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ウーヴェが、己の宣言通りにずっと傍にいて大きな愛情で包んでくれるリオンの温もりと力を借りて不安な夜を越えた次の日、朝になるとさすがに仕事へと意識を切り替えた為か昨夜のような顔を見せることはなく、二人で朝食を食べている時もその片鱗すら窺うことは出来なかった。
今朝のウーヴェの様子から自宅で一人になるまでは大丈夫だと胸を撫で下ろしたリオンは、仕事の合間を縫ってウーヴェのクリニックに顔を出したのだが、いつもとは違いリアが書類の束を落として驚くほどの静けさで入っていく。
「…!」
「ハロ、リア」
「…驚いたわ」
そんなに静かに入ってこれるのならばいつもそうして欲しいと苦笑し、書類を集めながらちらりと診察室を窺うが、そんな彼女にリオンが口の前に指を立てて合図を送った為、さらに驚いて手を止めてしまう。
「ヘル・ビアホフが勤務する病院って知ってるか?」
「え?オイゲン?」
「そう。ちょっとヤボ用があるんだけどさ、知ってたら教えて欲しいなぁって」
電話で話をするよりも会って返事を聞く方が早いからと笑い、リアの止まってしまった手の代わりに書類を乱雑に束ねたリオンは、肩を竦めて教えて欲しいと告げて返事を待つが、彼女の口から出た言葉は質問に答えてくれたら教えても良いと言う意外な言葉だった。
「へ?」
「教えてちょうだい。ウーヴェに何かあったの?」
「何かって?」
自分の言葉に目を丸くして返すリオンを見れば何も知らないのかと思ってしまうが、それをぐっと堪えてウーヴェの様子がここの所おかしいこと、特にある特定の事件の被害者である患者の診察をするときには神経が尖っているのか、普段ならば滅多にないケアレスミスをしたりカルテに記入されている文字に彼らしくない乱れがあると不安げに眉を寄せ、事情を知っているのならば教えてくれとリオンを見ると、周囲の空気が緊張するような沈黙が訪れ、暫くしてから小さな溜息が二人の間にこぼれ落ちる。
「あなたとケンカをした時とは雰囲気が違うの。怒ってるよりも何かずっと戸惑って悩んでいる感じがするのよ」
「事情は知ってるけど…話せねぇ」
「どうして?」
「ん?だってオーヴェなら自分から話をするだろ?」
今までの付き合いからウーヴェの性格は良く知っているだろうと笑われて確かにそうだと目を伏せるが、いつものリアならば自分からそっとウーヴェに切り出して話を聞いているんじゃないのかとも言われて今度は目を瞠ってしまう。
「オーヴェはリアになら話をすると思う」
仕事を離れての付き合いもしているしウーヴェのことを良く理解しているリアならば、少し時間が掛かったとしても必ず相談する日が来ると告げて彼女の肩に手を置いたリオンは、それでも気になるのならば自分から聞けばいいともう一度呟いて片目を閉じる。
「オーヴェは絶対にリアのことを邪険に扱ったりしない。それは分かるよな?」
「ええ…でも、聞いても良いのかしら」
「それを俺じゃなくてオーヴェにぶつけてみろって」
「…そう、ね」
「そうそう。で、俺の質問に答えて欲しいな」
ヘル・ビアホフの職場である病院は何処にあるんだと、いつもの笑顔で問い掛けて早く答えてくれよとリアを急かせたリオンは、望む回答を得ると同時に満面の笑みを浮かべてサムズアップをする。
「ダンケ、リア」
彼女が次の疑問の声を上げる前に頬にキスをして口を封じたリオンは、ひらひらと手を振ってやって来たときと同じ静けさで出て行く。
その背中をもの言いたげな顔でリアが見送るが、出て行く寸前のリオンの横顔が気に掛かり、ウーヴェに彼が来たことを伝えるべきか悩んでしまうのだった。
何を置いてもまずそれをしなければいけない、そんな課題を抱えながらもそれを果たす機会を与えられずに忸怩たる思いを抱えていたオイゲンは、先日の公開手術の手際が見事だと病院長を始め役員達から絶賛され、心の中で決して消えることのない友人の悲しそうな目を一時だけでも忘れることが出来、無意識に安堵の溜息をついて神妙な面持ちで頷く。
「副部長の椅子は確実だが、少しでも早く出世して私の右腕になって欲しいね」
病院の経営を一手に引き受け、プライベートでは妻の父でもある男の言葉に頷き、その日が一日でも早く来る事を願っていると告げると、義父の手が茶封筒を取りだしてオイゲンへと差し出してくる。
「何ですか?」
「こんなものが今日届いた」
「……これは…」
受け取った茶封筒の中に入っていたのは、彼もいつか見せられたことのある写真で、茶封筒には義父の名前が印字されているだけだった。
「これは事実なのかね?」
「……多分」
妻-義父にとっては実の娘の不倫現場の写真を見せられて平静でいられる筈もなく、双眸に動揺を浮かべてオイゲンを見る義父を同じく動揺した-風を装った目で見つめた彼は、先日部長からも同じ写真を見せられたことを告白し、俄には信じられないと額に手を宛がって妻の不倫に苦悩している夫を演じる。
実際、今のオイゲンにとってはウーヴェに謝罪できるかどうかだけが気掛かりで、関係の冷め切っている妻が不倫していようがその写真を義父に暴露されようがどうでも良かった。
その思いをおくびにも出さないで神妙な面持ちのまま義父を見、どうするべきだろうかと相談を持ち掛けた彼は、義父の顔に浮かんでいるものが娘の不倫に対する苛立ちではないことを察し、こちらが妻に対して冷たくなっているのならば妻とその父も己に対して冷たくなっていることに気付く。
「……近いうちに妻と話をします」
「そうだな、それが一番だな」
二人の間で話題に一段落付いたときデスクの電話が鳴り、受話器を取った義父が一言二言受け答えするのをぼんやりと見ていた彼は、客が来ているそうだと告げられても咄嗟に反応できず、何度か名前を呼ばれてようやく顔を上げ、来客の予定はないと首を傾げる。
「受付で待っているから来て欲しいそうだ」
「分かりました……その写真について、私から妻に話をします」
「分かった」
義父の手から写真が入った茶封筒を受け取りながら念のために釘を刺して一礼し、院長室から角を幾度か曲がって廊下を進み、外光をふんだんに取り込んで明るい階段を下った先のロビーを横切ると、受付のカウンターに肘を突いて女性職員と何やら親しげに話し込んでいる背中が見え、その横顔を見た瞬間に足が強張って動かなくなってしまう。
「────あ、来た来た。ハロ、ビアホフ先生。アポも取らずに失礼」
女性から己の背後を指さされてカウンターに寄り掛かりながら振り返った青年が目を細め、次いで親しげに語りかけて手を挙げた為、オイゲンもぎこちない様子で頷く。
「…いや…どうしたんだ?」
喉がカラカラに渇くのを何とか堪えて同じ口調で語りかけ、込み入った話があることを笑顔で告げられて一つ頷くと、受付の女性にもしも私に来客があれば丁重にお断りしてくれと告げてリオンを部屋に案内し、ネクタイのノットを指先で緩めつつソファを勧めて自らも座り込む。
「……何だ」
「受付ではガマンしたんだぜ、誉めてくれよ、ドクター」
力なくリオンに今日の来訪の理由を問いかけたオイゲンは、胸倉を掴まれたことに気付いても受身をとる事が出来ずに呆然と目を瞠る。
オイゲンの趣味は登山でありトレーニングは欠かさないでいるが、長身で体格の良いオイゲンを一気に引きずりあげる腕力を見せつけたリオンは、同じ目線の高さになった瞬間、にたりと不気味な笑みを浮かべて軽く頭を引く。
あの夜、年下の得体の知れないと見下していたリオンに好き勝手に殴られ、反撃することすらロクに出来なかったオイゲンに最早抵抗の意思はなく、立てと笑顔で脅されながら立ち上がり、己目掛けて拳が突き出されるのをスローモーションのように認識し、直後に訪れた重みと痛みに小さく悲鳴を上げながら膝をついて口元を覆い隠す。
「……痛いな」
「殴ってるんだ、痛くて当たり前だ」
だが、あんたがウーヴェに与えた痛みを思えばこれくらいは痛いうちに入らないと冷えた声で言い放たれて目を伏せ、あの夜、雷鳴が轟いている中で無理矢理押さえつけた肢体が恐怖に震え双眸からも感情を無くしてしまっていたことを思い出すと、確かにこんな痛みは痛みではないと冷静に呟いてしまう。
あの夜、リオンに殴られた痛みとウーヴェを手酷く傷付けてしまった後悔に打ち拉がれながら何とか教会から自宅に戻り、リビングの惨状から狂気のような時間を突き付けられその場に座り込んで己の言動を心の底から悔い、可能ならば時間を巻き戻して欲しいと願ったが、彼の後悔や苦しみなど素知らぬ顔で時だけは過ぎていった。
その過ぎ行く時の中でいつもと同じように眠り食事をし、妻に見送られることもなく病院へと出勤し、患者の顔をロクに見ることもなく手術を済ませ、病院の経営陣と顔を会わせる時にはそれなりにお世辞を言ったりと、何のためにここにいるのかという根源的な疑問を脳裏に浮かべつつ時をやり過ごしてきたが、その心にはウーヴェの悲しみに沈む顔が棘となって突き刺さっていた。
どれ程謝ろうが許してくれと地面に額を擦り付けて懇願しようが、心の中のウーヴェはいつもただ黙って悲しい目で見つめてくるだけで、許してくれと直接伝えたとしても返事もして貰えないほど嫌われているのだと、ベッドの中で寝汗にまみれながら飛び起きるようになっていた。
ぐっしょりと汗が滲む手を握りしめ、己の思いは願いはただひとつであることを改めて思い知らされてしまい、自嘲に肩を揺らしてもいた。
「…ウーヴェに直接会って謝りたい」
己に出来ることはただそれだけで、謝って許して貰いたいとは思わないが、とにかくウーヴェの顔を見たいと告げて拳を握り、どんな言葉を投げ掛けられても堪えようとしたオイゲンにリオンが瞼を平らにし、呆れたような顔で一つ笑った刹那、オイゲンは己の脇腹に鈍い痛みを感じて身体を折る。
「…ァ…っ!!」
「ヤッてる最中にオーヴェはそんな声を出してねぇだろ?」
ウーヴェがレイプされている間は悲鳴を上げることなど無かっただろうと呟き、膝を着くオイゲンが両手で押さえている脇腹を蹴り飛ばす。
悲鳴を上げて倒れ込むオイゲンを冷たい目で見下ろし、ウーヴェの悲鳴を聞いたことがあるかと問い掛け、脂汗が浮く顔をオイゲンが上げた為にもう一度ゆっくりと問い掛ける。
「夢の中でもあんたに犯される、だから寝るのが怖いって小さなガキみたいに震えてるオーヴェが想像出来るか?」
「……………」
脇腹から身体中に広がる痛みよりも激しい痛みを感じさせる声を聞きながら唇を噛み締め、たった今教えられた友人の姿を脳裏に描くとやはりただただ謝り許しを乞うことしか思い浮かばず、心身の痛みを堪えてその場に座り込むと、見下ろしてくる冷たい青い双眸に目を細める。
嫉妬に取り憑かれた己の行動がウーヴェに与えた傷の深さを言葉と態度で知らされ、本当に酷いことをしたと項垂れると、意味がつかめない溜息が頭上に落ちてくる。
「さっき受付で聞いたけど、あんたもうすぐ副部長になるんだって?」
「……そうらしい」
「オーヴェが他人を蹴り落としても出世したいヤツがいるって言ってたけどさ、あんたのことだったんだ。……せいぜい女の力を使って出世しろよ」
「……………」
実力もあるんだろうがそれ以上に妻の力を使ってこの病院のトップに立てよと笑い、オイゲンが無言で見上げてくるのにもう一度冷たく笑ったリオンは、じゃあなと手を振ると最早彼には興味がないと言いたげな顔で部屋を出て行くのだった。
リオンの背中を見送ったオイゲンは、いつまでも床に座っている訳にもいかず、痛む脇腹を押さえながら立ち上がり、己のデスクに腰を落とした時、ドアがノックされて返事をする前に妻が入って来る。
「オイゲン、今日の夜だけど…!?」
話しかけながらドアを開けた彼女は、己の夫がデスクに肘をついて項垂れている様子に首を傾げ、その顔に殴られたような痣を発見して甲高い悲鳴を放つ。
「……騒がないでくれないか」
頭が痛いと呟き、妻が血相を変えて駆け寄ってくる様を冷めた目で見つめたオイゲンは、興味もない相手が怪我をしたぐらいで血相を変える事は無いだろうと呟き、妻の目を更に見開かせてしまう。
「オイゲン?」
彼女が心配する顔や態度から嘘臭さを感じ取ってしまい、その瞬間総てが脳内から掻き消えたことに気付き、デスクに手をついて静かに立ち上がる。
「警察を呼びましょう!」
「呼ばなくても良い……」
「でも…」
「呼ばなくて良いと言ってるんだ。それよりも、この間の公開手術の時にいたあの男は有能なのか?」
「突然どうしたの?」
妻の驚く表情に冷たい笑みを浮かべ、気怠げに茶封筒の中身をデスクにぶちまけたオイゲンは、一瞬にして彼女の顔から驚きが消えて蒼白になるのを同じ顔で見つめ、そっとデスクを撫でる。
「義父に送り付けられてきたそうだ」
「……誰が…」
「誰が送ってきたとかは関係ない」
そんな事よりもこの写真が意味することの方が重要だと笑うオイゲンだったが、不意にそれすらも最早どうでも良いことと思っている己に気付いて小さく笑う。
「義父と相談するのならすれば良い────俺にはもうどうでも良いことだ」
「オイゲン!?」
「……詳しいことは弁護士のヨハンに聞いてくれ」
いざというときの為に必要な書類は総て用意して預けてあること、こちらとしてはその不倫に対する慰謝料なども請求しない代わりに、自分名義の動産不動産だけを結婚前の取り決め通りに貰っていくと告げてもう一度、まるでここに座ることが最後になる様な顔でデスクを撫でて呆然とする妻に最後の笑顔を見せる。
「残念ながら5年で終わるが…今までありがとう」
それなりに楽しかったし嬉しい事も多かった、そしてこの病院で働けたことは本当に良かったと告げて白衣を脱いでデスクにパサリと投げ出したオイゲンは、何も言えずに無言で見つめてくる妻-すでに気分は元妻-の頬を一つ撫でてキスをすると、義父とあの男とこの病院を発展させていってくれと告げて静かに部屋を出て行く。
己の夫が告げた言葉の一割すら理解出来ていない顔で見慣れた広い背中を呆然と見送るが、ドアがぱたんと閉じた瞬間、彼女は膝から崩れ落ちるように床に座り込んでしまうのだった。
今日一日の診察を何とか保った平常心で乗り切り、いつも以上に疲労を感じてお気に入りのチェアに深く腰を落としていたウーヴェは、リアがお茶の用意を運んできてくれたことにも気付かずに目を閉じていた。
「…お疲れ様、ウーヴェ」
「ああ……ありがとう、リア」
コーヒーテーブルにトレイを置き、いつもより甘さを感じられるようにしたカフェオレ入りのマグカップをウーヴェの前に差し出すと、向かい合うように腰を下ろしたリアが躊躇うような素振りを見せた為、小首を傾げてどうしたと問いかける。
「…言うべきかどうか…ずっと悩んでいたんだけど…」
結局答えが出ないままだがこのまま黙っているのも嫌だからと、午後の間ずっと悩んでいたことを告白しながら目を伏せるリアに当然のように驚いたウーヴェは、チェアの中で姿勢を正して聞く体勢になると、さっきとは違う不思議と何でも話してしまいたくなるような声でどうしたと問いかけ、彼女の心の負担を軽くする。
「今朝…あなたが診察中にリオンが来たの」
「リオンが?警部から資料でも預かってきたのか?」
リオンがここに顔を出す場合、昼の休憩時や仕事が終わった頃が多く、午前中に来るとすればそれはウーヴェに対して精神科医としての意見を聞きたい場合が多かった。
だから今朝もそれで来たのかと当然の問いを発したウーヴェだが、リアの顔が曇ったまま左右に揺れたことに眉を寄せ、なら何をしに来たんだと呟くと躊躇いを振り切るように彼女が顔を上げて腿の上でぎゅっと手を握る。
「ウーヴェ、何かあったの?」
「リア?」
「あなたの様子がおかしいからリオンに聞いても答えられない。ウーヴェに聞けって」
「…………」
リオンに告げたのと同じ疑問をウーヴェに直接ぶつけ、肺の中を空にするような溜息をついて目を閉じた彼女をじっと見つめていたウーヴェだったが、今度はウーヴェが躊躇うように視線を彷徨わせ、次いで額を押さえてきつく目を閉じる。
「……カルテの字も乱れているし時々上の空になるし。ねえ、何かあったの?」
ウーヴェを思っての言葉と態度でテーブルに身を乗り出すように問いかけ、返事をしないでただ額を押さえて目を閉じるウーヴェの言葉を待つが、その口から出てきたものはただの溜息だけだった。
「ウーヴェ…」
「……時間を…くれないか、リア。いつか話せると…思う」
その弱々しい声にリアが目を伏せて聞いてはいけないことを聞いてしまったと謝罪を繰り返すが、そんな彼女を安心させるような声が少し離れた場所から投げ掛けられる。
「リアは悪くないよな。な、オーヴェ」
「……リオン」
罪悪感から顔を青くするリアを庇うように己の恋人に呼びかけたのはたった今話題になっていたリオンで、ドアをノックしたが返事がなかったので入ってきたと肩を竦め、呆然と己を見つめてくる二対の双眸に目を細めると、そのままウーヴェの背後に回り込んでそっと頬にキスをする。
「仕事お疲れ様、オーヴェ」
「…ああ…お前も、お疲れ様」
「うん」
その、いつもと変わらないやり取りに彼女が無意識に安堵の溜息をつき、それを横目で見たリオンがウーヴェの身体を背もたれ越しに抱きしめながらその耳に口を寄せる。
「いつか話せる。そうだよな、オーヴェ」
「………」
リオンの言葉に苦悩の色を浮かべたウーヴェが顔を背け、その様子から本当に言い出しにくい何かが起きたのだと察するが、彼女が真っ先に思い浮かんだのはウーヴェとその家族-特に父と兄-との関係で、ウーヴェをこんなにも思い悩ませるようなことがあったのかと問いかけようとして口を閉ざすと、彼女の思考を読んだのかウーヴェが自嘲に唇を歪める。
「……家は関係、ない」
家とは良い意味でも悪い意味でも接触を持っていない為に何もないとも告げられ、ならば思い当たるのは交友関係しかなかったが、脳裏に浮かんだ今朝と今目の前にいるリオンの表情が重なり問い掛けてきた内容が一つのイメージになり、彼女自身に確信があったわけではないがその言葉を口に出し、そしてウーヴェの反応を見て顔中から血の気を引いてしまう。
「……オイゲンと何かあったの?」
「!!」
ウーヴェの身体が竦んで顔色もさらに悪くなったことで確信を抱き、今はこれ以上自分から問い掛けるのではなく自ら語ってくれるのを待とうと決めたリアは、ウーヴェの名を呼んで視線を合わせると、無理矢理話をさせようとしてごめんなさいと告げてそっと立ち上がる。
「……お疲れさまでした、ドクター・ウーヴェ」
「……あ、ああ…フラウ・オルガもお疲れさま。また明日も頼む」
「はい」
いつもの日々の締めくくりの挨拶を交わし、静かに出て行くリアの背中を見送ったウーヴェは、リオンの温もりに背中が守られていることに自然と安堵を覚え、眉間の皺を深くしたままチェアの背もたれ越しにリオンに寄り掛かる。
「いつか話せるよな、オーヴェ」
「……多分、な」
ウーヴェを思っての態度であることは十二分に分かっているし心配をかけていたことへの申し訳なさもあるが、まさか友人からレイプされたとは到底口に出せず、何とか誤魔化す方法を考えてみるが、心配してくれている彼女に方便とは言え嘘を吐くのも躊躇われてしまい、結局時間をくれとしか言えなかった。
ウーヴェの葛藤を読み取ったリオンがそっと囁いてウーヴェの肩を抱くと自信のない声が返ってくるものの、口に出せるのだから大丈夫だという思いもあり、溜息を吐いてウーヴェの白い髪に頬を押し当てる。
「オーヴェ…仕事終わったのなら帰ろうぜ」
「ああ……リオン、どうしたんだ?」
「へ?何がだ?」
今日も仕事が終わったのだから家に帰ってゆっくりしようと懇願するリオンに同調したウーヴェだったが、ふと視界に入ったものの違和感に気付いて首を傾げ、半ば振り返りながら驚く青い瞳を間近に見つめる。
「何かあったのか?」
「いや、だから何のことだ?」
心底分からないと目を丸くするリオンの腕の中で身体を捻って可能な限り正対すると、驚く恋人の右手を掴んで二人の間で手を広げさせる。
「この痣はどうしたんだ?」
「……あ、ホントだ。気付かなかったや」
ウーヴェの問いにリオンがすっとぼけた声で何だこれと答えるが、いつものように笑う気配を見せないウーヴェに気付いて右手をそっと握ると、痣を無表情に見下ろして唇の片端を持ち上げる。
「今朝ここに来たのか?」
「リアに聞いたか?」
「ああ。何をしに来たんだ?」
彼女ははっきりとは言わなかったが、今朝の用事は一体なんだと問い掛けながらチェアから腰を浮かせたウーヴェは、リオンの顔に見たことのないぞっとするような笑みが浮かんでいることに気付き、その表情と先程のリアの一言とが結びつき、ついで手の甲の痣の意味を瞬時に悟って蒼白になる。
「まさか……イェニーに会いに行ったのか…?」
「イェニー?誰だ?」
ギムナジウムの頃に毎日何度と無く呼んでいた名前を咄嗟に呟いてしまい、リオンが誰のことだと眉を寄せた為に無意識に呼んだことに気付き、誰のことだと更に問われて小さな声でオイゲンだと告げると気のない声が返ってくる。
「ふぅん…イェニーって呼んでたんだ?」
「……ああ」
だがそれもギムナジウムまでで大学に入ってからはオイゲンと呼んでいることを告げ、彼に会いに行ったのかともう一度問い掛けると、膝が震えてしまうような笑みを浮かべてリオンがウーヴェの顔を覗き込む。
「行ったって言えばどうする?」
「……どうして…?」
リオンの意地の悪い問い掛けにウーヴェが声を振り絞り、何故彼に会いに行ったんだと問えば信じられない言葉を聞かされた時のように青い双眸が盛大に見開かれ、直後に笑い声が響き出す。
「どうしてって…決まってるだろ?」
あいつはお前に何をしたんだと笑ってウーヴェを真正面から見つめ、夢で魘されるぐらいだから忘れていないだろうと目を光らせるとウーヴェの手が腿の横で握りしめられる。
「…殴った、のか…?」
「………我慢できると思うのか?」
ウーヴェの震える声に同じく微かに震える声で答えたリオンは、何故手を出す必要があると小さく呟かれて一度唇を噛むが、お前のあの姿を見て我慢できるはずがないと自嘲気味に呟き、痣が浮かぶ手で前髪を掻き上げる。
「……でも、あの時、もう良いと…言った…んだ、リオン」
「分かってる。もう良いってオーヴェが言うのも分かってるよ」
でもどうしても我慢できなかったと、蒼白な顔で見つめてくるウーヴェを睨むように見返して我慢など出来るはずがないと吐き捨てるが、ウーヴェのターコイズ色の双眸が哀しみに染まっていることに気付いて歯軋りをする。
「どう、して、なんだ…?」
「だから、我慢出来なかったって言ってるだろ!?自分の恋人をレイプされて大人しくしてろって言うのか!?」
そんなことが出来るぐらいなら坊主になっていると叫び、逆に何故己の行為を非難されなければならないのかとも叫んだリオンだが、ウーヴェの顔が哀しみに沈んでいくのを見ていられず、つい冷めた笑みを浮かべて腕を組む。
「さっきからどうして、何故だって言ってさ…あいつを庇うのか、オーヴェ?」
「!!」
「やっぱギムナジウムのダチって特別なのか?あんなことをするヤツでもダチだからって庇うのか?」
「ちが…っ…!」
「どう違うんだよ?」
殴った俺を非難するのは相手を庇ってのことではないのかと、震えてしまいそうな程の強い光を目に湛えるリオンに頭を振ったウーヴェは、どう違うのか教えてくれと戯けた風に促されてもう一度頭を振る。
「リ…オン、違う…っ!そうじゃ…な、い…!」
「何が違うんだ?言ってくれなきゃ分からねぇよ─────言えよ、オーヴェ!!」
リオンの声にウーヴェがびくんと肩を竦め、顔を上げて何かを必死に伝えようと口を開くが、極度の緊張下にあるウーヴェの喉から出てくるのは不明瞭な言葉の意味を持たない音だけだった。
だが、そんな己の意思を声に言葉にして伝えられなくても己の真意を伝えたいとの思いから喉の奥から絞り出すような声で苦しげに眉を寄せてリオンの名前を何度も呼ぶと、誰に対するものかは分からない舌打ちの音が流れ出し、俯くウーヴェの横を足早に通り過ぎて診察室から出て行ってしまう。
少し離れた位置のドアが閉まる音をぼんやりと聞いていたウーヴェは、クリニックの入口の扉が苛立たしげに閉められた音も聞いてしまい、そのまま力無くそこに座り込んでしまうのだった。