テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
「その肩の子は、行かないの?」
レイチェルが指差したのは
時也の左肩にちょこんと止まっている
一羽の烏だった。
他の烏たちは既に空へと舞い上がり
黒い点となって見えなくなったというのに
その一羽だけは
主の肩から離れようとしない。
首を傾げるようにレイチェルを見返し
艶やかな羽根を微かに膨らませている。
時也はその様子に
ふふっと喉の奥で笑うように息を吐いた。
「この一羽は⋯⋯例えで言うなら
〝受信用〟です」
「受信⋯⋯?」
「空へと散った兄弟たちが何を見
何を聞いたか──
それらの情報は
この子に伝わってくるのです。
そして、僕に。
彼らの〝目〟と〝耳〟を
僕の傍に残しておくための
いわば〝結節点〟のような存在ですね」
時也の指が
そっと烏の喉元を撫でると
その一羽は満足げに目を細めたように見えた
レイチェルは口を半開きにしたまま
その光景を見ていた。
ただの式神──
そう言ってしまえばそれまでなのに
どこか〝生きている何か〟の気配を
濃く感じてしまう。
それを自然に従え
当然のように使いこなす男の姿に
再び背筋にひやりとしたものが走った。
彼の肩のその一羽。
それは
時也の〝目〟であり〝耳〟であり──
何より
彼の沈黙の中に潜む〝何か〟の象徴のように
思えてならなかった。
⸻
──その夜。
レイチェルは夢を見ていた。
暗い。
けれど、静かではない。
沈んだ空間に、ただひとつの音があった。
──滴る音
それは、涙の音だった。
視界の先に、アリアが膝を折っていた。
静かに、ただ静かに、泣いていた。
深紅の瞳から流れる雫は、頬を伝い
彼女の足元に落ちて──
宝石となって砕けた。
砕けた宝石は、床一面に音もなく転がり
まるで失われた想いの欠片のように散らばる。
その光景を
レイチェルは〝下〟から見ていた。
まるで鏡合わせのように上下反転した世界。
自分とアリアの間には
水面が横たわっていた。
透明で、澄んでいるのに
決して越えることのできない冷たい隔たり。
まるで〝この世界とあの人の世界〟を分かつ
絶対の境界のように。
「──ない⋯⋯」
アリアが呟く。
その唇から零れた言葉は
音ではなく、刃だった。
「こんな世界など⋯⋯要らない」
(アリアさん、お願い──
そんなこと言わないで⋯⋯)
レイチェルは水面の向こうに手を伸ばす。
けれど指先が触れたのは、波紋だけ。
手は届かず
ただ水面が静かに揺れるだけだった。
──その時
自分の手が
〝自分のものではない〟と気付く。
肌の白さ、指の細さ、爪の形──
それは、自分ではなく、アリアの手だった。
鏡の中のように、
自分の姿はアリアに変わっていた。
「こんな世界など⋯⋯
燃え尽きればいい──っ!」
アリアの叫びが響いた瞬間
視界が灼けるように白んだ。
そして、重い絶望が奔流のように流れ込む。
その感情は、身体を引き裂き、魂を砕く。
呼吸ができない。
苦しい。
胸が、裂けるように痛い。
次いで、背に焼けるような激痛。
(なに、これ⋯⋯熱い⋯⋯痛いっ──)
肉が裂け、骨がきしむ音と共に
レイチェルの背中から何かが突き出した。
──翼
紅蓮の炎を纏いながら
不死鳥の翼が背を割って顕現する。
焦げる肉の匂い。
骨の軋む音。
焼かれながら、それでもレイチェルは叫んだ。
「アリアさん、お願い⋯⋯っ!
世界を、捨てないで──!」
水面を叩く。
何度も、何度も。
その手のひらは、アリアには届かない。
けれど、諦めきれずに──叩き続けた。
そのとき。
ふわり、と。
風に乗って舞う桜の花弁が
アリアの肩に降りた。
そして、その肩に静かに手を置いたのは──
時也だった。
藍の着物を纏い
いつもの穏やかな微笑を浮かべて。
レイチェルはその姿に、胸が詰まった。
(⋯⋯良かった。
時也さんが来たなら──
アリアさんは、大丈夫⋯⋯)
安堵した、その刹那。
「──ならば、僕がこの世界を壊しましょう」
それは
いつものコーヒーのおかわりを尋ねるような
口調だった。
優しい声だった。
けれど──その優しさが、恐ろしかった。
「時也さん!お願い、やめてっっっ!!」
レイチェルが必死に叫んでも
二人には届かない。
水面の向こう、世界は彩りを取り戻していく。
だが、それは命の色ではなかった。
──緑の奔流。
世界中の植物が、一斉に牙を剥いた。
根が穿ち、枝が裂き、蔦が絡み
世界そのものが時也の意思に従って
うねり始める。
その緑を燃料にするかのように
アリアの炎が舞い上がる。
紅蓮の翼が広がり、全てを焼き尽くしていく。
炎の中、世界が崩れていく──⋯
だがその中心で、時也は微笑んでいた。
燃える世界の中で
優しく、慈しむように
アリアを抱きしめていた。
「やめて⋯⋯っ!」
「やめて、やめて、やめてっ!!」
水面を叩くレイチェルの掌から
血が滲んでも──
彼女の叫びは、届かない。
ただ──
世界は静かに
微笑みと共に終わっていく。