テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
鷹槻れん

33,297
#極道
鷹槻れん

14,261
鷹槻れん

15,717
月詠 涼
867
朝の気配が、玉砂利の上を覆うようにゆっくりと庭に満ちていく。
田畑邸の広大な庭は、冬の乾いた冷気に包まれて、どこか音までも凍りつかせたような静けさを保っていた。
陽の光はまだ低く、植栽の影が長く伸びている。冷え切った冬特有の凛とした空気を伝って、どこか遠くから街のざわめきが微かに届く。通勤の人々が動き出す時間帯だ。
玉砂利の合間・合間に配された飛び石を、ふたつの影が寄り添うように踏み締めていく。
孫の芽生と、相良京介。肩を並べたその背中は、まっすぐに数奇屋門へ向かっていた。
田畑栄蔵は、邸内の玄関先からじっとその姿を見送る。
作夜一晩預かって、生まれてから今までの、色々な話をしてくれた。失われた孫と祖父としての時間を埋めるにはまだ時間が足りなさ過ぎたけれど、相良が迎えに来て嬉し気にこの家をあとにした〝あの子〟の背中は、微塵も迷いがなかった。
二十数年前、突然失った愛しい息子・栄一郎の面影を彼女に重ねて恋しさを募らせているのは自分だけみたいで、何となく寂しい。
芽生だってそれなりに想うところがあるだろうに、彼女は何かを振り切るでもなく、無理に強がるでもなく、ただ自分の意志で隣に立つ男の腕を取っていた。
――神田芽生。
その名は、栄蔵が与えたものではない。
へその緒がついたまま、冬の明け方に児童養護施設『陽だまり』の前へ遺棄されていた赤子に、市長が仮戸籍を通して与えた唯一の〝識別子〟だった。
けれど、その不遇ともいえるべき己の境遇を嘆くでもなく、彼女が誰よりも誇りを持ってその名を背負っていることを、栄蔵は昨日芽生から聞かされて知っている。
DNA鑑定の結果、芽生が栄蔵の亡き息子・栄一郎の娘であるというのは明確な事実だ。それをもって芽生と本当の親族になりたいと告げた栄蔵に、芽生は戸惑いながらも頷いてくれた。多少時間はかかるかも知れないが、戸籍上もその血縁が正式に認められるよう手配すると芽生に約束をした栄蔵だ。そうしなければ、芽生に渡せないものがある。
遺産云々は栄蔵にとって大事なことがらのひとつだが、芽生にとってはそれよりも〝栄蔵と本当の血縁になる〟と言うことの方が重要そうだった。
だが、それをもってしても、芽生は名を変えるのは嫌だと言ったのだ。
戸籍を変えるついで。「いっそのこと〝田畑芽生〟にならないか?」と問い掛けた栄蔵に、芽生はフルフルと首を横に振った。
「私、今までずっと〝神田芽生〟として生きてきました。世間的に見れば仮初めの名前なのかも知れませんが、私、沢山の人が呼んでくれたこの名前が好きなんです」
それは、彼女の〝選択〟だった。
芽生のことを神田芽生と呼んでくれた〝沢山の人〟の筆頭は、きっといま芽生を連れて行った相良京介だろう。
そう思うと、何となく嫉妬すら覚えた栄蔵だ。自分が孫娘の存在に気付くずっとずっと前から、あの男は芽生のそばにいたのだ。
芽生にたどたどしく〝おじいちゃん〟と呼ばれながら、相良のことを「京ちゃん」と親し気に呼ぶ芽生の顔を思い出して自然吐息が漏れる。
だが、栄蔵にとって芽生の意志は絶対だ。
今はただ、彼女が自分の戸籍に名を連ねてくれると言ってくれただけで良しとしよう、と思った。
芽生が神田という姓を捨てない覚悟。それは過去と未来……、両方を背負うという宣言にも感じられた。
だからこそ、栄蔵は芽生のその想いを、誰よりも尊重してやりたい。
そして、そんな芽生が選んだのだ。
自分の隣に立つ者として、相良京介という男を。
物心ついてからずっと……慣れ親しんできた神田という苗字を塗り替えるのは、田畑ではなく相良という苗字だと。
そう分かっていても尚――芽生を〝田畑芽生〟として嫁がせてやりたいと思ってしまったのは爺のワガママだろうか。
栄蔵は、手の中に残る違和感を振り払うように、ゆっくりと息を吐き出した。
使用人が控えていた背後で、数奇屋門がきぃ、と音を立てて閉じられる。続いて閂が掛けられる重々しい音が響いた。
その音が、ひどく遠くに感じられてしまった栄蔵である。
ふと見上げた視線の先には、もうあのふたりの姿は見えなかった。
「栄蔵さま。お部屋を温めております。外は冷えますし、どうぞお戻りくださいませ」
いつも身の回りの世話をしてくれている執事の声に、栄蔵は黙って頷いた。
凍りついたような空気のなか、足元の玉砂利がざリ、と乾いた音を立てる。
屋敷へと戻る途中、ふと見上げた空はどこか鈍く白んでいた。
雪は、まだ降っていない。だが、恐らく白いものが舞い始めるのも時間の問題だろう。
栄蔵は邸内に入ると、自室へ戻る前に電話台のところで立ち止まった。昭和レトロな雰囲気を醸し出す黒電話には、栄蔵が唯一愛した女・幼なじみの澪が作ってくれたキルトカバーが掛けられている。澪が死んで四十年以上になるけれど、どうしても捨てることが出来ず、ボロボロになった今も古めかしい黒電話とセットで使い続けているものだ。
栄蔵はしばし無言でその黒電話を見つめてから……やがてゆっくりと受話器を取った。
回す番号は記憶の中に深く刻まれている。
ここ数年、直接のやりとりは減ったけれど、若い頃はよく一緒に飲んだ相手だ。電話番号帳なんて確認しなくても、手が自然と動いた。
「はい」
数度のコールの後、低くどっしりとした声が応じた。懐かしいその声も、やはり数十年分は年を取って貫禄が付いていた。そこで、それは自分も一緒だと気が付いて苦笑した栄蔵である。
「……田畑です」
『おぅ。番号を見てもしやと思ったが……珍しいな。お前から直接掛けてくるなんざ、何十年ぶりだ?』
言って、すぐさま思うところがあったんだろう。ほんの少し低められた声音で『のっぴきならねぇ用事でも出来たのか?』と切り出される。
「はい。実は……頼みたいことが出来まして」
『……頼みたいこと?』
「ええ。……電話では何なので……出来れば会って直接話したいのです」
それだけで相手は何かを察してくれたらしい。
『場所は俺んトコで構わねぇか?』
「もちろんです。こちらがお願いに上がるんです。いくらでも出向きますよ」
『そうか。大会社の社長様が来るとあっちゃー、うちも粗相がねぇようにしないとな』
そこで電話越しにククッと笑う声がして、『ま、冗談はさておき、今すぐってぇのは無理だが……午後なら空いてる。構わねぇか?』と続けられた。
「はい、構いません。――では十四時ころに」
『分かった』
たったそれだけの会話。
だが、互いに疎遠期間はあれど、長い付き合いだ。言外の意図も通じ合っているようだった。
電話を切ったあとも、栄蔵の視線はしばらく受話器に落ちたまま――。
ややして小さく吐息を落とすと、グッと拳を握りしめた。この冬の朝に自分が動き出す意味を、改めて心の中で確かめていた。
***
遅めの昼食を済ませた栄蔵がコートを手に玄関へ向かうと、執事が声を掛けてくる。
「……プライベートと窺っておりましたので、タクシーを手配しております」
「助かる。有難う」
仕事での所用でない以上、運転手付きの社用車の使用はなるべく避けたい。
公私の線引きが難しいところではあるけれど、少なくとも今から出向く場に、『さかえグループ』の関係者はふさわしくないだろう。
執事が深く頭を下げるのを横目に、栄蔵は玄関扉を開けた。
途端、まるで待ち構えていたように冷気が押し寄せてきて、栄蔵を包み込む。
吐く息が白く煙って、代わりのように吸い込んだ空気が冷たい。ただ一息分外気を体内に取り入れただけなのに、鼻の奥がツンと痛んだ。
生理的に滲んだ涙で視界がほんの少しぼやけたけれど、栄蔵の足取りは確かだった。
何のためにどこへ向かうのか。それを他者に語るつもりはない。
ただ、今この瞬間――自分が動かなければならないという義務感にも似た気持ちだけに、栄蔵は突き動かされていた。
***
その日の昼過ぎ、田畑栄蔵は我が家にも勝るとも劣らない立派な門――薬医門を持つ、どこか武家屋敷を彷彿とさせられる威風堂々とした日本家屋を訪れていた。
だが、中も全て〝和〟かといえばそういうこともないらしく、通された応接室は洋室と呼ぶにふさわしい佇まいだった。天井からぶら下がったシャンデリアと、革張りのソファ、間接照明に照らされた薄暗い空間というのが、なんとも緊張感を高めてくる。
加えて防音仕様にでもなっているのか、先程通り抜けたこの部屋の扉はやけに重く、分厚かった。いかにも〝人に聞かれたくない話〟をする部屋と言った雰囲気だ。
二十平米ほどの、応接室にしては広い室内は程よく空気が温められていて、家主が自分を迎えるためにこの場をセッティングしてくれたんだと分かる。
「……今日は運転手付きの車じゃなかったんだな」
紫煙の向こうからククッと低く笑ったのは、この家の主であり葛西組組長でもある男――葛西了道だった。
黒い革張りの椅子にゆったりと背を預け、栄蔵を迎え入れたその姿は、年齢を感じさせない威圧と静けさをまとっていた。
「今日は〝私情〟で伺いましたので」
栄蔵はそれだけを告げると、コートを脱ぎ、了道の真正面へ腰を下ろした。
「そういやぁお前、風の噂に血を分けた孫娘を見つけたって聞いたが、本当か?」
十年以上音沙汰がなかった相手からの、突然の電話。何か裏があるに違いないと思った了道は、栄蔵からの電話のあとすぐ、配下の者へ命じて田畑栄蔵の身辺を洗わせていた。孫の情報はそのとき掴んだものだ。
「はい、故あって親から引き離され、ずっと孤児院で育っていたようです。先日たまたま縁を頂きまして再会を果たしたばかりです。戸籍などにはまだ手を付けられていませんが、栄一郎との死後認知の手続きをして、正式に血の繋がった孫として田畑の戸籍へ迎え入れる予定です。身内の欲目と言われるかも知れませんが、息子によく似た別嬪さんです」
その言葉に、自身も我が子のことを思い出したのか、了道がスッと瞳を細めた。
「……女の子ってぇのは、いてくれるだけで場が華やいでいいもんだよな」
「はい」
二人の間に交わされる言葉は、久々に再会した者同士としては、かなり少ない方だろう。
だが、旧知の間柄のふたりが醸す空気は、他の誰も割って入れない濃度をもっていた。
「……で? この流れから察するに……さしづめお前が話してぇのは、うちの若頭――相良京介のことだろう?」
しばしの沈黙のあと、先に本題へ切り込んだのは栄蔵ではなく、了道だった。
栄蔵は了道の言葉を否定も肯定もせず、ただ静かに目の前に置かれたウイスキーが注がれたグラスへ指を添える。グラスの中で、カランと氷が渇いた音を立てた。
ゆらゆらと琥珀色の液体が氷で希釈されていく様をしばし見詰めていた栄蔵からつぶやかれた言葉は、「その、相良という男は……どんな人間ですか?」というものだった。
もちろん、栄蔵だって相良という男を知らないわけじゃない。目の前で何度も見たし、なんならお互い結構腹を割った会話もしたと思う。
だが、それはあくまでも〝堅気の自分〟と接する、余所行きの顔をした相良だと思っている。
「あ? 相良か? あいつは今どき珍しいくれぇ義理堅い男だ。腕っぷしも立つし、頭も切れる。……けどなぁ。うちの組ぃ背負わせるにゃー、ちぃーと情が深すぎるかも知れん」
それは、了道の本音だった。
自分が引退すると決めた時、後釜は若頭の相良京介か、もう一人の幹部・若頭補佐の三枝克巳のどちらかから相応しい方に、と意思表示をした。
筋から言えば、了道自身が若頭の相良に軍配を上げてやればいいだけ。最初から対立候補なんて擁立しなければ組内を揉ませることもなかっただろう。
だが、一筋縄ではいかないのがこの世界なのだ。
了道が鶴の一声で、自分が盃わけをした相良に跡目を継がせると宣言し、幹部会で承認を得たとして……果たして相良に葛西組を統治できるだろうか?
力量自体は申し分なく備わっているとは思うけれど、先に述べたような不安要素があるのは否めない。
相良に組を背負わせれば、荷が勝ちすぎて……やがては相良の心を潰してしまう気がするのだ。
了道としては、相良京介には娘のことで恩義もある。相良自身は自分をこの世界へ引き入れてくれたことでそれはチャラだと考えているようだが、了道としてはイマイチ納得出来ていないのだ。
あれは相良自身の選択ではあったけれど、〝やむを得ず〟出した結論だというのも知っている。
コメント
2件
葛西組組長さんとめいちゃんのおじいさまのやりとり。 なんか雰囲気がすごく好き!
鷹槻れんさん、こんにちは。第50話「水面下の密約①」、拝読しました。 芽生が「神田芽生」という名前を自分で選び取る場面、とても胸に響きました。仮初めの名前として誰かに与えられたものではなく、自分を呼んでくれた人たちと一緒に生きてきた証としての名前——その誇りが、栄蔵さんに「おじいちゃん」と呼ばれながらも揺るがないところが、彼女の強さと優しさを感じさせました。 そして、栄蔵さんが祖父としての寂しさや嫉妬を抱えながらも、芽生の選択を尊重し、自ら動き出す覚悟を固めるラスト。電話越しの了道さんとの空気感も絶妙で、これからどうなるのか、続きが気になって仕方ありません。 おじいちゃんとしての複雑な心情が本当に繊細に描かれていて、温かくも切ない余韻が残りました。次回も楽しみにしています🌷