコーヒーメーカーのスイッチを入れた。
コトコトと低い音を立てて落ちる雫。店内に広がり始めた、深く、どこか安らぐ豆の香りに、穂乃果の強張っていた肺がようやく小さく息を吐き出す。
その時、背後の重厚なドアが、カウベルと共に静かに押し開けられた。
「――あれ? ナオミさんが女の子ナンパですか? 珍しいですね」
聞こえてきたのは、若く、少し高めの、けれど芯のある少年の声。
穂乃果が反射的に肩を竦めるのを余所に、カウンターの奥からナオミは、入ってきた人物を一瞥もせずに鼻を鳴らす。
「違うわよ。店の前に落ちてたから拾ったの。湊ってば、アタシが女に興味ないの知ってるでしょ?」
「拾ったって……猫じゃないんですから。あ、でも、確かに。雨に濡れた子猫みたいになってる」
声の主――湊(みなと)は、いつの間にか穂乃果の隣の席にひらりと腰を下ろしていた。
短く刈り上げた襟足に、シャープな顎のライン。オーバーサイズのジャケットを着こなしたその佇まいは、どこからどう見ても、線の細い綺麗な少年そのもの。
「目が少し赤いですね……。もしかして、誰かに酷いことでもされた?」
覗き込むような、真っ直ぐな瞳。
あまりに無垢な問いかけに、穂乃果の心臓が不格好に跳ねる。
「――っ」
「こーら。余計な詮索をしないの」
ナオミが、たしなめるように湊の頭を軽く小突いた。
コーヒーメーカーが最後の一滴を落とし終え、店内にふわりと香ばしい香りが満ちる。
「言いたくないことの一つや二つ、誰にだってあるでしょ。……穂乃果ちゃんも、ほら。コーヒーでも飲んで温まりなさい」
差し出された、純白のカップ。
立ち上る湯気の向こうで、ナオミは相変わらず冷徹なほど完璧なメイクを崩さない。けれど、その眼差しからは、先ほどまでの刺すような鋭さが消えていた。
「……あ、ありがとうございます」
「いいのよ、そんなの。気にしないで頂戴」
「でも……」
「へぇ、穂乃果さんって言うんだ。僕、湊。よろしく!」
隣で湊が屈託のない笑みを浮かべる。
「ナオミさん、ちょっとガタイがよくてアレだけど……。でも、本当はすごくいい人だからさ」
穂乃果は、震える両手でゆっくりとカップを包み込む。
陶器を通じて伝わる確かな熱。それが、雨に打たれて感覚を失っていた指先に、痛いほどの「生」を呼び戻していく。
「……熱い」
小さく漏れた声と共に、熱を帯びた涙が、今度は堪えきれずにカップの中へと落ちた。