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あわ
217
晴水 菜乃花
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「おやすみなさい」
そう言って、勇斗が先に部屋へ戻ったあとも、仁人は、しばらく縁側に座っていた。
雪の庭は、音もなく白かった。膝の上の詩集は開いたまま、一行も進んでいない。
忘れてください、と言った。
言ってしまった言葉は、取り消せない。あの人は、忘れないと言った。今夜でも、明日でも、一年後でも、聞きます、と。
仁人は詩集を閉じた。羽織の前を、掻き合わせて立ち上がる。
廊下は冷えていた。板の軋む音を、できるだけ立てないように、自分の部屋へ戻った。
六畳の和室。布団が一組、敷かれている。窓の外に雪の影。電灯の紐を、二度引いて、豆電球だけにした。
布団に入る。
天井が低かった。古い旅館の木の梁の匂い。畳の湿った草の匂い。
目を閉じる。
閉じても、頭が冴えていた。
もし、誰かのためにした選択が、その誰かを傷つけるとしたら。
あんなことを、口にするつもりではなかった。雪の庭を見ていたら、勝手に、言葉が出た。ずっと、腹の底に、沈めていたものが浮き上がってきた。
そして、あの人は聞き出さなかった。
聞き出せたはずだ。あの縁側で、あと一言、あなたは何をしたんですか、と言えば、自分は答えていたかもしれない。あの人は、それを分かっていた。分かっていて、雪を見たまま言った。傷つけた誰かが、決めることかもしれません、と。
胸が、痛いほど静かだった。
寝返りを打つ。
壁の向こうから、微かな音がした。
布団の擦れる音。畳の軋み。誰かが、寝返りを打っている。
隣の部屋は、勇斗だった。
仁人は、息を殺した。
薄い壁だった。古い旅館の漆喰の壁。声を抑えても、気配は伝わる。
低い声が聞こえた。何を言っているかまでは、分からない。電話だろうか。抑えた、落ち着いた調子。「はい」「明日の朝には」「ええ、大丈夫です」と、途切れ途切れに聞こえる。
仕事の連絡だ。後輩に、何か指示している。この人は、雪の夜の旅館でも、仕事をしている。
それが、少し可笑しかった。
声が、止まった。
短い静寂。
それから、小さなため息が、聞こえた。長い息。何かを吐き出すような。
仁人は、その息の、行方を想像した。あの人は、天井を見ているのだろうか。それとも、こちらの壁を見ているのだろうか。
布団の擦れる音。寝返り。
仁人は数えた。
一回。二回。三回。
勇斗が、寝返りを打つたびに、自分の心臓が、少し速くなった。馬鹿なと思った。何をしているのだ、自分は。
五回目のあとで、静かになった。
仁人は、上半身を起こした。
壁は、頭の左側にあった。手を伸ばせば届く。
しばらく迷った。
それから、右手を、ゆっくり、壁に当てた。
冷たかった。漆喰の、ざらりとした感触。
向こう側に、人がいる。
その事実が、手のひらに、じわりと伝わってくる気がした。壁の厚さは、せいぜい数センチ。その向こうの、布団の上に、あの人がいる。
指先が、無意識に動いた。
壁を、軽く、一度叩いた。
コン。
小さな音だった。自分で驚いた。何をしている。すぐに、手を引こうとした。
その時、向こうから返ってきた。
コン。
仁人は、動けなくなった。
一度だけ。同じ強さで、同じ間隔で。あの人は、聞いていたのだ。眠らずに。
心臓が、耳の中で鳴った。
もう一度、叩いた。今度は二回。
コン、コン。
返ってきた。
コン、コン。
仁人は、口元を、手で覆った。笑いが、込み上げてきた。声を出せない。肩が震えた。何をしているのだ、三十前後の、男が二人、旅館の壁を叩き合って。
「……起きてます?」
壁の向こうから、声がした。
低く、抑えた声。壁越しで、少しくぐもっている。けれど、はっきり聞こえた。すぐ近くの、耳元で囁かれたように。
仁人は、深く息を吸った。
「……起きています」
自分の声も、小さかった。
沈黙があった。
「よかった」
勇斗が言った。
「俺だけ、かと思ってました」
「眠れないとき」
勇斗の声が、壁越しに続いた。
「俺、数える癖があるんです」
「……何を」
「言わなかったことを」
仁人は、壁に、額を預けた。冷たい漆喰が、熱を持った額に心地よかった。
「職業病ですね」
「ええ。……今夜は、多くて」
「多い、ですか」
「あなたが、言いかけて、やめたことが」
声が、静かだった。責める調子はなかった。ただ、事実を置くように。
「……忘れてください、と言いました」
「忘れてません」
「……」
「忘れられません。まじでさ」
最後の一言だけ、少し砕けた。この人は、こういうとき素が出る。
仁人は、目を閉じた。
「……困ります」
「困らせてますか」
「少し」
「すみません」
「いえ」
壁の向こうで、小さく笑う気配がした。
「でも、聞き出しませんから」
「……知っています」
「あなたが、自分で話す日まで」
仁人は、答えられなかった。喉が詰まっていた。
それは、あまりに優しい言葉だった。優しくて、怖かった。優しさに、寄りかかってしまいそうな自分が、怖かった。
「……勇斗さんは」
仁人は、話題を変えた。声が掠れていた。
「眠れない夜は、他に何をしますか」
「そうですね」
勇斗は、少し考えた。
「誰かの声を聞きます」
「……声」
「はい。……今、してます」
仁人の耳が、一気に熱くなった。
壁に、額を押し付けた。冷たいはずの漆喰が、熱を吸い取っても、足りなかった。
「……からかっていますか」
「いえ。本当のことです」
「……」
「あなたの声、落ち着くんです。低くて静かで」
仁人は、両手で、顔を覆った。
危ない、と思った。
何かが、越えかけていた。壁一枚。声だけの距離。姿が見えない分、言葉が、無防備になる。自分も、あの人も。
このまま、話し続けたら、何かを言ってしまう。
「……水を、飲んできます」
仁人は、言った。
「あ、はい」
勇斗の声が、少し慌てた。
「どうぞ」
襖を開けて、廊下に出た。
冷たい空気が、浴衣の裾から、入り込んできた。廊下の電灯は、一つおきに消されている。薄暗い。雪の夜の静けさ。
自販機は、突き当たりにあった。
歩き出したその時。
隣の部屋の、襖が開いた。
仁人は、足を止めた。
勇斗が、そこに立っていた。
浴衣姿だった。帯が、少し緩んでいる。襟元が、緩やかに開いて、鎖骨が覗いていた。髪が、寝癖で、少し乱れている。
二人は、同時に固まった。
「……水」
「……俺も」
二人の声が重なった。
沈黙。
それから、勇斗が吹き出した。
「行きましょうか」
「……ええ」
並んで、廊下を歩いた。
肩が触れそうな距離。仁人は、意識して、視線を前に向けた。あの、開いた襟元を、見ないように。けれど、視界の端で、それは、確かにそこにあった。
自販機の前に着いた。
明かりが、二人の顔を、青白く照らしていた。
勇斗は、財布から小銭を出して、缶コーヒーを一つ、買った。ホットのボタン。ごとん、と、音を立てて、取り出し口に落ちた。
「仁人さんは」
「水で」
仁人は、水のボタンを押した。
缶を取り出す。冷たい水。喉が、渇いていた。一口、飲んだ。
勇斗は、缶コーヒーを、持ったまま動かなかった。
「……仁人さん」
「はい」
「手、冷たいでしょう」
勇斗は、缶を差し出した。
「温めてください」
仁人は、瞬きをした。
「……熱いですよ、それ」
「知ってます。手を、温めるだけです。飲まなくていいので」
勇斗は、笑った。
仁人は、少し迷って、その缶を受け取った。
両手で包む。熱が、掌に、染み込んできた。冷え切っていた指先が、じんわりとほどけていく。
缶の温もりの中に、勇斗の指が、残っていた気がした。
「……あったかい」
「でしょう」
二人は、自販機の前で、立ったまま、しばらく黙っていた。
青白い明かりの中で、勇斗の顔が近かった。まつげの影。少し開いた唇。浴衣の襟の隙間。
仁人は、缶を握りしめた。
危うい距離だった。手を、伸ばせば届く。伸ばせば、何かが、変わる。
勇斗が、口を開きかけた。
何かを、言おうとしていた。
「……戻りましょうか」
仁人が、先に言った。
勇斗は、言いかけた言葉を、飲み込んだ。それから、小さく笑った。
「はい」
部屋の前で、それぞれの襖に手をかけた。
「おやすみなさい、仁人さん」
「……おやすみなさい」
襖が閉まる。
仁人は、布団に戻った。缶コーヒーを、枕元に置く。まだ、温かかった。
壁に背を向けて、横になる。
眠れなかった。
けれど、さっきまでの、あの、痛いほどの静けさはなかった。
壁の向こうで、布団の擦れる音がした。寝返り。一回。
仁人は、目を閉じて、その数を、数えた。
しばらくして、壁の向こうから、小さな音が届いた。
コン。
仁人は、目を開けた。
手を伸ばして、壁を叩いた。
コン。
それだけだった。
それだけで、十分だった。
朝、二人は、旅館の食堂で、顔を合わせた。
「おはようございます」
「おはようございます」
まるで、何もなかったように。
勇斗は、いつもの笑顔だった。仁人は、いつもの平らな声で、焼き鮭をつついた。
雪は止んでいた。窓の外が眩しかった。
何も、起きなかった。
壁を叩いて、声を聞いて、缶コーヒーを、受け取っただけ。それ以上のことは、何も。
けれど、と仁人は思った。
起きなかったことが、あの夜、いちばん、危うかった。
言わなかったこと、起きなかったこと、埋めなかった余白が、一番記憶に残るよねって話。
全部を言う必要もないし、すぐ手に入れる必要もない。はず。たぶん。だから本編すすまんけど。
コメント
1件
うわあ、この第4話、静かなのに心臓がぎゅっとなりました。壁越しに「コン、コン」って叩き合うの、子供みたいでいて、でも二人の距離がじんわり縮まってく感じがたまらなかったです。「忘れてください」と言った仁人に「忘れられません。まじでさ」と返す勇斗の不意の素の言葉、あれで一気に親密さが滲みましたね。缶コーヒーを「手を温めるだけ」と差し出す仕草も、何気ないけど優しすぎる。朝になって何事もなかったかのように振る舞うラストも含めて、余白の美しさが際立つお話でした。