テラーノベル
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忘却の谷の庵に、穏やかな、けれど少しだけぎこちない朝が来た。
目覚めた元貴は、自分の黒い猫耳が元通りになっていることに安心したのか、何度も耳をパタパタと動かしていた。
「……ねえ、若井。なんでギターを持たないの?」
元貴が不思議そうに首を傾げる。
若井は、感覚のなくなった右腕を隠すように笑って、左手だけで元貴の頭を撫でた。
「ちょっと、弦を張り替えすぎて指が疲れちゃってさ。
代わりに涼ちゃんが、今日は片方の耳に可愛い綿を詰めてるだろ? ……今の流行りだよ、な?」
「……うん、そうだよ。元貴、気にしないで」
涼ちゃんは左耳に巻かれた包帯を隠すように帽子を被り、優しく微笑んだ。
しかし、元貴の違和感は別のところにあった。
「……あのさ。僕、歌いたいんだけど……。
……どうやって声を出すのか、忘れちゃったみたいなんだ」
薬師の言った通りだった。命を繋ぐ代償として、元貴の脳内からは「音楽の理(ことわり)」が消えていた。
あんなに美しく鳴り響いていたハミングの出し方も、音符の読み方も、すべてが真っ白な霧の中。
元貴の琥珀色の瞳に、不安の色が広がる。
「……歌えない僕は、もう君たちの仲間じゃない……?」
「バカ言え!」
若井が思わず立ち上がり、動かないはずの右腕を動かそうとして顔をしかめる。
「歌えないなら、また一から作ればいいだろ。……俺のこの腕だって、涼ちゃんの耳だって、お前と一緒に『新しい音』を見つけるために、こうなったんだから」
若井は不自由な右手にピックを無理やり固定し、震える手でリュートを抱えた。
「……聴いてろ。……ド……レ……ミ……」
奏でられた音は、かつての若井の超絶技巧とは程遠い、たどたどしいものだった。
涼ちゃんも、左側からの音が聞こえない不安を押し殺し、右耳だけで空気の震えを感じながらフルートを吹く。
「……僕も、練習し直しなんだ。元貴、一緒にやろう?」
二人のボロボロの、けれど誰よりも熱い音を聴いて、元貴の黒い猫耳がピクピクと、戸惑いながらも反応し始めた。
「……若井の音、……前よりずっと、土の匂いがする。……涼ちゃんの音は、海より深い。……不自由なのに、……前よりずっと、僕の心に刺さるよ」
元貴は、膝の上でノートを広げた。
記憶はなくても、心が震えている。
元貴はおずおずと口を開き、若井の不器用なリズムに合わせて、小さな、小さな声を絞り出した。
「……あ、……あぁ……」
その瞬間、若井と涼ちゃんの目に涙が浮かんだ。
それは歌ですらない、ただの音。けれど、死の淵から戻ってきた彼らだけが鳴らせる、最高に「生きた音」だった。
三人は、庵のテラスで一日中、音遊びをした。
元貴が声を出し、若井がぎこちなく弦を叩き、涼ちゃんが片耳でバランスを取りながら風を送る。
その不格好な三重奏は、谷の毒霧を払い、薬師の庵を黄金色の光で満たした。
その時、ノートに七つ目の音符が刻まれた。
『再生』。
薬師は遠くからその様子を眺め、ふっと口角を上げた。
「……完璧な音楽など、この世にはない。……欠けているからこそ、人は他者の音を求める。……面白い奴らだ」
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