テラーノベル
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90
事務所の空き部屋は、いつもより少しだけざわついていた。
ライブ前日の軽い打ち合わせ――という名目の、ほとんどオフに近い集まり。ソファや折りたたみ椅子にメンバーがばらばらに座り、それぞれ好き勝手に喋っている。
「なぁ、今回のファン煽りどうする?またオレが全部まとめる感じでええん?」
リーダーの浅葱誠が、いつものハイテンションで笑う。
「テンション上がりすぎて噛むのだけは、やめてくださいね」
東雲裕太郎が即座にツッコむ。
「俺的には、蘭くんの喉の調子が一番心配なんだけど…」
遠野アラタがいつもの柔らかい声でそう言うと、蘭はぱっと顔を明るくした。
「大丈夫です!僕、最近めっちゃ調子いいです!」
その言葉に、部屋の空気が少しだけ軽くなる。
ただ一人だけ、御神旬は壁にもたれたまま、静かにスマホを見ていた。
無駄のない立ち姿。そこだけ切り取ると、同じ部屋にいるのに少しだけ“外側”に見える。
蘭はそれを、何度もちらちらと見てしまう。
――話したい。
そう思うのに、喉の奥に言葉が引っかかる。
「御神さん、さっきから全然喋ってないですね」
気づけば、そう口に出していた。
一瞬だけ視線が集まる。
御神はスマホから目を上げると、淡々と答えた。
「聞いてはいる」
「え、でも…」
「問題ない」
それで終わり。
それ以上、会話が続く気がしない。
蘭は笑おうとしたが、ぎこちなくなってしまった。
「……そ、そうですか」
誠が空気を変えるように手を叩く。
「ほな軽く確認しよか!明日の立ち位置な!」
話題は流れていく。
蘭もそれに合わせて返事をする。ちゃんと笑う。ちゃんとアイドルの顔をする。
でも視線だけは、どうしても御神に戻ってしまう。
打ち合わせが一段落した頃、部屋の空気は少し緩んでいた。
アラタが差し入れのお菓子を配り、東雲が打ち合わせ資料を片付ける。
誠は「終わったらラーメン行こや!」と、相変わらず元気だ。
その輪の中で、蘭はソファの端に座りながら、手元のペットボトルをいじっていた。
そして、意を決したように立ち上がる。
「御神さん」
呼ぶ声は、いつもより少しだけ小さい。
御神が顔を上げる。
「……なんだ」
蘭は一歩近づく。
その距離が縮まるたびに、胸がうるさい。
「明日の…御神さんのラップパート、もし僕が高音ちょっと被せたらどう思いますか?」
仕事の話。
それだけのはずなのに、喉が乾く。
御神は少しだけ考えてから答えた。
「邪魔にはならないな…」
「……そうですか」
それだけでいいのに。
それだけで終わるのに。
蘭は、もう一歩だけ踏み込んでしまう。
「御神さんって、いつもそうですよね」
「何がだ」
「えっと、褒める時はちゃんと褒めるのに、なんだか…すごく遠い感じがする」
その言葉に、部屋の空気がわずかに止まる。
誠が「お?」という顔をするが、すぐに東雲に止められる。
御神は、表情を変えないまま蘭を見る。
「仕事の距離だが…」
「……仕事だから、ですか」
蘭の声が、少しだけ揺れる。
「僕は、もうちょっと近くてもいいのにって思ってるんですけど」
その瞬間、空気がはっきり変わった。
ダメな一歩を踏んだ自覚だけが、遅れて蘭の中に落ちてくる。
御神はしばらく黙っていた。
その沈黙が、やけに長く感じた。
そして――
「近くする理由がない」
静かに、そう言った。
それは冷たくもない。ただ、事実を述べている様な声だった。
蘭は笑おうとして、失敗した。
「……そう、ですよね」
視線を落とす。
視界が、やけに歪んで見える。
その様子を、御神はもう見ていない。
ただ、いつも通り帰宅の準備をし始めた。
その夜、解散後。
蘭は一人で事務所の廊下に残っていた。
誰もいないはずの空間で、さっきの言葉だけが何度も反響する。
――近くする理由がない。
わかっている。
仕事だって、グループだって、ファンだって。
全部、ちゃんと理解している。
それでも。
「……もう少しだけ、近づきたい」
小さく呟いた声は、誰にも届かない。
その時、後ろのドアが開いた。
「…まだいたのか」
御神の声。
蘭は驚いて振り返る。
「み、御神さん……?」
御神は荷物を肩にかけたまま、少しだけ視線を落とした。
「忘れ物だ。蘭も早く帰れ…」
そう言って、すぐに歩き出そうとする。
すれ違う、その一瞬。
蘭は何も言えなかった。
言ったら壊れる気がした。
だからただ、見送るしかなかった。
廊下に残ったのは、静かな足音の余韻だけ。
そして蘭の中にだけ残る、どうしようもない片想いの熱だった。
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