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「──お願い、やめてっ!!」
張り裂けるような悲鳴と共に
レイチェルの手が宙を裂いた。
だが、指先に触れたのは炎でも
水面でもなく──
ただ、冷えた夜の空気と
見慣れた天井だった。
彼女の呼吸は浅く
喉がひゅうひゅうと鳴る。
汗ばんだ肌に
夜気が刺すように冷たかった。
身体は内側から焼けるように熱いのに
指先は氷のように震えている。
胸の奥がひりつく。
あの炎が、あの微笑が
まだ網膜の奥で焼き付いて離れない。
どうしようもなく怖かった。
怖くて、苦しくて、そして──泣きたかった。
「⋯⋯ソーレン⋯⋯」
レイチェルは飛び起きると
足元もおぼつかぬまま部屋を飛び出した。
廊下を裸足のまま駆ける。
足がぶつかっても、冷たい床を踏んでも
何も感じなかった。
迷いも躊躇もなかった。
夜の静けさも、ドアを開ける音も
頭の中にはなかった。
ただ──あの腕の中に逃げ込みたかった。
ソーレンの部屋の扉が勢いよく開く。
次の瞬間には
レイチェルはベッドに潜り込み
ソーレンの胸に思い切りしがみついていた。
「───っ!⋯⋯おい、レイ⋯⋯!?」
寝惚けた声。
驚きの混じった低音が
ベッドの中で響いた。
だが、レイチェルは構わなかった。
がしっと抱きついて
顔を彼の胸元にぐいと埋める。
細い指先は
ソーレンのシャツをしがみつくように掴み
離さない。
ソーレンは一瞬
戸惑ったようにその身をこわばらせ──
それから、ふっとひとつ、深く息を吐いた。
そして、彼女の華奢な身体を
自分の広い腕でぐっと抱きしめ直す。
「⋯⋯ったく」
小さく呟き
レイチェルの後頭部に顎を乗せる。
その大きな手が
ゆっくりと彼女の背を撫でた。
「どうせ甘えんなら、夜這いに来いよな?
⋯⋯可愛い顔になるまで
そうしてりゃいいさ」
その声は低く、気怠げで
けれど優しかった。
胸に顔を埋めたまま
レイチェルは小さく首を横に振る。
震える声で、ぽつりと呟いた。
「⋯⋯夢、見たの。
アリアさんが⋯⋯世界を、焼き尽くす夢」
「⋯⋯あ?」
「時也さんも一緒に
優しい笑顔のままで、全部壊していくの⋯⋯
止めても、呼んでも⋯⋯
届かなくて⋯⋯怖くて⋯⋯」
ソーレンの手が一度止まり──
次の瞬間、強く、強く彼女を引き寄せた。
「馬鹿。
そんなもん、夢に決まってんだろ。
俺がいるだろ」
レイチェルは胸元で嗚咽を洩らした。
ソーレンの体温は大きくて、重たくて
けれど安心できた。
彼がいるこの場所だけは、まだ──
炎に包まれていない。
世界が壊れない。
そう、信じられる気がした。
「⋯⋯ここにいて⋯⋯
もう少し、抱いてて⋯⋯」
「バカ。離すかよ。
朝まで、何があってもずっとだ」
そう言って、ソーレンは自分の毛布を
そっと彼女の背にかけた。
夜の冷えと悪夢から、彼女を守るように。
ただその腕の中で
レイチェルは小さく震えながら──
ようやく、眠りに落ちていった。
⸻
「⋯⋯は」
ベッドに背を預けながら
ソーレンは吐息のように短く声を漏らした。
隣では
レイチェルが彼の胸に顔を埋めたまま
静かな寝息を立てている。
さっきまで泣いていたとは思えないほど
今は穏やかな表情だった。
ソーレンは
彼女の肩に掛けた毛布を直しながら
夜の闇を見上げた。
薄いカーテン越しに月が浮かび
天井の角にぼんやりと光を投げかけている。
──夢の中で見た世界が
現実にならない保障は、どこにもない。
アリアが泣きながら世界を焼き
時也が微笑みながら
彼女と共に壊していく光景。
そんな夢を見てしまったレイチェルは
怯え切っていた。
いや、あれは──
〝予感〟に近いものだったのかもしれない。
「本当にやりかねねぇよな。
あの嫁狂いはよ⋯⋯」
ソーレンは呟いた。
心底呆れたように
けれど吐き捨てるような怒りはなかった。
口元に浮かぶのは、疲れきった笑み。
何度も繰り返してきた苛立ちと諦めが
もはや皮肉に変わるほどには
彼は二人を見てきた。
──アリアと時也。
世界で一番狂っていて
世界で一番純粋な、夫婦。
「でも、本当にやる馬鹿じゃねぇって
俺は信じてる」
その声には
苛立ちとは別の感情が込められていた。
それは、確信に近い〝願い〟だった。
アリア。
あの女は、壊れるほどの絶望を知っている。
自らの手で同族を焼き、血で血を洗い
罵られ、裏切られ
死ぬことさえ赦されず──
ただひとりで
永遠の業火の中に立ち尽くしていた女。
その哀しみを、あの紅い瞳の奥に
ソーレンは確かに見た。
氷のように無表情で
言葉ひとつ交わさない彼女が
時也の腕の中で──
ふと
目を伏せて小さく震える瞬間を
あの微かな息遣いを。
アリアは、世界を憎んでいる。
人間を、歴史を、あの神を──
それでも
彼女はまだ〝完全には〟見捨てていない。
誰よりも孤独で、誰よりも壊れやすくて。
それでも、傷ついたまま
なお世界のどこかに希望を探し続けている。
そんな彼女が
本当に世界を壊すとしたら──
それは、ただひとつ。
ー時也を、失った時だけだー
あの狂信者。
誰よりも深く結ばれ
誰よりも強く依存している存在。
アリアが唯一、心を読まれることを許し
時也だけが、彼女の〝無言〟を
真正面から受け止めることができる。
彼は
アリアにとって最後の〝人間性〟だ。
もしその存在が消えてしまえば
アリアはきっと〝本当の神〟に堕ちる。
──冷酷で、容赦なく
誰の祈りも届かない存在に。
「⋯⋯時也を殺せば、アリアは神になる。
だけど、それはもう⋯⋯人間を救えねぇ」
そう、ソーレンは思っていた。
だから──
「⋯⋯ま、万が一にでも
アイツらがバカやるようなら
俺が殴ってでも止めるさ」
その言葉は、冗談ではなかった。
胸にしがみついて眠る
レイチェルのぬくもりを感じながら
ソーレンは、そっとその頭を撫でる。
「レイチェルがこんな夢を見るってことは
何か〝兆し〟があるのかもな⋯⋯」
彼女の能力は、ただの擬態ではない。
深く相手の〝真実〟に触れるからこそ
危うい影すら拾ってしまう。
「⋯⋯ったく。
俺の可愛い女が泣かされるなんて
冗談じゃねぇ」
ソーレンの瞳が細められる。
そこには、決して揺るがない強さがあった。
たとえ相手が、櫻塚時也であっても──
あの、桜の下に微笑む
最狂の陰陽師であっても。
「その時は
俺が正面から立ちはだかってやるよ」
誰に止められようとも。
アリアが本当に壊れてしまう前に。
レイチェルが
夢の中のような涙を流さなくてすむように。
友として。
家族として。
──そして〝仲間〟として。
ソーレンは静かに
レイチェルを抱きしめながら誓った。
夜はまだ深い。
だが、胸に灯る決意だけは
夜明けよりも確かに、温かく燃えていた。