テラーノベル
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#ファンタジー
#ダーク
冬はあらゆる音を吸い込み、世界を沈黙させる。尖塔のまわりに広がる森は、深い眠りに落ちていた。枝という枝は重い雪を抱き、風が通り抜けてもささやきすら生まれない。低く垂れ込めた均一な曇天が、昼と夕の境目を曖昧に溶かしている。遠巻きに見張る騎士たちの吐息だけが、規則正しく白くほどけ、やがて刺すような寒気の中へ散っていった。
黒煉瓦の尖塔は、変わらずそこに立っている。人の気配を拒絶するような重厚な石の壁。途方もない年月を孤独に過ごしてきた無口な佇まい。雪に覆われてもその形は揺るがず、ただ静かにその存在を示している。
不意に、入り口の重い扉が、軋む音も立てずに開いた。
誰が開けたのか、いや、そもそも本当に誰かが通ったのか。見張りの若い騎士は、幾度か瞬きをして首を傾げた。ただ、気づけば扉はわずかに開き、そして、淡い影のようなものが、すり抜けるように中へ吸い込まれていった”気”がしただけだった。咎める理由も、誰何する声も、なぜか喉の奥から浮かんではこない。
――王国の関係者が、管理に入ったのだろう。
そんなひどく曖昧で輪郭のない認識だけが、冷え切った思考の中にふわりと残り、騎士はすぐに尖塔への関心を失った。
音もなく、扉が閉まる。
塔の内部には、外の雪景色とはまったく別の、ひどく緩やかな時間が流れていた。分厚い石壁に囲まれた空間は、凍えるように冷たいはずなのに、不思議と刺すような寒さは感じられない。階段を上がる足音が、一つ、また一つと石床に落ちる。その響きには重さが欠けていた。まるで乾いた落ち葉が床を滑るような、中身のない薄い音。長く人の出入りがなかったはずの空気は妙に澄み切っており、埃の匂いすらしない。
暖炉の前で、その青年は静かに立ち止まった。迷いのない、幾千回と繰り返してきた手つきで薪を組み、火打ち石を鳴らす。ぱちり、と小さな火が生まれ、やがてゆっくりと暖かな炎へと育っていく。赤い光が冷たい石壁に揺れ、凍えていた室内に微かな温もりが満ち始める。だが、薪を組む彼の手を照らすその赤い光は――薄いガラスをすり抜けるように、彼の指先を淡く透過していた。
椅子を引く音がした。ぎぃ、というささやかな木のきしみが、高い天井へと吸い込まれていく。彼はそのまま腰を下ろすと、不器用に組んだ指先に顎を乗せ、暖炉の火をじっと見つめた。爆ぜる薪。舞い上がる火の粉。炎の照り返しを受けても、彼の足元に、濃い影は落ちていなかった。
窓辺にはあの黒猫がいた。丸くなりもせず、ただ静かに、雪の降る銀の世界を見つめている。室内に、ぱちぱちと薪の爆ぜる音だけが優しく響く。
ふと、猫が振り返った。縦に割れた金の瞳孔が、透明になりかけている青年の姿を、じっと静かに射抜く。
「……いたのか」
問いかけに咎める響きも、忌々しげな色もない。ただ事実を確認するだけの、掠れた声音。それは空気を震わせる音というより、過去の記憶の残響のように、ひどく儚かった。
青年の視線がゆっくりと室内を巡る。使い込まれた机。二つの椅子。古びた本棚。螺旋階段。どれも、何も変わっていない。そして、主のいないこの場所がもう二度と変わらないことを、誰よりも理解している目だった。
「感謝しているんだ。……何だかんだね」
話しかけても、当然答えはない。黒猫は、みゃあ、とも鳴かなかった。ただかつての主の半身であった、仮初めの幻の最期を見届けるように、一度だけゆっくりと長い尾を揺らした。青年はふっと目元を和らげ、不器用に口元を緩める。
それでいい。
彼は音もなく立ち上がり、使い込まれた食器棚へと歩み寄った。輪郭のぼやけ始めた指先が、二つのカップに触れる。彼女がいつも好んで使っていた、青い絵付けのある可愛らしいカップ。そして、自分用の無骨なマグ。
陶器に触れる感覚が、ひどく遠い。それでも彼は、慣れた手つきで茶葉を入れ、沸かしておいた湯を注いだ。芳しい香りが立ち上り、冷え切った部屋の空気をわずかに緩ませる。白い湯気は、まるで生きているかのようにゆらゆらと立ち昇り、やがて虚空へと溶けて消えた。
二つのカップを持ってテーブルへと戻る。一つを、自分の手元に。もう一つを、向かいの席に。誰も座っていない、空っぽの椅子。
「冷めるよ」
静かな声が、暖炉の音に混じる。いつもの、少しだけ口うるさい、世話焼きな響きで。返事は、ない。
暖かな湯気だけが、不在の少女の輪郭をなぞるように、優しく揺れている。彼は自分のマグに口をつけ、苦い茶を一口啜った。熱い液体が喉を通るはずだった。けれど、もはや実体を失いかけている彼の身体は、その温もりをはっきりと知覚することはできない。
それでも、舌先に残る微かな苦味の記憶だけが、自分がまだここに生きて留まっていることを、彼自身に優しく錯覚させてくれた。
外では、雪にまみれた騎士たちが持ち場を交代している。そのうちの一人が、ふと尖塔の高い窓を見上げる。磨かれたガラスの向こうに、揺れる暖炉の明かりと、誰かの淡い影が見えた”気”がして、少しだけ安心する。
――管理は、今日もきちんとされているようだ。
理由もなくそう納得し、騎士は視線を戻して、また厳しい寒さの中へ立哨に戻っていった。
尖塔の中では、時間がひどくゆっくりと積もっていく。降り積もる雪のように、音もなく。優しく。青いカップの湯気が完全に消える頃。暖炉の前で、その不器用な青年は満足げに、静かに目を閉じた。黒猫は何も言わず、変わらず窓の外の雪を見つめ続けている。
冬はすべての音を吸い込み、秘密を抱えた尖塔はもう何も語らない。それでも、そこには確かに、誰かの存在した記憶だけが残っていた。
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