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あわ
217
晴水 菜乃花
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レセプションが終わったのは、午後九時を少し回った頃だった。
ホテルの部屋に戻ると、扉が閉まった瞬間に、耳の奥の喧騒がすっと遠のいた。
「……静かやな」
舜太は、ジャケットの内ポケットに、手を入れたまま言った。
「うん」
柔太朗は、部屋の中央で、ゆっくり息を吐いた。壇上の白い光の中で、あれだけ落ち着いていた人が、肩の力をやっと抜いていた。
部屋は一つだった。
仁人が取っていた。授賞式のための、着替えの部屋。夜十一時までのレイトチェックアウト。二部屋ではなく一部屋。何の説明もなかった。ただ、予約の確認書の、備考の欄に、小さく書いてあった。
『迎えの車は二十三時半。それまで休め』
あの男は、何も言わない。けれど、全部見えている。
テーブルの上の、スマートフォンが震えた。
仁人からだった。
『お疲れ。二十二時五十分に荷物をまとめろ。車は二十三時半』
「……さすがやな」
「うん」
柔太朗は小さく笑って、ジャケットを脱いだ。椅子の背にかける。
出発まで約三時間。
舜太は、その数字を、頭の中で確かめていた。
舜太は、ベッドの端に腰を下ろして、内ポケットの中身を、ベッドカバーの上に出した。
名刺の束だった。
バイヤー。記者。デザイナー。ギャラリーの関係者。レセプションで、次々に柔太朗に差し出され、舜太が一枚ずつ預かったもの。
数える。
「……四十二枚」
「多いね」
柔太朗が、向かいの椅子に座ってこちらを見ていた。ネクタイのない、高い襟の白いシャツ。首元が、少し、緩められている。
舜太は、名刺を、種類ごとに並べ始めた。バイヤーは上段。記者は中段。デザイナーは下段。
「なんで、分けてるの」
「共有しやすいやろ。整理して、あとで渡す」
「あとで」
「あとで、や」
嘘ではなかった。ただ、その「あとで」が、いつなのか、自分でも決めていなかった。
名刺を一枚、指先で弾く。パリの小さなギャラリー。柔太朗の作品を展示したい、と書いてあった。
舜太の指が止まった。
世界が、柔太朗を見つけている。
それは、本当に望んだことだった。この才能を、世の中に知らしめたい。そう思って会社を作った。
それなのに、この名刺の束が、指先に重かった。
「……舜」
「ん」
「今日、あの人と話してたでしょう」
舜太は、顔を上げた。
「あの人」
「ヴェルディエの、ディレクターの人」
柔太朗は、静かに言った。
舜太は、視線を名刺に戻した。
「話しとったな。柔が」
「うん。いい人だった」
「……そうか」
声の温度を、抑えたつもりだった。抑えられていなかった。
「舜」
「なんや」
「妬いてる?」
「妬いとらん」
即答だった。あまりに速かった。
柔太朗は、口元を、少し緩めた。ポーカーフェイスの、その端が、わずかに笑っていた。
「そう」
「……何や、その顔」
「ううん。かわいいなって」
舜太の顔が、熱くなった。
「大人を、からかうなや」
「同い年でしょ」
柔太朗は、椅子から立ち上がった。ゆっくりと、ベッドの前まで来た。
舜太は、座ったまま見上げた。
部屋の灯りは、ベッドサイドの小さなランプだけだった。柔太朗の顔が、下から、橙色に照らされていた。涼しい目元が、いつもよりやわらかく見えた。
「舜」
「……ん」
「カフス、外して」
柔太朗が、右腕を差し出した。
白いシャツの、手首のカフスボタン。授賞式の前、控室で、舜太が留め直したものだ。
舜太は、名刺を、脇に押しやった。
柔太朗の手首を取る。留め具に指をかける。
指先が、手首の内側の薄い皮膚に、触れた。脈が、静かに打っていた。
外す、という動作が、こんなに時間のかかるものだとは思わなかった。
留め具は小さくて、指は、少し震えていた。
「……舜、下手だね」
「うるさい」
「控室では、上手に留めたのに」
「……あれは」
舜太は、小さな声で言った。
「留めるんは簡単や。外すんは」
続きが、言葉にならなかった。
カフスが外れた。右手が自由になった。柔太朗は、その手で、舜太の手を包んだ。
左手のカフスを外す。同じように。今度は、指が、もう少し、震えなかった。
両手のカフスが、ベッドの上の名刺の束の隣に、並んだ。小さな、銀色の粒が二つ。
「……舜」
柔太朗が、静かに、言った。
「今日の、僕の顔、見てた?」
「見とった」
「壇上から、舜の顔、見えたよ」
舜太は、息を止めた。
「拍手、してた。でも、口元が動いてなかった」
「……」
「何を、堪えてたの」
柔太朗の指が、舜太の頬に触れた。
「……分からん」
舜太は、正直に言った。
「嬉しかった。ほんまに。柔が、あそこに立っとって、みんなが、柔の作品を見とって。俺が、ずっと、見せたかった景色や」
「うん」
「せやけど」
言葉が、詰まった。
「見せたいのに、見せたなかった」
柔太朗の目が、少し揺れた。
「あの白い光の中に、立っとる柔を、俺以外の、みんなが見とる。誰にも、見せたない、思うた。……矛盾しとるやろ」
「うん」
「自分でも、意味が分からん」
舜太は俯いた。
柔太朗は、舜太の顔を、両手でそっと持ち上げた。
目が合った。
「僕が作るものは、世界に見せる」
柔太朗は、静かに言った。
「舜が、見つけてくれたから。それは変わらない」
「……」
「でも、僕が、帰ってくるのは、ここ」
柔太朗の親指が、舜太の、唇の端をなぞった。
「舜のところ」
舜太の胸の奥で、何かが、音を立ててほどけた。
「……ほんとか」
「うん」
「約束、するか」
「約束は、しない」
柔太朗は、少し、笑った。
「約束は、縛るから。でも、そうする」
その言葉の意味を、舜太は、その時、深く考えなかった。ただ、その声が、あまりに、優しかったから。
顔が近づいた。
唇が触れた。
最初は、静かに。それから、舜太の手が、柔太朗の後頭部に回った。髪の中に、指が入る。引き寄せる。
柔太朗の息が、小さく漏れた。
舜太は、柔太朗の手首を握った。さっき、カフスを外した、右手の手首。握る力が、少し強かった。
「……舜」
「……ん」
「痛くは、ないけど」
柔太朗は、唇を離して囁いた。
「そんなに、強く握らなくても、逃げないよ」
舜太は、はっとして、手を緩めた。
「……ごめん」
「ううん。いい」
柔太朗は、その手を、自分の首筋に導いた。
「ここ、触って」
高い襟の、白いシャツ。その奥の首筋。温かかった。脈が、指の下で、速く打っていた。
舜太は、その脈を、指で確かめた。
「……速いな」
「舜のせい」
耳元で囁かれた。
舜太の指が、襟の、いちばん上のボタンにかかった。
もう、震えていなかった。
「……いいの」
「うん」
その瞬間だった。
テーブルの上の、スマートフォンが震えた。
ぶうう、ぶうう、と、静かな部屋に大きく響く。
二人は、動きを止めた。
画面が、光っている。仁人の名前。
『二十二時、五十分。荷物。』
それだけだった。
長い沈黙のあと、柔太朗が吹き出した。
「……仁ちゃん、タイミング、完璧」
「……見とるんか、あの人」
「見てないよ。でも、知ってる」
柔太朗は、笑いながら、舜太の額に、自分の額をこつんと当てた。
「続きは、東京で」
舜太は、しばらく動けなかった。それから、盛大なため息をついて、柔太朗の肩に額を預けた。
「……東京まで遠いわ」
「十二時間」
「長い」
「我慢して」
柔太朗の声は、笑っていた。
舜太は、顔を上げた。
ベッドの上の、名刺の束とカフスボタンが、目に入った。カフスを拾い上げる。柔太朗の、右手を取って、もう一度、留め直した。
手が震えなかった。
「……上手」
「留めるんは簡単やて、言うたやろ」
名刺の束を、内ポケットに戻す。四十二枚。
「共有は」
「あとで」
「……うん、あとで」
柔太朗は、それ以上、何も言わなかった。少し、何かを言いかけたように見えた。けれど、笑って、頷いた。
荷物をまとめる。上着を着る。部屋を出る。
エレベーターの中で、舜太は、自分の右手を見た。
柔太朗の脈の感触が、まだ、指先に残っていた。
内ポケットの中の、名刺の束が、少し重かった。何を、握りしめているのか。その時は、まだ分からなかった。
外してって言うのに約束しないのは、ちょっとずるいって話。
あと二時間、一緒にいれてたら、変わってた。大人のすれ違いってそんなもん。
コメント
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るりさん、第3話拝読しました……カフスを外す動作だけであんなに時間をかけてドラマにしてしまうの、本当にずるいです。笑 柔太朗の「約束はしない」って言葉、一見冷たく見えてあれがいちばん誠実な答えなんだろうなあと。仁人の絶妙なタイミングの連絡に二人して固まるところ、思わず笑っちゃいました。「東京まで遠いわ」に対する「我慢して」の温度感がたまらないです。続きが気になります……!