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己の母が迫真の演技をしているポスターがトラムの停留所に設置された縦型の広告パネルの上を流れて行く様を、慣れているものの気恥ずかしい思いから僅かに視線を逸らしながらも視界の端に捉えて足を組んだのは、明日いよいよ映画祭の授賞式だと緊張気味の母の頬にキスをし、ホテルで行われる前夜祭の時間まで観光していると言い残してホテルを一人で出たノア・クルーガーだった。
間も無く午後の鐘が何処かから聞こえて来そうな時間、トラムは朝の通勤ラッシュが過ぎて人も疎らで、このまま何処に向かおうかとガイドブックを開くが、気になった停留所で降りても良いかと開いたばかりのガイドブックを閉じる。
やって来たトラムに乗り込み、周遊チケットを持っている気安さから車窓を楽しんでいたノアだったが、郊外に近付きつつあることを車窓の風景から気付き、次の停留所が見えた為に運転手に合図をしてトラムから降り立つ。
カメラマンとして実力を認められつつありヨーロッパを中心とした様々な地域で仕事をするようになって来たが、両親が一時期暮らしていたらしいこの街に来るのは初めてだった。
だから両親よりも先にこの街へとやって来ていたノアは、周遊チケットをフル活用するように興味が惹かれるところ、気の向くところへと足を運んでは自分でも驚くほどの写真を撮影していた。
仕事道具としても趣味としても大切なカメラを肩に担ぎ直して一歩を踏み出したノアは、なだらかな斜面の彼方此方に藁の束が点在する畑を眩しそうに細めた目で見つめるが、視界の端にぼんやりと黄色の色彩を捉えて顔を自然と向ける。
ノアの視界の先、ちらほらと黄色と緑のコントラストが広がっていたのだ。
菜の花がまだ残っているのだろうかと思案しつつその黄色の方へと足を伸ばした彼は、畑に近づくにつれそれが己が想像していた花よりも大振りの花である事に気付き、目の前の光景に言葉を無くす。
それは、いつだったかスペインやイタリアなどのヨーロッパ南部を訪れた際に目にした、一面のヒマワリ畑だった。
まだ時期が早いのか、5分咲程度の花が多かったが、それでも太陽を精一杯浴びるように頭をもたげている花々を目の前に、これが満開になった時の美しさはどれほどだろうと、畑を囲う柵に手をついてぼんやりと考えるが、気がつけばカメラを構えて撮影を始めていた。
写真が趣味であり仕事である事の幸福を味わいつつも満足するまで撮影をしたノアは、もっと近くで撮影したいという思いに突き動かされて柵を乗り越えそうになるが、少し離れた場所から呼ばれてびくりと身体を竦めてしまう。
「リオン? 何をしているんだ?」
「!?」
投げかけられた声は彼が知らない名を呼ぶものだった為に周囲を見回し己以外誰も近くにいない事を確かめたノアは、恐る恐る声の主へと顔を向け、柵を乗り越えそうな体勢である事を思い出して慌てて飛び降りる。
「あ、その……」
「……リオンじゃないのか」
彼が振り向いた先にいたのは長身の彼よりもさらに背が高くがっしりとした体格の男で、農夫である事を簡単に予想させるシャツとオーバーオールなどから、もしかしてこの畑の主人かと問いかけるノアにそっけなく頷くが、誰かと見間違えたのかと上目遣いに問いかけると男が胡乱な者を見る目付きから鋭さをかき消した目で見つめてくる。
「ああ、友人と良く似ていたから間違えた」
俺の畑の柵に乗って何をしているのかが気になったと苦笑らしき表情を浮かべた男にノアが肩を竦めるが、ひまわり畑を久しぶりに目にしたのでつい撮影してしまった、もし可能なら中に入って撮影をして良いかとカメラを見せながら問いかけ、今から出荷の準備をするからその邪魔をしないのなら構わないと、これもまたそっけなく返事をされてくすんだ金髪を束ねた尻尾のような髪を上下に振る。
「あんた、カメラマンか?」
「ああ、風景が専門だけど、時々動物や人も撮ったりする」
「そうか」
興味があるのか無いのか咄嗟に判断が付かない返事に戸惑いつつも、柵の一部を開けて畑に入る男の広い背中に慌てて呼びかけた彼は、面倒臭そうに振り返る男に中に入っても良いかと再度確認を取り、顎でついてこいと示されたために慌てて荷物を担ぎ直して後を追いかける。
「俺はノア・クルーガー。ウィーン出身のフォトグラファーだ」
「……ハーロルトだ。ハールで良い」
「そっか。ハールは花専門の農家か?」
「ああ」
季節の花々を育てて出荷していると、手頃なひまわりを見つけては鎌で切って行く様を見ていたノアだったが、その作業がついつい珍しくてカメラを構えてしまう。
「俺なんか撮っても楽しく無いぞ?」
「そんな事ないさ」
楽しいかどうかは俺が決める事だとファインダー越しに見つめて来るハーロルトに笑いかけたノアは、気にせずに作業をしてくれと伝え、働く男の背中を構図の端に納めた写真を撮ったり、咲き始めたひまわりを写したりとハーロルトと同じぐらい忙しく動き回る。
二人の別々の作業がほぼ同時に終わりを迎えた頃、初夏の太陽は文字通り頭上で燦々と輝いていて、その眩しさにノアが腕をあげて日差しを遮るが、刈り取ったひまわりを束ねていたハーロルトが本当に良く似ていると呟き、ノアの視線に応えるように目を細める。
「俺の友人のリオンだ」
「ああ、さっきも言っていたな……そんなに似てるか?」
そのリオンという友人と俺はそんなに似ているのかと、汗を腕で拭いながら問いかけるノアに変わらない素っ気なさで頷くハーロルトだが、お前よりもう少し年上だが後ろ姿が本当に良く似ていると顎に手を宛てがいつつノアの頭の天辺から爪先までを見つめ、少しだけ彼に居心地の悪さを覚えさせる。
「髪の色と目の色も良く似ている」
「そうなのか。なんだか興味が湧くな」
その俺に似ているリオンという男はどんな男だと柵にもたれかかりながら突き抜けるような青空を見上げたノアは、隣で同じように柵に寄りかかるハーロルトが愉快な男だと答えたことに肩を揺らす。
「愉快か」
「ああ。……前は刑事をしていたが今はバルツァーの会長秘書をしているはずだ」
「バルツァーってあのバルツァーか?」
駆け出しの写真家である自分ですら名を知っている会社の会長秘書をしているなんてすごいなと笑うノアにハーロルトが確かにそうだと笑うが、柵から体を起こして伸びをする。
「そろそろ昼飯だ」
「ああ、そうだな……いや、仕事の邪魔をしてしまったな」
「いや、そんなに邪魔じゃない」
ノアが言葉と共に手を差し出すと、己の手が土に汚れていることに躊躇いを覚えているように戸惑うハーロルトに白い歯を見せて強引にその手を握る。
「今日はありがとう。まだしばらくこの街にいるつもりだから写真が出来れば持って来る」
「ああ」
気にしなくても良いが確かに写真は見て見たいとこの時になってようやくハーロルトの顔に笑みが浮かび、それを見たノアが内心呆気に取られるものの、何かに気付いて慌ててバッグを開け、名刺がわりにしているL判サイズの写真を差し出す。
それは、数年前に彼が休暇で訪れたカナリア諸島で写したものだったが、写真の整理をする時も何故か目に入って来るため、名刺がわりにしようと仕事仲間でもある彼女に名刺のようにデザインして貰ったものだった。
「……これ、あんたの写真か?」
「ああ。名刺がわりにしてるんだ」
「へえ……綺麗だな」
この光の階段を登れば確かに天国に行けそうだと、宗教に熱心な雰囲気などないハーロルトが心底感心して呟く言葉にノアの蒼い目が見開かれる。
「ヤコブの梯子、だったか?」
「あ、ああ、確かそうとも呼ばれているな」
早朝や夕方に条件が揃えば見ることの出来る薄明光線と呼ばれる自然現象だが、プロアマを問わず良く写真のモチーフになっているものだった。
カナリア諸島のホテルのテラスで早朝に目覚めてしまい、何と無く眺めていた穏やかな海から昇る太陽が短時間だけ見せてくれた極上の景色、それを脳裏に焼き付けるだけではもったいないとの思いから慌ててカメラを構えて何枚も写したものの一枚だったが、今でもそれを見るたびにノアの心をあの日の穏やかな海のように鎮めてくれるものでもあった。
己の心を鎮めてくれるそれを見て欲しい、ただその一心で知り合った人に配る名刺にしていて受け取った人々の反応を楽しんでいたが、今のように朴訥とした男の口から綺麗だと褒められた事がじわりと心を温め、ありがとうと照れながら礼を言うと、素直なリオンを見ているみたいで気持ちが悪いと眉を寄せられてつられて眉を寄せてしまう。
「……そんなに似てるのか?」
同じことを何度も聞き返すのは好きではないがそれ程似ているのかと三度問いかけたノアにハーロルトが今から知人のところに行くから付いて来るかと問いかけ、ノアが目を瞬かせる。
「いや、今日は他にも色々行って見たい場所があるから無理だ」
「そうか」
写真が出来上がれば見せてくれ、ここにいなければ近くの居酒屋で花を作っているハールを探していると言えばわかると言われ、再度土に汚れた手を握ったノアは、己と良く似ているリオンという男の背中を脳裏に描こうとするが見た事もないから分からないと当たり前の呟きを発して肩を竦める。
「じゃあハール、また」
「ああ」
何だかいつまでも心に残りそうな男との出会いにノアの心に名付けようのない思いが芽生えるが、ポケットに入れたスマホが電話の着信をバイブで教えてきた為、少し離れた日差しを遮ることの出来る大きな樹の下に入り込んでスマホを取り出す。
「ハロ」
『ノア? 今大丈夫か?』
「ウィル? どうした?」
少しだけ申し訳なさそうに電話を掛けてきたのは父で、日差しが遮られたことで感じられる涼しさに息を吐きどうしたと再度問いかけると、少し厄介な事が起きたからこれから警察と話をしなければならないと教えられて一瞬にして心地良さを吹き飛ばしてしまう。
「どうした!?」
『まだ何も無いから安心していい、ノア』
息子の緊張に大きくなる声を宥めるように苦笑した父は、明日の映画祭に絡んで脅迫状がマスコミに送られた、その事で話を聞きたいらしいと答え、後ろに妻でありノアの母であるハイデマリーがいる事を教えるようになぁマリーと呼びかける。
「マリーも一緒か?」
『ああ。脅迫状なんて本当に来るんだな』
今まで生きてきて初めてそんな嬉しくないファンレターを貰ったと、電話の向こうで憤慨している母の声にいつもと変わらないものを感じ取って安堵したノアは、前髪をかきあげつつ盛大な溜息を吐く。
「何もないと良いな」
『ああ。映画祭は警察も警備に協力してくれるらしいから、まあ大丈夫だとは思うよ』
ただ、マスコミに脅迫状が送りつけられ、脅されているのがハイデマリーであることから記事になってしまい、もしかするとお前の所にも記者が行くかもしれないから気をつけてと、父が同じフォトグラファー、母が女優というマスコミに近い場所で生きてきたノアだったが、両親が主役になったスキャンダルを今までにあまり経験したことはなかった。
ただ、母を付け回すようにいつでもどこにでもいたカメラマンなどの撒き方や扱い方はよく分かっていて、気をつけるとだけ返して通話を終えたスマホをポケットに入れると、バッグから取り出したティアドロップ型のサングラスを掛ける。
母に送りつけられた脅迫状の内容が気になるが父が側にいるのだから大丈夫だろうと半ば己を安堵させる為に呟いた彼は、気分を切り替えるように両手を突き上げ、さぁ次はどんな楽しみを分け与えてくれる景色に出会えるだろうかと鼻歌交じりに呟きながらトラムの停留所に戻って行くのだった。