テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
157
352
翠が小さく息を吐いた。
「あたしが十歳、凛太郎が七歳になったときに出会った。それからあたしたちは同じ施設で育った」
「施設?」
「あんたのご両親は立派よ。あたしの親なんてクズだった。あれは本物のクズよ。それしか言いようがないわ」
翠は母子家庭で育ったという。母親のことを終始あの女と呼んだ。あの女―。
母親のことをそんなふうに呼ぶときの翠の目には、強い怒りが宿っていた。
「父親なんて知らない。あの女だって、誰の子かもわかってないんじゃない。誰とでもやる女だった。あたしが生まれても、母親らしいことなんてしてもらった記憶もない。翠っていう名前も本名じゃないの。この店に来て恭平さんが付けてくれた名前なの。本名は勝人。なんて男らしい名前なのかしらって思うでしょう」
硬い表情をする結に翠が笑って言う。
「ここ笑うところよ」
そんなこと言われても…。笑えないよ。
「強い男になってほしかったんじゃないの。でも、あたしはあの女が思うような人間にはなれなかった。今思い出しても、吐き気がする話だけど、あの女、特別綺麗だったわけでもないのに、毎晩のように男を家に連れ込んで毎晩やってた。七歳のときその場面を見てしまった。あの女は裸で男に抱かれて喘ぎながらあたしを見て言ったの」
「勝人こっちにおいで。抱いてあげる」
母親の甘ったるい声が、肌色の裸身が揺れる乳房が嫌でも鮮明に脳裏に浮かんでしまうから、翠はきつく瞼を閉じて拳を震わせた。
結は翠を見つめることしかできなかった。
たった七歳でそんな光景を見せられたら、そのショックはどれだけ大きく、どれだけその後の翠の心に深い苦痛を与えて続けてきただろうか。
かわいそうな翠…。
瞼をゆっくり開いて翠が続けた。
「あの女の手を振り払ってあたしは家を飛び出した。あたしがあの女を捨ててやったのよ。夜の街にはたくさんの大人たちをいたけれど、誰もあたしに見向きもしなかった。何も持っていない、空っぽで無価値で誰にも見えない、透明人間みたいだって思った」
七歳の翠がそんなつらい思いをしていたなんて、想像するだけで胸が潰れそうで結には言葉が出なかった。
「七歳の子供はね、そんなときでもおなかが空くのよ。巡回中だった警官に声をかけられて、
「お父さんやお母さんは?」って聞くから、あたし言ってやったの。
「お父さんはいない。お母さんはボクの知らないおじさんとおうちを出て行っちゃって、おうちにご飯もお金もかくなっちゃったの。おうちに大家さんが来て大きな声で、「家賃払ってくださ〜い」って言うからボクおうちにいるのが怖くなって、お外に出てきちゃったの」って。泣く真似もして。なかなかいい演技だったと思うわ」
ちょっと自慢気な顔をして話す翠を見ていても、結の表情は硬いままだった。
「あの女はあたしのことを探しもしなかったみたい。結局児童養護施設に連れて行かれた。施設へ行って園長先生に、「何が食べたい?」って聞かれたときあたしは答えることができなかった。家にはいつも菓子パンがあっただけで、他の物は名前も知らなかった。そんなあたしにとって施設は天国だった。温かい布団があって、着替える服があって、何より温かいご飯が食べられることが幸せだった。あたしはそこで十八歳まで育ててもらった。そして十歳になったときに凛太郎と出会ったの」
自分が受けた傷よりも凛太郎の方が、もっと大きくもっと深い傷を抱えていたと翠は言う。
「初めて施設に来たときの凛太郎の目は、見えていなかった」
驚く結に翠は頷いた。
「凛太郎の父親は間違いなく自殺だった。あんたの父親も、凛太郎の母親も関わっていないわ」
「どうしてそう言い切れるの?」
「凛太郎が見ていたからよ。施設に来て数年が経って中学生になった頃に、凛太郎があたしに話してくれたの。あの子ね、あたしのことをいつも兄さんって呼んでいたの。
『兄さん。僕は見たんだ、お父さんがお母さんのことをいつも殴っていた。そしてお父さんは僕の目の前で首を吊った』
コメント
1件
わあ…第17話、一気に読んでしまいました。翠さんの壮絶な過去が胸に刺さりました。七歳で母親のああいう場面を見せられて、家を飛び出して、でも「お腹は空く」っていうリアルさが切なかったです。施設が「天国」だったって言葉が重い…。そして凛太郎くんの「目が見えていなかった」という翠さんの描写に、ぞっとしつつも続きが気になりました。翠の強がりの裏にある優しさがにじんでいて、すごく好きな回です。