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「ここ、静かで良いお店ですね。お料理も美味しいですし。」
落ち着いたオレンジ色の照明に馴染む木製のテーブルの向こう側、アヤトさんは私の言葉に「そう言って頂けて良かったです。」と言って笑った。
「こじんまりとしたお店ですけど、よく来るんです。仕事終わりの疲れた日に丁度良くて。」
部屋なし専用のマッチングアプリで知り合ったアヤトさんは、私より2歳上の男性だ。細い瞳は笑うと線になり、薄い顔立ちが優しげであった。会うのは今日が初めてであったが、アヤトさんの低い声が心地よく、自然と力が抜ける。
アヤトさんが連れてきてくれたこのお店は、少し薄い味付けの料理に、アルコール強めの酒が私好みだった。アヤトさんとは気が合いそうだ、と思いながら良いお店に出会えたことを感謝した。目の前に置かれた酒が、体温を程よく温めていく。
「ユウナさんは部屋なしになられてからどのくらいなんですか?」
「丁度2年くらいになります。アヤトさんは?」
「僕はもう、5年くらいになります。2年なんて、まだお辛い時期でしょう。」
アヤトさんがグラスを持ち上げると、大きな氷がカランと素朴な音をたてる。ウイスキーを嗜むアヤトさんの姿は、自分よりもひどく大人に見えた。そんなことないですよ、と笑って言葉を返すと、アヤトさんは少し困ったように眉を下げて笑ってくれた。
「あの、アヤトさんはどうして部屋なしになられたんですか?」
「あぁ、そうですね。5年前に事故に逢ってしまって、その時にチップが故障してしまったんです。」
アヤトさんはその後も部屋を失った時の話を続けた。当時恋人がいたこと、ふたりの部屋も見つけていたこと、プロポーズをしようとしていたこと。そして部屋なしになった後、恋人に振られたこと。話し終えたあと、「まぁ、よくある話ですよ。」とアヤトさんはグラスを持ち上げた。
カランという氷の音が、今度はアヤトさんの複雑な感情を代弁しているようだった。
「今の時代、部屋を失ってしまえば結婚も恋愛も、友人関係だって上手くいかないのが当たり前ですから。」
「…そうですね。」
部屋を失う理由の大体は事故によるチップの破損である。アヤトさんだけでなく、他にもアヤトさんと同じ経験をしている人がいるのだろう。部屋がない私達はお互いを知ることはできない。寄り添うことも、分け合うことも、できない。
今だって、私はアヤトさんの味方になりきれない。
「本当に、困っちゃいますよね。」
私はアヤトさんにそんな他人行儀な言葉をかけながら、ほんのりと香水が香る自分の左手首を右手でそっと掴んだ。