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草原地帯と森林を結びつける谷のようなその場所に、人間は壁のような拠点を設けた。
目的は魔物をせき止めるためであり、主たる敵は三、四メートルもの巨体を誇る巨人族だ。
ジレット監視哨。そう命名されたこの場所は、イダンリネア王国にとっての最前線基地であり、防衛の要でもある。
ゆえに、派遣される軍人は一際優秀なのだが、その少年のまた、伊達ではなかった。
ウイル・ヴィエン。身にまとう防具は貧相な革鎧ゆえ、見た目だけなら子供のごっこ遊びにも見える。
しかし、その実力は先ほどの戦闘で保証された。
今、相まみえている相手はその上官、ガダム・アルエ。焦げ茶色のズボンは軍服だが、上半身はスチールプレートアーマーと呼ばれる凡庸ではあるものの一級の防具で着飾っている。
一方で、武器の類は携帯していない。これから行われる戦いにおいては不要だからだ。
それは傭兵側も同じであり、ウイルは意図的に素手という戦い方を選択している。
(相手が人間なら、こっちの方がなにかとやりやすいんだよね。エルさんとの決闘で気づけて良かった)
唯一の収穫か。
魔物を殺すのなら、武器を手放す道理はない。
頑丈な皮を突き破り、肉や内臓を損傷させるのなら刃物の類が有効だからだ。
しかし、人間相手に、ましてや殺し合いではなく模擬戦ならば、話は変わってくる。
剣を振るう場合、どうしても手心を加えねばならず、つまりは急所を外すか寸止めが必須だ。
全力を出すにしても、そういった雑念のようなものを抱えながら戦わなければならず、相手が格下ならそれでも構わないのだろうが、素手という選択肢を選んでしまえばノイズからは解き放たれる。
(まぁ、アイアンダガーじゃ、この人を傷つけられないだけなんだけど……。多分、そういう軍人さんみたいだし)
少年の読みは的中している。
アイアンダガー。鉄から作られた短剣であり、普通ならこれでいともたやすく人間を斬殺出来る。イダンリネア王国周辺の弱々しい魔物が相手でも十分通用する武器だ。
鉄製ではあるが、刃物は刃物。その刃で斬れないものはより頑丈な金属くらいであり、つまりは生物相手には問題ないはずだ。
そんな常識は、ウルフィエナという世界においては通用しない。
魔物は多種多様な生物だ。
昆虫がそうであるように。
魚類がそうであるように。
動物がそうであるように。
小さなものから大きなものまで。
素早いものから鈍重なものまで。
弱いものから強いものまで。
そのありようは人間とは比較にならないほど、バラエティに富んでいる。
アイアンダガーで殺せる魔物。
アイアンダガーが通用しない魔物。
残念ながら、巨人族は後者だ。ウイルとパオラはそれらが徘徊する危険地帯に足を踏み入れようとしているのだから、自分達は大丈夫だ、と証明するために、眼前の門番を打ち倒さなければならない。
「合図はなしだ。さぁ……」
この基地に常駐する部隊の長。その実力が本物であることを実演するように、戦いの火ぶたは切って落とされる。
「始めようか」
自らの声を追い越し、次の瞬間にはウイルとの距離を詰め終える。
それだけに留まらない。
ガントレットをまとった右腕を走らせ、傭兵に拳を打ち込めば、もはやその時点で勝負ありだ。
それを裏付けるように、傭兵は一度も地面を擦ることなく吹き飛ばされ、基地の柵に遮られてもなお勢いは衰えず、最終的には壁のような岩山に激突してその中に埋もれてしまう。
観衆はどよめきながらも、恐怖を覚えた。
誰よりも強い隊長が、全力を出したことに。
その結果、傭兵ではあるが子供が確実に絶命したことに。
誰の目から見てもやり過ぎだ。軍人達は青ざめてしまう。
息を飲む部下達を他所に、その男は右腕を突き出したまま、石像のように動かない。余韻に浸っているのではなく、手応えに驚いている。
「この程度では終わらない、か。プルーシュ様のおっしゃられる通り、年下だからと侮っていては、こちらが負けてしまうな」
涙のように青い空。
その真下で、断崖絶壁に設けられた横穴から、いくつもの小石がコロコロと排出され始める。
少し遅れて姿を現したウイルだが、砂埃にまみれてはいるも傷の類は見当たらない。もっとも、顔を歪めながら腹を押さえており、その仕草はどこか弱々しい。
(い、痛い……。今の、さっきの軍人さんとは比較にならないほど速かった。油断したわけじゃないけど……)
反応出来なかった。
ガダムはセラよりも圧倒的に素早く、そのギャップが思考を混乱させてしまう。
その結果、回避行動やおろかその打撃を防ぐことすら出来ず、ウイルは腹部に痛打を打ち込まれ、ズキズキと痛む部位を撫でずにはいられない。
それでも、危機感よりも別の感想を抱いてしまう。
(この人、エルさんと同じくらいには強そう。だけど、暴走したエルさんほどじゃない……。うん、僕は、負けない。負けちゃいけない)
あくまでも推測だ。それでも、的外れとも思えない。ウイルは対戦相手の実力を静かに分析しつつ、ゆっくりと歩みを進める。
その姿を眺めながら、茶髪の軍人もまた、独り言をつぶやいてしまう。
「そうだ。これは光流武道会じゃない。場外負けはないぞ。四英雄に認められたその実力、遺憾なく発揮してくれよ」
この少年がジレット大森林で生き残れるか否か、見極めなければならない。
そんな責務を背負ってはいないのだが、年長者として、軍人として、そうしたいに決まっている。手紙にもそのように書かれていたが、そうであろうとなかろうと、この男は毅然と立ちはだかる。
「さぁ、かかって……」
打撃一発で終わる戦いではない。それをわかっていながらも、その仕返しには反応が間に合わない。
遠方でよろよろと歩いていた少年が突然姿を消したのだから、事態の把握は反撃を受けた瞬間に成される。
身軽さと低身長を活かし、ウイルは先ほどの軍人を上回る俊敏性で距離を詰め終えるばかりか、地面に這うような姿で右足を振り回す。その動作が男の両足を蹴り飛ばし、時計回りに回転させながら、ふわりと宙に浮かせてみせる。
攻撃の手は止まらない。足払いは足払いでしかなく、この軍人から意識を奪うことなど不可能なのだから。
だからこそ、ウイルは無防備な対戦相手を眼前に捉えながら、すっと体を起こし両手に力を籠める。
(これほどか……!)
ガダムの視界に映るのは、傾いた世界とその少年だけ。走馬灯のようにゆっくりと、胸部から腹部にかけて三連続で殴られるさまを大人しく受け入れるしかないこの状況は生まれて初めての体験だ。
その直後、軍人も先ほどのウイルのように吹き飛ぶ。今回は部下達によって受け止められたことから、地平線の彼方まで追いやられずに済んだものの、受けた傷は決して軽傷ではない。
鋼鉄製のスチールプレートアーマー。これのおかげで一命を取り留めるも、灰色の装甲は無残にもくぼみ、いなしきれなかった衝撃が男の体を深く傷つける。
「がはっ、ぐほっ……」
「隊長! 大丈夫ですか⁉」
吐血するガダムに、周囲の軍人達も驚きを隠せない。
ある者は支え、ある者は青ざめ、ある者は駆け寄るも、この模擬戦は未だ継続中ゆえ、男は右手を挙げて歩き出す。
「心配するな。この程度で死にはしない。ここからは……本気だ」
強がりでもなければはったりでもない。それを裏付けるように、ガダムはそこから姿を消す。
やり返すように。
謝罪するように。
出し惜しみすることを止め、ここからは全てを駆使して傭兵に立ち向かう。
「八重霞」
(戦技⁉)
声の発生個所はウイルの目の前だ。正しくはわずかに頭上側であり、二人が向かい合えば身長差からそうなってしまう。
「俺もどうやら自惚れていたようだ。先ずは謝罪する、すまなかった」
「い、いえ……」
両者は手を伸ばせば届く距離。
そのような状況下で、ガダムは見下ろすように小さく頭を下げる。
一方、ウイルとしてはたじろぐしかない。単なる移動のためだけに戦技を使われたことと、このタイミングで謝られてしまったのだから、戦闘中ながらも攻撃は一旦中断だ。
「セラには本気を出せ、と指示していながら自分はこの体たらく……。驕った俺を笑ってくれ」
「と、とんでもないです。わざわざ八重霞を使って頂いたようで……」
「君を待たせるわけにはいかないからな。良かったら君の戦闘系統も教えてくれないかい? 一方的に負けたくはないものでね」
戦闘系統。傭兵や軍人、ひいては全ての人間が属する、区分可能な素養の種類だ。誰しもが必ずどれかしらに当てはまり、その数は全部で十二個存在する。
戦術系。
加速系。
強化系。
守護系。
魔防系。
技能系。
探知系。
魔攻系。
魔療系。
支援系。
召喚系。
魔道系。
ウイルとガダムもこの内のどれかに所属しており、習得する戦技や魔法およびその順番はこれらに依存する。
「僕は、魔療系です。でも、覚醒者なので回復魔法は覚えていません」
「ほう、珍しいな。けれども、うぅむ、残念ではあるか……」
魔療系は非常に重宝される戦闘系統だ。その理由は多数の回復魔法を会得するからであり、傭兵がチームを組んで冒険をする際、最低でも一人は加えたい。
回復魔法は魔療系だけの専売特許ではないものの、専門性においては他を寄せ付けない。王国軍においても部隊に最低でも一人、もしくはそれ以上を確保することが絶対条件とされており、それほどまでに魔療系および回復魔法は重要かつ貴重だ。
死人を蘇らせる術はない。そのような魔法は存在せず、戦技においてもそれは変わらない。
ならば、その手前で食い止める手段、つまりは回復魔法が必要不可欠と言える。
傭兵や軍人の日常は危険と隣り合わせだ。鋭い爪で引っかかれ、猛獣に体当たりさえ、四肢を噛まれる。傷を癒す魔法がなければ命などいくつあっても足りない。
だからこそ、回復魔法の使い手はいついかなる時も重宝され、魔療系のような専門家ならなおさらだ。
そのはずだが、ウイルだけは悪い意味で例外だ。
なぜなら、回復魔法が使えない。一つも、覚えていない。
その理由は戦技とも魔法とも異なるもう一つの神秘、天技の影響だ。
「傭兵になれた直後、その、魔物の位置が感覚的にわかるようになったんです。ジョーカー、僕は自分の天技にそう名付けました」
覚醒者とは、天技を扱える者を指す。その数は非常に少なく、全人口の一パーセントにも満たない。
能力はそれこそ千差万別だが、ウイルは視認無しに魔物の気配を感知可能だ。便利ではあるが、戦闘中は役立たない。それだけなら問題ないのだが、不運にも実害が存在する。
天技を習得した時点で、以降、本来習得するはずの戦技や魔法が覚えられない。既に使える物は手元に残るものの、将来の可能性は摘まれてしまう。
手痛い弊害だ。少数で活動する傭兵にとっては一人一人が重要な戦力であり、それぞれがそれぞれの戦闘系統に見合った役割を果たす必要がある。
魔法で攻撃する者。
戦技で魔物を押さえつける者。
魔法で回復する者。
己を強化し、武器で戦う者。
ウイルの場合、魔療系ゆえに回復魔法で仲間を支えることが可能なはずだった。もちろん、その身体能力を活かした立ち振る舞いとして、短剣を握り魔物を斬りつけながらの攻撃兼回復役という二刀流的な立ち位置に収まっていたかもしれない。
しかし、天技という稀な能力に目覚めてしまったことから、そしてそのタイミングが回復魔法を会得する前だったことから、この傭兵は魔療系というメリットを一切生かすことが出来なくなった。
本来ならば、嘆くべきだ。傭兵という生き方を諦めても良いくらいだろう。
それでもそうしなかった理由が、エルディアという女性の存在だ。
彼女が隣にいてくれたから。
恩を返したかったから。
支えたかったから。
だからこそ、今もこうして傭兵を続けられる。
パオラという少女のために、父親探しを手伝えている。
「素敵な天技じゃないか。傭兵なら十二分に役立つのだろう」
「はい。魔物探しだけなら誰にも負けません。タビヤガンビットと被っていますが、使い勝手は劣っていないと思います」
タビヤガンビット。探知系が習得する戦技。半透明な青い鳥を生み出し、周囲の魔物を探させることが可能だ。ウイルのジョーカーと同じような効果だが、こちらはその鳥を爆弾のように爆破させることが出来る。連続使用は無理なものの、使い勝手はすこぶる良い。
「ちなみに俺の戦闘系統は……、言うまでもないか」
「技能系。手ごわい戦闘系統です」
ガダムは技能系に属する。接近戦用の戦技を覚えることが可能であり、八重霞もその一つだ。この戦技は目視した場所へ、二倍速での跳躍移動を可能とする。決して瞬間移動ではないものの、これで距離を詰めれば相手の隙をつくことも十分可能だ。
「本当の意味で自己紹介が済んだな。では、再開といこうか」
「はい。相手の手の内を事前に知られるなんて、なんだか不思議ですね。既に一発おみまいされた気もしますけど……」
「ふ、お互い様だな」
静かに笑う両者だが、言葉が途切れると同時に静寂が訪れる。
和やかな空気はスッと張り詰め、それが何を意味するのか、周囲の観客達は当然ながら気づいていた。
轟く打撃音。
どちらがどちらを殴ったのか、答え合わせは簡単だ。
長身の軍人がよろめきながら一歩後退する。拳を握り、上半身を捻じったタイミングまでは同時だったが、単純な速度差が攻撃の成立を左右させる。
鎧越しに再度腹部を殴られたガダムだが、頑丈さだけを見れば負けてはいない。反動を利用するように、茶色い髪を暴れさせながら反撃の拳をウイルの体に叩き込む。
しかし、届かない。傭兵の左手が寸でのところで受け止めており、巨躯がいくら押し込もうとしようと少年の体はびくともしない。
ここからは根競べであり、力比べだ。
歯を食いしばり、右腕を前進させたい軍人。
あえて左手一本にこだわりながら、同じく歯を食いしばる少年。
固唾を飲む軍人達だが、彼らは驚きの結果を目の当たりにする。
「くぅ、これほど……!」
腕力でさえ、ガダムは敵わない。
身長差は大人と子供、もしくはそれ以上か。
にも関わらず、ウイルの左手が大人の右腕をグググと押し返す。
小さな体に秘められた可能性を、軍人達が目の当たりにした瞬間だ。
額に大粒の汗を浮かべながら、そして押し戻されながら、男は語り掛けるようにつぶやく。
「血のにじむような努力の果てに! その強さを得たのだろう?」
「うぐぐぐ、はいぃ……。伊達に四年も傭兵稼業を務めてはいませんんん!」
その年月は決して短くはない。
晴れの日も。
曇りの日も。
雨の日も。
少年はエルディアと共にこの大陸を走り回った。
金を稼ぐため。
好奇心を満たすため。
依頼人の代わりに、最強の超越者を探すため。
なにより、強くなるため。
二人は狂ったように魔物を殺し続けた。
それだけではない。
ウイルは毎晩、ほぼ欠かすことなく、鍛錬という名目で素振りを継続した。
夕食後、短剣を握り、最初はゆっくりと、徐々に加速させ、眼前に透明な敵を想像しながら腕を振り続けた。
その結果、三年以上の年月を要したが、この傭兵は相棒をついに上回る。
しかし、その後の悲劇は避けられなかった。
遠出の最中に出くわした、謎の二人組。
虹彩と呼ばれる黒目部分に、赤い線で描かれた円を内包する不思議な瞳。魔眼。
その持ち主達との遭遇が、彼女を狂わせた。
意識と理性を失い、魔物のように暴れるエルディアだったが、その実力は普段とは比較にならないほど膨張しており、ウイルは抵抗空しく殺されかける。
完敗ではないが、敗北だ。相打ちに近いのかもしれない。
それでも負けは負けだ。彼女を連れ去られてしまったのだから、勝ち誇ることなど出来ない。
落ち込み、悩む日々が続くも、この少年は立ち直る。ギルド会館でエルディアを待ち続けても、姿を見せないと気づくことが出来たからだ。
いきましょー。挨拶も兼ねた彼女のそんな声は、今のままでは二度と聞けない。
ならばどうする?
探すだけだ。ジョーカーと名付けた自身の天技は、もしかしたらそのためのものなのかもしれない。
この能力は周囲の魔物を感知する。
実は、それだけではない。
エルディア・リンゼー。彼女の居場所もまた、手に取るようにわかってしまう。
残念ながら、ジョーカーの射程は無限ではない。せいぜい一キロメートルと言ったところか。十分な距離でもあるが、この天技をもってしても未だに彼女の居場所はつかめない。
それでも、探し続ける。この少年は諦めることを知らないため、愚直なまでに走り続ける。
「うぬぬ……! もしかしたら君は! いつの日か壁を超えるのかもしれない……な!」
ガダムは必至の形相で抵抗するも、押し返すには至らない。叫ぶように意見を述べながら踏ん張るも、体はズルズルと下がり続ける。
「壁……でしたら! 一か月前に越えました! 自分の! 壁! ですけどぉ!」
限界を感じていた。
停滞感に苛まれていた。
どれほど魔物を殺そうと。
汗まみれになりながら素振りを続けようと。
今以上に強くなれない、そんな予感を薄々ながら察知していた。
言い換えるなら、自身の終着点に達してしまった。そう疑ってしまうほど、成長しなくなった。
それが二か月前のこと。エルディアに敗北し、立ち直った直後のことだ。
実は、もっと前から違和感に気づけていた。
タイミングとしては、おおよそ半年前に遡る。エルディアとの模擬戦とも呼べない腕試しで、安定して勝てるようにはなった頃合いだ。
今の立ち位置で足踏みしているような違和感。
そもそも人間など、そういう生き物なのかもしれないが、ウイルは自身が感じる気持ち悪さを拭えなかった。
その後、自我を失ったエルディアに土をつけられたばかりか、連れ去られてしまったのだから、少年は自身を鼓舞するように立ち上がる。
相棒を助けるために、今よりも強くならなければならない。そう意気込み、走り出した直後の危機感。決して勘違いではないそれが、少年の心に影を落とす。
そんな中、出会うことが出来た。
限界を超えたいのじゃろう?
始まりの半島と呼ばれる岬。その南東に位置する小さな漁村で、背の曲がった老人が海を眺めながら問いかける。
発言の信憑性は一切ないにも関わらず、ウイルはすがるように首を縦に振った。
老人は心を見透かすようにそのための課題を提示するも、その内容は非常識かつ非合理だ。
始まりの半島に生息する魔物を六千体、討伐。
ただし、一日でも欠かすとカウントはゼロからのやり直し。
また、対象はオードバッタとサンドスコーピオに限定。
オードバッタは、その名の通り黄土色をしたバッタの魔物だ。姿かたちは昆虫のそれに似ているものの、全長は人間の子供が横たわった時に匹敵するため、小動物よりは遥かに大きい。発達した後ろ足から繰り出される瞬発力は人間の比ではなく、単なる体当たりでさえ傭兵の命を摘み取る。
サンドスコーピオ。こちらはさらに危険だ。巨大化したサソリであり、それ以上でもそれ以下でもないのだが、凶暴な性格と見た目以上の俊敏性が並の傭兵を幾人も葬ってきた。全身の甲殻は黒光りしており、前足の鋏は人間の手足をいとも容易く切り落とせてしまう。尾にも巨大な鋏が備わっているのだが、挟み切るだけでなく突き殺すことも可能であり、状況に応じて使い分けるだけの知能を備えている。
謎の老人は、これらを六千体も倒せと言い放つ。
理論的には不可能ではない。
しかし、非現実的だ。
一日でも怠ると失敗とみなされることが、何よりも厳しい。
ましてやノルマがあまりにも遠すぎる。
六千体。
平均的な傭兵でも、一日に二十から三十体が関の山か。もっとも、サンドスコーピオは避けなければならない。それほどにこの魔物は手強く、一体一体に時間をかける余裕などない。ましてや、命がいくつあっても足りない。
仮に、毎日オードバッタを三十体倒せたとしても、二百日はかかる計算だ。
裏を返せば、日課のように取り組めば、一年はかからないお題目なのかもしれない。
難易度は低くないが、高すぎるわけでもなく、サンドスコーピオという厄介な魔物に気を付けさえすれば、いつかは達成可能だろう。
それでもなお、現実的ではない。
一日でも休むと、やり直し。このルールがあまりに手厳しい。
また、サンドスコーピオという危険性がつきまとう以上、挑める傭兵は限られる。
最低でも等級四であるべきだろう。巨人族ほどではないがそれに匹敵する強敵であり、傭兵の大多数が一方的に蹂躙されてしまう。
そうであろうとなかろうと、ウイルには関係ない。
ジョーカーという天技を活用しながら、半島を縦横無尽に走り回った。
茶色のバッタも、巨大サソリも、手あたり次第に破壊し続けた。
朝から晩まで。
休むことなく。
金欠中ゆえ、平行して金を稼ぐ必要があったが、サンドスコーピオの鋏を売ることで二束三文ではあるのだが、所持金の足しにする。
本来ならば、取り掛かる前に謎の老人を疑うべきなのだろうが、なぜかそうすることもせず、ウイルはがむしゃらに乱獲を続けた。
その結果、たったの一か月で見事やり遂げる。
一日に二百体近くの魔物を倒した結果だ。
一時間換算で八体前後。もっとも、夜は眠る必要があるため、実際はその倍近くと言ったところか。
ありえない。
誰にでもやれる芸当ではない。
話を持ち掛けた老人でさえ目を丸くするが、少年が嘘を言っていないことは一目見れば見抜けてしまう。
ゆえに、しわを増やしながら笑顔をこぼす。
合格じゃ。
たったそれだけのやり取りだが、その瞬間、ウイルは感覚的に理解する。
目の前の壁が取り除かれた、と。
それはウイルという個人に設けられていた限界そのものであり、本来ならば意味を成さないはずだった。
貴族の子供が、そこまで強くなるはずがない。勉強に励み、高級食材に舌を打ち、親に守られながらいつかはその後を継ぐ。生まれた時からそういうレールが敷かれているのだが、この少年はどういうわけか傭兵という生き方を選んでしまう。
それでもなお、問題ないはずだった。非力な子供が、魔物を狩れるはずがないのだから。
つまりは、殺される。
道半ばに命を落とす。
それこそがこの世界の摂理であり、この少年にも適用されるはずだった。
差し伸べられた手は、傭兵のものだった。
血まみれの子供が地に伏せ、魔物がとどめを刺す瞬間、突風と共に彼女が駆けつけてくれた。
エルディア・リンゼー。ロングスカートをたなびかせ、巨大な両手剣を背負う一流の傭兵。
運命の出会いであり、二人はその後の四年間、ペアで活動を続ける。
その過程でウイルは腕を磨き、傭兵としての等級も三まで進んだばかりか、相棒に追いつき、ついには追い越してしまう。
そして、壁にぶつかってしまう。ウイルという個人に設けられていた、成長の限界点。
才能の限界とも言い換えられるが、どちらにせよ、この少年はここで停滞するはずだった。
ウイルは驚きと共に問いかける。
あなたは何者ですか?
夕陽に照らされた古めかしい漁村で、老人は赤い海を眺めながら寂しそうに答える。
単なる暇人じゃよ。昔を忘れられない、思い出に囚われた……のう。
発言の意味することまではわからなかったが、ウイルにはその姿が今にも消え去りそうに思えた。
帰路につく老人に頭を下げ、少年もまた、その村を後にする。
壁はなくなった。
ならば、やるべきことは明白だ。
オードバッタやサンドスコーピオのような雑魚は倒し飽きた。もっと手強い魔物を求め、夜が更けようと孤独に走り続ける。
翌朝、誰も寄り付かないその山へ、意気揚々とたどり着く。
ラゼン山脈。傭兵組合でさえ、立ち入りを禁止したがっている危険地帯。その理由は、生息している魔物が非常識なほどに手強いからだ。それらの実力は巨人族でさえ足元に及ばず、ゆえに、軍隊でさえ、進軍の際はこのルートを選ばない。
修行の時間だ。ウイルは空腹に悶えながらも屈強な化け物相手に暴れまわり、その肉を焼いて腹を満たす。
野生児のような立ち振る舞いだが、傭兵は元来そういうものだ。
努力はきちんと実を結び、ウイルはついに昨日の自分を超えてみせた。
もちろん、そこで満足はしない。次は負けられないのだから、さらなる高見を目指して魔物の返り血を浴び続ける。
その後も心行くまでも腕を磨いたウイルだったが、いつまでもこの山には居座れない。
エルディアを探すため。
金を稼ぐ必要があるため。
どちらも大事なことゆえ、大量の死体に別れを告げ、帰国を選ぶ。上々な手応えと共に。
その後、ウイルは運命的な出会いを果たす。
パオラ・ソーイング。父親に見捨てられた、瀕死の少女。
彼女との邂逅がこの傭兵を新たな旅立ちへ誘うも、今は第三先制部隊の隊長が立ちはだかる。
ジレット監視哨をまとめあげるこの男は、周囲の軍人とは比較にならない実力者だ。巨人族から王国の民を守るとなると、そういった逸材がどうしても欠かせない。
一方、この傭兵は不適合な人材だ。背は低く、身体能力も並以下だった。甘やかされていた結果ではあるのだが、当時はぐんずりと太っており、走ることさえままならかった。
軍人になろうとしても、書類審査は通っただろうが次のステップで落とされていただろう。
そんな人間に手を差し伸べてくれたのが、エルディアだ。裏があったと言えばその通りだが、思惑はどうあれ、今があるのは彼女のおかげだ。
「だぁ!」
「うおっ⁉」
ウイルは左手を突き出し、対戦相手の右腕を巨体ごと押し戻してみせる。
身長差ゆえ、本来ならばありえない光景だ。
しかし、紛れもない事実であり、周囲の軍人達も息を飲むしかない。
それでも、攻防は続く。決着はどちらかが降参するか意識を失った時なのだから、ガダムは冷や汗をひっこめるように最終手段を発動させる。
「明鏡止水!」
その瞬間、男の動作が早送りのように加速する。
即座に態勢を立て直し、一歩を踏み込むと同時に打撃を繰り出す。
明鏡止水。技能系が習得する戦技の一つ。効果は使用者に倍速での動作を可能とさせる。急激な速度アップはそれだけで必殺の武器となりえるものの、効果時間はたったの二秒ゆえ、切り札として使いたい。
ガダムにこれを発動させたことから、ウイルの実力が本物だと証明された。
そう、本物だ。それを今から、実演と共に裏付ける。
重厚な拳が少年の童顔に迫るも、当たることはない。
傭兵は見極めた上でサイドステップと共に避けてみせた。相手が突然、倍の速さで殴りかかってこようと、今の実力なら十分対応可能だ。
左へ跳ねた勢いそのままに、進行方向を対戦相手へ転換させる。反撃のためであり、相手が加速している今、本来ならば時間切れまで逃げ回った方が得策なのだが、それすらも不要だと判断した。
ドシンと鳴り響く激突音は、小さな拳が軍人の右頬にめり込んだ結果だ。
意識を奪う程の痛打なのだが、ガダムは歯を食いしばって耐え抜く。そればかりか細い右腕を払いのけ、反撃に転じる意志の強さはイダンリネア王国を背負っている証だ。
覆いかぶさるように、そして振り下ろすように、男は右腕を振りぬく。がむしゃらな打撃はスマートではないかもしれないが、体裁を気にして勝てる相手ではない。
(エルさんの方が!)
強かった。それをわかっているからこそ、ウイルは怯むことなく、最後の一手を繰り出せる。
分厚い右手が押し迫るも、それを右手でグイといなし、即座に腰を落とす。
眼前には鎧に守れた腹部。そこに標準を合わせながら、払うのに使用した右腕をそのまま肘鉄へ転用すれば、この戦いは終幕だ。
その装甲がどれほど頑丈であろうと、関係ない。一点に収束する衝撃が、鋼鉄の鎧を容赦なく打ち貫く。勢いそのままに、内側の腹部へ到達すれば、その衝撃が男の意識を即座に刈り取ってしまう。
勝負あり。
残念ながら審判は不在なため、コールはないが勝者と敗者は決定した。
自分よりも大きな大人を、全身で受け止める傭兵。
明鏡止水の効果が切れ、脱力と共にもたれかかる軍人。
誰の目からも明らかだ。ゆえに、観衆は驚きと共に喝采する。
地面に仰向けの状態で寝かされるも、外傷はほとんど見当たらない。殺し合いではない上に、あっという間に決着がついたからだ。
回復魔法の暖かな光に包まれながら、ガダムはゆっくりと意識を取り戻す。
「俺は……、負けたのか」
それは部下に問いかけたのか、はたまた独り言だったのか。どちらにせよ、取り囲む軍人達は小さく頷くしかなく、男は青空を眺めながら呆れるように笑う。
「今日はこんなにも良い天気だったのか。二度寝するにはもったいない」
支えられながら体を起こすと、それを合図にスチール製の鎧にパキリと亀裂が走ってしまう。今回の攻防に耐えられなかった結果だ。
「こんな短期間で鎧を二個もダメにしてしまったな。おまえら、黙っててくれよ?」
困り顔のガダムが口を尖らせると、それを合図に軍人達が一斉に笑い出す。笑い話ではないのだが、今は腹を抱えたくなるほどには面白くて仕方ない。
花が咲き乱れたかのように盛り上がるすぐ隣で、ウイルは静かに天を仰ぐ。
(この人も、かなり強かったなぁ……。だけど、勝てた、勝てたんだ。三年前は手も足も出なかった隊長クラスの軍人さんに……。だったら、胸を張って進むしかないよね、エルさん)
満足感と自己肯定感に浸かりながらも、立ち止まるつもりはない。ここは単なる通過点でしかなく、目的地はこの先だ。
ウイルは鞄の回収し、歩き出す。
突発的な模擬戦を二つも終わらせたが、今はまだ朝。一日は始まったばかりゆえ、多少の休憩は許容したいところだが、どうするかはパオラと合流してから考えれば良い。
ここはジレット監視哨。現在は第三先制部隊が駐在しており、その守りは鉄壁だ。
そのはずだが、つい先日、この場所は血で赤く染まってしまった。
ガダムを含む軍人達に、圧倒的な力を見せつけた黒い魔物。それがジレット大森林で息を潜めている。
人間の様子を伺うために。
獲物を狩るために。
つまりは、圧倒的なまでの危険地帯であり、だからこそ王国はここを封鎖した。
そうであろうと、ウイルは怯まない。正常という価値観を投げ捨て、狂気に染まってしまった。
そのことに後悔はない。
なにより、そうしなければならなかった。
そうしたいと思ってしまった。
だからこそ、前へ進めてしまう。
線の上からその先へ、少年はどこまでも歩き続ける。