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さっきまでの高揚が、ふと静かになる。窓際のソファに腰を下ろしたのは、少し人の流れから離れたかったからだった。
足元には柔らかな絨毯。
壁沿いには淡い照明に照らされたアートパネルと、静かに広がる夜の都心。
会場の空調は少し冷えていて、露出の少ない服装にしてきて正解だったと思う。
秋の始まり、昼間とは違う空気が肌をひんやりと撫でていく。
パーティはまだ本格的に始まっておらず、カクテルグラスを片手にした人たちが、数人ずつの輪をつくって立ち話をしている。
会話の合間に名刺が交わされては、笑い声がやわらかく響いた。
窓ガラスに映る自分の姿をふと見て、さっき岡崎に言われた言葉を思い出す。
──「女の子らしい格好してらっしゃるなって。いいじゃんって褒めてんですよ」
胸元を押さえる。じんわりと、そこに熱が集まっていく。
メイクも、髪も。
いつもより少しだけ時間をかけた。
誰に見せたいわけでもないふりをして、
心のどこかで期待していたのかもしれない。
そんな小さな変化に、あっけらかんと気づいてくるなんて。
……ずるい。
さりげなく、何でもないように。
でも確かに届いてしまったその言葉が、
思っていた以上に、胸の奥を揺らしていた。
ニヤけそうになる口元を、あわてて両手で押さえる。
……だめだ、怪しいやつに見える。
わざとらしく咳払いをして、視線をそっと夜景に戻した。
そのときだった。
「……あの。ここ、お隣よろしいですか?」
不意に声をかけられて顔を上げる。
やわらかく巻かれた髪が肩にかかり、くすみピンクのブラウスをまとった女性が、こちらを見て微笑んでいた。
ひと目で「魅力的な人だ」と思った。
飾り立ててはいないけれど、ふわりとした佇まいに視線を持っていかれる。
「…あっ。もちろん。どうぞ」
間が空いてしまい慌ててそう答えると、女性は小さく会釈をして、グラスを手にそっと腰を下ろした。
ナチュラルなアイライン。細い手首には繊細なゴールドのブレスレット。
見とれてしまうほどではないのに、なぜか目を引く。そんな人。
「いいですね、ここ。夜景見えるし、人も少なくて」
「たしかに。ちょうど静かで落ち着けますね」
「私、こういう場に来ると、最初に“安全地帯”探しちゃうんです。あっちの真ん中のほうとか、緊張して無理で」
「わかります……知り合いが多い人はいいけど、そうじゃないと居場所に困っちゃいますよね」
「そうなんですよ。で、こうやって同じタイミングで座ってる人がいると、それだけでちょっと安心してしまって」
「……たしかに」
「ふふ、勝手に仲間意識持っちゃってます。なんかすみません」
くすっと笑いながら、グラスを指先でくるくると回す。
柔らかい声も、その仕草も、間の取り方も、どこか自然で、力が抜けている。
こちらが言葉を選ぶ間も、焦らせるような気配は一切なく、むしろそこに静かに付き合ってくれるようなやわらかさがあった。
親しみやすくて、どこか品があって、
でもそれを“見せよう”ともしない。
気負いも飾り気もなくて、それでいてちゃんと目を引く人。
……自分には、そういう風には、たぶんできない。
何かを言う前に構えてしまうし、場に馴染もうとして空気を読みすぎる。
一歩近づくのに、どうしても少し時間がかかる。
そんな自分とは、たしかに正反対だった。
それでも、嫌な気持ちはまったくしなかった。
むしろ、こんな人が近くにいたら、少し心がほどけるかもしれない──
そんなふうにさえ、思ってしまった。
ふふっと笑い声がもれて、思わず顔を見合わせる。
初対面とは思えないほど、空気がやわらいでいた。
「…取材で来てるんです。COTOっていう小さな編集部なんですけど」
彼女がそう言いながらこちらを見た、その目線がふと胸元へと下がる。
『LIVEL|GUEST』のプレートを見つけたらしい。
「あ、そうだ。ちゃんとご挨拶しなきゃ。私、──」
「藤井ー!あっちにドリンクあったから適当に…」
ふいに背後から声が飛んでくる。思わず、ふたり同時に振り向いた。
岡崎だった。
けれどその声は、途中でふっと宙に浮いたように途切れていた。
「あれ……」
もう一歩、踏み出しかけた岡崎の足が、ぴたりと止まる。
「……彩夏?」
その名を口にした瞬間、空気が微かに変わった。
「…え。うそ……ろくちゃん?…ろくちゃんだぁ!」
彩夏が立ち上がる。驚いたように、でもすぐに笑顔がはじけた。
手にしたグラスをそのままに、声のほうへ向かって小さく駆け寄る。
岡崎は数歩先で固まったまま立ち尽くしている。
両手に二つグラスを持ったまま、息をのんだような顔で彩夏を見つめていた。
その瞬間、世界から音が消えたように見えた。ふたりの視線だけが、ほかの何も映さないまま交差していた。