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冷たい夜風が城郭の石壁をなで、まるで囁くように響く。初夏の舞踏会を前に、王宮南棟は華やかな装飾で彩られていた。白と黒、光と影――対照的な色調を巧みに配し、大広間の柱には百本以上の白い薔薇と黒い百合が編まれている。天井から垂れるシャンデリアにはクリスタルのしずくが灯りを反射し、一瞬ごとに大理石の床を煌めかせる。
レティシア・ヴァレンティーヌは、鏡張りの控えの間に佇んでいた。漆黒のドレスは深い絹とレースでできており、肩から腕を繊細に包む。胸元に輝く星型ブローチが、柔らかな光を放っている。髪は黒曜石のように艶やかで、夜の帳を切り裂く緊張感が帯びていた。彼女の手には、小さな扇が握られている。断頭台で「悪女」と呼ばれた者が、その夜、何を抱えて床に降り立とうとしているのか。
(これが――舞踏会という名の戦場)
深呼吸しながら、彼女はゆっくりと扉へ向かい、一歩、また一歩と進んでいく。広間の扉が開かれた瞬間、視線が一斉に集まった。貴族令嬢、軍人、外交官――あらゆる目を一身に浴びる。「王太子に招かれた令嬢」その事実だけで、ここに立つ者たちには大きな意味がある。
白砂糖のような甘やかな微笑みを向ける者、薄氷を踏むような視線を隠す者、侮蔑の声をひそひそ囁く者。言葉ではなく、視線が刻む敵意と羨望。その波をレティシアは冷静に読み取る。これが前世には見えなかった、社交界の真の顔。
(……でも、私は準備をしてきた)
彼女の胸には、静かな自信が灯っている。使者であった青年の一言、「試される」――その意味を心得ている。陰謀と誤解の水面の下で泳ぎ切れる力を、あの夜、断頭台の縁で誓ったのだ。安易な同情など、もう足枷になるだけ。
音楽が高まり、第一のダンスを締めくくったルシアン・グランディールが、黒の礼装に包まれて現れる。彼は銀の剣と王家の蒼玉のリングを胸元に配し、まるで王国そのものを背負うかのような威厳をまとっている。闇と光の狭間から浮かび上がる彼の姿は、社交界のすべてを象徴する。
「レティシア・ヴァレンティーヌ令嬢」
彼女の名を口にしたその声は、鋭くも冷静だった――だが確かに、昔よりも色を帯びていた。ルシアンの視線は、ただ冷たいだけではない。迷い、期待、そして――計り知れない重みを含んでいる。
(彼が、何を思うか――)
彼女はわずかな間、逡巡したふりを見せる。そして静かに、頷いた。
「喜んで、お受けいたします、殿下」
火花が散ったような瞬間、音楽が再び奏でられる。レティシアはルシアンの腕に手を置かれ、しなやかに踊り出した。大理石の床の冷たさも、足下をすべる緊張も、全てが完璧な舞台装置に思えてくる。
回転し、漂い、視線がぶつかる。漆黒のドレスの裾が床に波紋を描き、群衆の注目を一身に集める。その瞳は語っていた――私はここに、この一瞬の中心にいる。
舞踏の最中、ルシアンの囁きは静かに届いた。
「君は何者だ、レティシア」
その問いは、一言の台詞以上の意味を持っていた――これは試練であり、問いであり、そして兆しだった。
彼女は微笑んで答える。
「私は、ヴァレンティーヌ家の娘です」──その瞬間、ルシアンの瞳に一瞬の揺らぎが宿った。それは記憶の影、一度だけ見た光。その光を呼び起こすのが、今のレティシアの目だった。
舞踏を終えたあと、レティシアは控室ではなく、広間の片隅へと歩を進めた。様々な視線が飛び交う中、彼女は静かにハーブワインを傾けた。
そこへ声をかけてきたのは――カミーユ・ド・ノア。緋色のドレスに黒髪を揺らし、優雅に笑う伯爵令嬢。
「お噂は聞いているわ。王太子の最初の舞に選ばれた令嬢……ね」
カミーユの言葉は鋭く、毒を含んでいる。
だが、レティシアは微笑んでこう返す。
「噂とは、つねに飽き足りないもの。私はただ――自分の居場所を見せただけです」
カミーユは一瞬だけ表情を崩し、やがて唇を緩ませた。
「面白いわ……前よりずっと。私の敵か味方か、それはまだ__」
言葉を切り、カミーユは去っていく。そして背後から誰かの視線を感じ、振り返ると――クロヴィス・エルンストが立っていた。黒い装束に包まれて、無言で紙片を差し出す。
「君に警告を。今宵、王宮には敵対勢力の動きがある。気をつけるんだ」
クロヴィスの瞳は冷たいが、その中にはわずかな情がにじんでいた。それは――前世には感じたことのないもの。
レティシアは礼をする。
「ご忠告に感謝いたします。胸に刻んで行動します」
彼は質問する。
「君は、殿下の味方か?」
その問いに、彼女は言葉を選ばず、しかし明確に答えた。
「それは、殿下次第です」
その答えが、彼の心に何を刻んだかはわからない。ただ、運命の歯車が──また一つ、音を立てて動き始めた。
そして夜も更け、舞踏会は終盤に差し掛かる。群衆が期待と猜疑の渦を巻きながらルシアンの言葉を待つ。
「今宵は良き場となった。そして――その中には、真の答えを示した者も――」
視線が一瞬だけレティシアに注がれ、灯りが闇を割るように空気が動いた。社交界の熱と期待が、彼女を包んでいく。
(私は、ここからすべてを動かす)
大広間を背に、風が石畳を渡り、白い薔薇と黒い百合が香りを放つ。そこに、もう一輪の“黒薔薇”が咲き始めていた──。
舞踏会の華やぎがひとつ、またひとつと音を落とし、まるで劇の終幕を迎えるように広間は沈み始めていた。人々の笑い声も、グラスの触れ合う音も、どこか薄く響く。熱を帯びていた空気が、ひとしきり冷え込んだのは――それが「本当の始まり」だったからだ。
レティシアはその空気の変化を誰よりも早く察知した。人混みの中に紛れていた兵士のような男たち。通常の従者の制服ではない、見慣れぬ刺繍の袖口。短剣の柄が、彼女の視線の端にだけ、ちらりと光る。
(動いた……)
クロヴィスの言っていた「敵対勢力の動き」が、ついに顕在化した。けれど、標的が誰なのかはまだわからない。自分か、ルシアンか、それとも……この場に集うすべてか。
そのときだった。会場の奥、王族専用のバルコニーで、突然、短く鋭い叫び声があがった。
「そこだ、捕えろ!」
瞬間、十数人の男たちが一斉に広間に飛び出した。仮面で顔を隠し、手には火薬式の短杖と細剣を携えている。会場がざわめき、女性たちの悲鳴が走る。貴族たちが混乱しながらも中央から離れようとする中、レティシアは立ち止まっていた。
敵の動きはあまりに手慣れていた。混乱を利用して、要人をひとりずつ分断するように誘導している。彼らの目は、ある一点を見つめていた。
「王太子だ!」
誰かが叫び、そして銃声が響いた。
(まずい――!)
レティシアは、ドレスの裾を握りしめて駆けた。黒いレースの裾が宙を舞い、動く標的になりながらも、彼女は迷わず王太子のもとへ走った。
ルシアンはすでに剣を抜き、護衛の数人と共に敵と対峙していた。が、その数は圧倒的に不利。兵士たちはあえて「舞踏会の瞬間」を狙っていたのだ。剣の音、短杖の発火音、叫び声と金属の軋む音――すべてが混然一体となり、広間は一瞬にして戦場と化す。
「殿下、下がって!」
レティシアの声にルシアンが振り返る。驚愕と疑問の入り混じった表情。そして一人の襲撃者が彼の背後から近づくのを、彼女は見逃さなかった。
「そこっ!!」
扇を飛ばし、相手の視界を奪った刹那、レティシアは舞踏用のかかとを蹴り折り、襲撃者の足を払う。倒れた男が地を打つ音が響き、ルシアンが反射的に斬撃を加えて無力化する。
彼女は息を切らしながらも、冷静だった。――これは芝居ではない。本物の暗殺計画。そしてこれは、レティシアにとって「最初の」勝負だった。
(もし、ここで殿下を守れれば……)
未来は変えられる。少なくとも、あの断頭台で笑った自分とは、もう違う。
やがて、ルシアン直属の近衛兵団が到着し、状況は急速に収束した。襲撃者の半数以上は捕縛され、残りは逃走を図ったがほとんどがその場で制圧された。
広間に残るのは、破れた衣装、床に落ちた仮面、香の残り香と、ひときわ目立つ静寂。
ルシアンは剣を収め、レティシアに歩み寄る。
「……なぜ、動けた?」
問いの意味は明白だった。社交界の淑女たちが悲鳴をあげて逃げ惑う中、なぜレティシアだけが迷わず前に出たのか。
彼女は短く答える。
「殿下を助けたかったからです。それだけです」
偽りはない。けれど、本心のすべてでもなかった。
ルシアンの目が細められる。その奥に、迷いと、何かを探るような視線がある。
「君は――本当に、以前のレティシアではないな」
まるで断言するように言ったその言葉に、彼女の胸が少しだけ疼いた。
(そう……私は、もう過去の私ではない)
そのとき、側近が近づき、耳打ちした。
「殿下、襲撃者の一人が奇妙なことを……“ヴァレンティーヌは知っていた”と」
空気が一瞬にして変わる。広間に立ち尽くすレティシアに、冷たい視線が集まりかける――そのとき、ルシアンは静かに片手をあげた。
「それが事実ならば、なおさらだ。彼女が知っていなければ、今夜、私は命を失っていた」
その一言が、すべてを救った。
人々の視線が変わる。疑惑から、驚きへ、そして評価へ。国の未来を担う王太子が「助けられた」と言った。それだけで、レティシアの名は今夜、忘れ得ぬものとなった。
夜会の終わり、レティシアは一人、テラスに立っていた。白薔薇の香が微かに漂う。
「夜風が冷たいな」
ルシアンの声。レティシアは振り返らずに答えた。
「ええ。……けれど、その冷たさが、今は心地良い気もします」
「君は何者なんだ、レティシア・ヴァレンティーヌ。あの夜会にいた少女ではない」
今度は、はっきりとした問い。
レティシアは視線を夜空に向けたまま、静かに言った。
「私は、自分を選びなおしただけです。運命に流されるだけの少女ではなく、自分の未来を選ぶ女として」
ルシアンは微笑を浮かべた。そこにあるのは、初めて見せた「人」としての表情だった。
「面白い……君にもう一度、出会えてよかったよ」
それが、レティシアの「再誕」の証。
舞踏会という名の戦場で、彼女は最初の勝利を掴んだ。
次に動くのは、誰か。狙われるのは、何か。
闇は、まだ深いままだ――。
緋色のドレスに身を包んだカミーユ・ド・ノアは、まるで炎のようだった。
黒檀の髪をゆるやかに巻き上げ、揺れるルビーの耳飾りが、火花のように煌めく。
(……やはり、この女も健在)
レティシアは微笑を浮かべながら、目の前の女を観察する。
カミーユ・ド・ノア。
ド・ノア侯爵家の令嬢にして、前世で王妃の座を最も強く狙った貴族の一人。
気高く、聡明で、そして冷酷。
前世のレティシアとは、水面下で何度も火花を散らしあった因縁の相手だった。
「それで、レティシア・ヴァレンティーヌ。今度は“何を狙って”王太子殿下の側へ?」
カミーユは杯を傾けながら、柔らかな声で囁いた。
だがその瞳は鋭い。媚びた笑みの奥に、氷の刃を隠している。
「“狙っている”だなんて。私はただ、陛下の招待に応じただけですわ」
レティシアは涼しい顔で答えた。挑発に乗るつもりはない。
「ええ、もちろん。でも、あのダンス……ふふ、周囲はそれをどう受け取るかしら」
カミーユの言葉は明確な“揺さぶり”だった。
彼女は知っている。この舞踏会で、ルシアンが最初に誰と踊るかが、どれほどの意味を持つかを。
(こうして私に接触してきたということは……ルシアンの周辺に、すでに“競争”が始まっている証)
思考の裏でレティシアは冷静に読み取る。
前世では、レティシアが「悪女」として失墜したのち、最も台頭したのがこのカミーユだった。
だが、今度は違う。彼女はもう、ただの“駒”ではいられない。
「“王妃”の座が欲しいのね、カミーユ」
あえてレティシアは、静かに問いかけた。
「それが何か問題かしら?」
カミーユの瞳が、少しだけ揺れる。
「いえ。ただ……あなたは私のように、一度“失って”からその価値に気づく覚悟があるのかしら」
――一瞬、沈黙。
その言葉の意味を理解しきれなかったのか、あるいは理解していたからこそ、返せなかったのか。
やがてカミーユは、唇を吊り上げて笑った。
「面白いわ、あなた。前に会ったときよりも……ずっと“黒く”なっている」
「ええ、黒薔薇のようにね」
二人の女の間に、冷たい火花が散る。
仮面の下で剥き出しになる野心と誇り。
だが――どちらも、この社交の檻では“必要な資質”だった。
*
その夜、舞踏会の裏手。
王城の南庭で、レティシアはひとり、月を仰いでいた。
黒薔薇と呼ばれようが、噂に塗れようが構わない。
目的はただひとつ。
――未来を奪い返すこと。
そのために必要なのは、敵を見極め、味方を欺くことすらも辞さぬ、覚悟。
「もう一度だけ、信じてみたいの。あなたの本当の姿を」
小さく囁かれた言葉は、誰にも届かぬ夜風に消えた。
その頃、王太子ルシアンは、自室で一人、舞踏会の報告書に目を通していた。
「……やはり、只者ではないな」
冷ややかだったその瞳に、初めて微かな“興味”の色が浮かぶ。
黒薔薇の令嬢――レティシア・ヴァレンティーヌ。
その名が、王宮の中心に、確かに刻まれ始めていた。
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