「9時半ご予約の半年点検の竹下様、ご来店です」
『了解』
インカムで真珠が言っても、返事する職員は副店長の三上(みかみ)しかいない。
サービスカウンターにいるマネージャーもアドバイザーも聞こえていないはずはないのに、キーボードを打ち込みながら知らん顔だ。
気にせず目前の客に集中し席に案内してから、
「何かお飲み物はいかがですか?」
ドリンク表を渡す。
客は少し考えてから、「ホットコーヒー」と頼んだ。
メニュー表を下げたところで、自動ドアが開いた。
カツカツとヒール特有の高い音をショールームに響かせながら、もう一人の受付嬢、莉奈(りな)が駆けていく。
客に向かって小首を傾げ何かを聞いたあと、席に案内し始めた。
『9時半ご予約、後藤様です!』
『了解でーす』
『了解』
『了解っと』
『了解しましたー』
今度は次々と声が上がる。
インカムで伝えるときには、サービス内容も言わなければいけないのだが、小言を呟く社員はいない。
『ええと。車検の後藤様ね』
コントローラーからフォローまで入る。
こんなあからさまな差を付けられるのは、何も今に始まったことではない。
20歳で同時に入社してからの7年間、営業スタッフもエンジニアも転勤や入退社でメンバーは入れ替わったものの、受付嬢の2人に対する対応は変わらない。
真珠は気にせずカウンターの中に入ると、ドリンクを準備し始めた。
「……ラッキー、瀬川ちゃんもコーヒー?」
カウンターの外側から莉奈が覗き込んでくる。
「こっちの分もお願い。昨日ネイルサロン行ってきたばかりなんだよね」
言われて見れば確かに、合わせた白い指にはピンク色のジェルネイルが塗られている。
感染症リスクを最低限に抑えるため、客のコップに触るのは一人までと決まっている。
さらに言えばジェルネイルは就業規則で禁止されている。
「いいよ、待ってね」
しかしそれらの言葉をグッと堪えて、真珠はホットコーヒーを2つ入れた。
◇◇◇◇
新生活が始まる4月は、ディーラーも忙しい。
ワイパー交換やタイヤ交換、車内清掃に車検や点検など、冬の間車庫で眠っていた車たちが一斉に動き出すからだ。
午前中は文字通りのてんてこ舞いショールームを走り回っていた真珠は、やっと入れたレストルームを出てハンカチで手を拭いながら、ショールームに続く暗い廊下を歩いていた。
「今日は超忙しかったー」
とその時、エンジニアが休憩室として使っている和室から莉奈の声が聞こえてきた。
彼女は可愛い顔に似合わず喫煙者だ。
午前中に30分、昼に1時間、午後に30分設けられている休憩以外に、こうして日に何度かエンジニアたちと一緒に|煙草休憩《タバキュー》を挟む。
「確かに―。莉奈ちゃん、倒れちゃうかと思ったよー」
エンジニアたちは莉奈を“莉奈ちゃん“と呼び、真珠を“瀬川さん”と呼ぶ。
入社して間もない頃、莉奈が真珠に「私のことは莉奈って呼んでね」と言い、真珠のことは頑なに「瀬川ちゃん」と呼び続けたことが要因の一つであるような気がしたが、もはやそんなことはどうでもよかった。
「その点、瀬川ちゃんはすごいよ!美人な顔に皺ひとつ浮かべずに、全部完璧にやっちゃうんだもん」
聞き耳を立てるつもりはないのに、高い声が勝手に耳に入ってくる。
「……瀬川さんは、別でしょ」
エンジニアの一人が鼻で笑う。誰かはわからない。
「まあ、確かに美人ではあるけども」
他のエンジニアも同調する。誰かはわからない。
「だってあの人、アンドロイドだもん」
その声が、暗い廊下にやけに響いて聞こえた。
アンドロイド。
それが、真珠が裏でつけられたあだ名だった。
必要以上の表情がない。
文句も言わない代わりに体温を感じない。
言われたことを完璧にこなすアンドロイド。
そんなつもりはないのに、いつもそんな風に見られてしまう。
ミスをしないか。
忘れごとをしないか。
相手を不快にさせてしまわないか。
相手を傷つけてしまわないか。
それを常に気を付けているはずなのに、その姿が他人にとっては冷たく映るらしい。
皆の対応に悩み改善しようと努力した時もあったが、年数を重ねるごとにそれも億劫になってしまった。
別に莉奈のようにエンジニアの、あるいは営業スタッフの中心でチヤホヤされたいわけではない。
ましてや莉奈のように男性スタッフに見初められてデートに誘われたいわけでもない。
どうせ自分には、
普通の恋をするなんて、もう永遠に叶わないのだから。
◆◆◆◆
午後の客もやっと途切れてきた。
真珠はカウンターの上にある壁時計を見上げた。
この分だと予約+αが来たとしても18時半の定時には閉店できる。。
そこから後片付けをして……。
大丈夫だ。十分に間に合う。
ほっと一息ついたところで、『えー、瀬川さんと莉奈ちゃん、事務所まで来れるか』
インカムから店長の声が聞こえてきた。
真珠は目の前の丸テーブルを布巾でささっと拭くと、盆をカウンターに置いて、事務所に小走りに入っていった。
「17時から|渡部《わたべ》の商談客がくる」
店長は車検用の検査員の帽子をとりながら言った。
「その商談客だが、いつも幼児を2人連れてくるんだが、いつもその二人が飽きて暴れて話にならないんだ。そのうちにもともと台替えに乗り気じゃない奥さんの方がイライラしてきて今までも何回も商談ぽしゃってる。悪いけど今日はどちらか残って、子供たちの相手をしてくれないか?」
ーー17時……。
真珠は今度は店長の席の上にあるニトリの壁時計を見上げた。
既存客の車の商談は時間がかかる。
まずは新車を見せ、試乗させる。
客がその気になってきたところで、初めて客の了承の元、既存車に対しての査定が行われる。
本部から金額が出るのを待ち、それを見積書に反映させながら、グレードを選ぶ。
ここまでどんなに早くても1時間だ。
それから山のようにあるオプションから付属品を選び、色見本でカラーを選び、一旦金額が出る。
ここからが勝負だ。
営業マンは、「今月1台足りてない」だの、「先週のイベントで目標未達だったから、今日だけ特別イベント価格の反映ができる」だの、「お客様の欲しい車がちょうど1台在庫で残っているので、特別値引きが出来ますよ!」だの、50通りくらいある営業トークの中から厳選した言葉で、商談テーブルを覆い隠す。
そしてその暁に、
「この見積書は本日限りの見積書です。今この場で決めてくれないなら破り捨てます!」
などと迫真の演技を見せて、客を苦笑いさせたら営業マンの勝利だ。
契約金として1万円――この金額は1万円じゃなくてもいい。客を後戻りできないと思わせるための儀式なのだから――を受け取り、後日の書類手続きのアポをとって、子供に山ほどミニカーのお土産を持たせ店長と共にお見送りをする。
これだけのことを17時からスタートする。
約束の時間に間に合うだろうか。
間に合うかもしれない。
しかし、
間に合わないかもしれない。
リスクは回避しなければならない。
真珠は右手を上げた。
「申し訳ありませんけど……」
「すみませーん、私、今日、田舎からお父さんが出てくる日なんでー」
とそのとき莉奈が小さく白い手を高々と上げた。
莉奈の父親は別居とはいえすぐ近くに住んでいる。
夕食時には里芋の煮っころがしやおでん等を持ってしょっちゅう来るから嫌だとボヤいていた。
思わず莉奈の顔を覗き込む。
いつもより3割増で厚いファンデーション。
20%ながい睫毛。
光度2倍の潤んだ唇。
デートだ。
「じゃあ、瀬川さんにお願いしていい?」
聞いたのは店長の隣に座っている副店長の三上だった。
「す、すみません。私も弟と約束が……」
慌てて断ろうとしたところで、渡部が事務所に入ってきた。
「おお渡部、いいところに。今日の商談、瀬川さんが子供の相手してくれるから!」
「――え?瀬川さんが?」
渡部が露骨に嫌そうな顔をしながらこちらを振り返った。
真珠や莉奈の3つ上。今年30になったはずのこの男は、真珠たちが入社して以来の7年間、莉奈にアタックし続けていた。
「ごめんなさーい、渡部さんのお役に立ちたかったんですけどぉ、父が田舎からでてくるのでー」
莉奈がしなを作りながら渡部を見上げる。
本命は他にいるくせに、あからさまに自分をチヤホヤしてくれる容姿だけは悪くない渡部のこともキープしたいらしい。
「じゃ、そういうことだから、瀬川さん、頼むね」
そう言うと店長はまた検査員の帽子をかぶりながら目をそらしてしまった。
もう一度時計を見上げる。
時間は絶対だ。
何が何でも19時にはここを出る。
「わかりました」
真珠はデスクの端に置いてあるペン立ての中から、細身のカッターを掴み、ポケットに入れた。
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