テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
378
26
15
#お悩み相談
ハルヒ
69
精神医学の教科書は、驚くほど冷たい手触りをしている。 加山由来(かやまゆら)は、机の上に広げた厚い専門書の文字をシャープペンシルの先でなぞった。
『解離性障害:過度な精神的苦痛から身を守るため、意識や記憶、自己の感覚を一時的に切り離す防衛反応。周囲の世界が現実味を失う現実感喪失や、自身を客観視する離人感が特徴とされる』
白地に黒い文字で整然と並ぶインクの列は、まるで他人の悲劇をきれいに標本にしたかのように無機質だった。 由来の将来の夢は精神科医だ。他人の心の仕組みを知りたい、苦しんでいる人を論理的に救い出したい。そんな純粋な知的好奇心とわずかな正義感が、彼女をこの難解な学問へと向かわせている。
だが、その教科書がどれほど言葉を尽くしても、決して書き表せない「生々しい現実」が、すぐ隣の部屋にあることを由来は知っていた。「ゆら、ちゃん」
微かな、本当に微かな声だった。 由来はペンを置き、ベッドの方を振り返る。そこには、由来の部屋のベッドの上で、シーツに埋もれるようにして身を丸めている少女がいた。
浜中初奈(はまなかはな)。由来の幼馴染であり、かけがえのない親友だ。 初奈は大きなクマのぬいぐるみを、壊れ物を扱うかのような必死さで、ぎゅっと両腕に抱きしめていた。その指先は白くなり、小刻みに震えている。「……はな? どうしたの、寒いの?」
由来が優しく声をかけながらベッドに近づくと、初奈の焦点の合わない瞳がゆっくりとこちらを向いた。高校生であるはずの彼女の瞳は、今、まるで迷子になった幼児のように怯えきっていた。
「くまさん、いたいの。はな、お留守番できるよ。だから、怒らないで……」
たどたどしい口調。自分のことを「はな」と呼ぶその姿は、完全に幼い子どものそれだった。 由来の胸がチクリと痛む。これが、教科書には載っていない、初奈の『幼児退行』の瞬間だった。初奈がこうなってしまった理由は、由来も痛いほど知っていた。 初奈の家庭環境は、外から見れば「少し厳格な教育熱心な家庭」でしかなかった。しかし、その実態は、母親からの過剰な期待と、それに背いたときの激しい罵倒が日常茶飯事の、逃げ場のない檻だった。
「あなたなんか産まなければよかった」「何をやらせても不甲斐ない」 そんな言葉を浴びせられ続け、さらに学校では、些細なきっかけから始まった陰湿ないじめが彼女の心を削り取った。机に書かれた落書き、すれ違いざまの嘲笑、誰も自分を認識していないかのような無視の嵐。
家庭と学校。人間が生きるための二大拠点が、初奈にとってはどちらも戦場だった。
一週間前、初奈は由来の家の前でうずくまっていた。雨に濡れ、ガタガタと震えながら、彼女はぽつりと呟いた。『死にたいな、ゆら。もう、どこにも私の居場所なんてないんだよ』
そのときの初奈の瞳には、ハイライトが一切なかった。まるで、生きながらにして心が別の場所にいってしまったかのような、底なしの暗闇。それが、初奈が抱える「希死念慮」の正体だった。
由来の親は共働きで、夜遅くまで帰らない。だから由来の部屋は、初奈にとって唯一の「戦火が及ばないシェルター」だった。
「大丈夫だよ、はな。ここは誰も怒らないよ。くまさんも痛くないって言ってる」
由来はベッドの端に腰掛け、初奈の頭をそっと撫でた。
精神医学を学ぶ由来の頭脳は、冷静に現状を分析する。――今の彼女は、現実の苦痛に脳が耐えきれず、無意識に「守られていたはずの幼少期」まで記憶を退行させて、精神の崩壊を防いでいる。これを否定してはならない。「お母さん、いない?」
「いないよ。私の家だもん。鍵もかかってる。誰も入ってこられない」
「……ほんと?」
「本当だよ」
由来が優しく微笑むと、初奈は張り詰めていた力を少しだけ抜き、ぬいぐるみに顔を埋めた。
由来は、初奈のこの行動が「命のSOS」であることを知っている。死にたいほどの絶望の中で、かろうじて生きる側にとどまるために、彼女はぬいぐるみの温もりを命綱にしているのだ。
しばらくすると、初奈の呼吸が規則正しくなり、小さな寝息を立て始めた。 由来はホッと息を吐き、再び机に戻った。しかし、専門書を開いても、先ほどのように文字が頭に入ってこない。 自分は精神科医を目指している。病気のメカニズムも、対処法も、言葉としては理解しているつもりだ。でも、目の前でボロボロになっていく親友を前に、自分の知識がいかに無力かを思い知らされる。
受容すること、傾聴すること、安全を確保すること。
教科書に書かれた「正しい対応」をなぞるだけで、初奈の心の中にある「死にたい」という根本の病巣を消し去ることはできない。
数時間が経過し、外の景色が夕暮れのオレンジ色から、深い群青色へと染まっていく。 ベッドの上の初奈が、大きく身震いをして目を覚ました。「……ん……」
「はな? 目が覚めた?」
初奈はゆっくりと起き上がった。その瞬間、由来は初奈の雰囲気が先ほどとは一変していることに気づいた。怯えた子どものような空気は消えていた。代わりに、不自然なほど「平気そうな」大人の表情を浮かべていた。「あ、ゆら。ごめん、また私、寝ちゃってた?」
口調は普通の高校生に戻っている。しかし、その声には生気がなかった。まるで、録音された音声を再生しているかのように平板だった。
「……はな、体調はどう? 何か飲む?」
「ううん、大丈夫。なんかさ、変な感じ」
初奈は自分の両手を目の前にかざし、不思議そうに何度も握ったり開いたりした。
「自分の手じゃないみたい。動かそうと思って動かしてるんじゃなくて、ロボットを遠くから操縦してるみたいなの」
由来の背中に冷たいものが走った。――『解離』だ。
「ゆらの声も、すごく遠くで聞こえる。ガラスの向こうから話しかけられてるみたい。今、私、本当にここにいるのかな」
初奈は笑っていた。悲しい顔をするでもなく、ただ呆然と、他人事のように自分の異常を報告する。
脳がすべての感情を遮断し、苦痛を感じないように麻酔をかけている状態。今、彼女の心は、激しい虐めや母親の怒鳴り声の記憶から隔離され、誰も触れられない暗黒の真空へと避難してしまっている。
「はな、私の手を握って」
由来は初奈の前にひざまずき、その冷え切った両手を強く包み込んだ。
「ここにいるよ。はなは今、私の部屋にいる。私の手をギュッてしてみて。硬い? 温かい?」
初奈はしばらく由来の手を見つめていたが、やがて力なく微笑んだ。「……分からないや。冷たいのは分かるけど、触ってる感覚がしないの。現実感がないっていうのかな。世界が全部、作り物の映画みたいに見える」
由来は必死に頭を回転させた。教科書で読んだ『グラウンディング』の技術。感覚を現実に引き戻すためのアプローチ。
「はな、部屋の中にある『赤いもの』を3つ、探して。目で追ってみて」
「赤いもの……? ゆらのペン立て。私のバッグ。……あそこにある、お菓子のゴミ」
「そう、正解。じゃあ、深呼吸しよう。吸って、吐いて」
初奈は言われた通りに息を吸い、吐き出した。その動作を数回繰り返すうちに、彼女の瞳に、わずかに「生きた光」が戻ってくるのが見えた。
「……あ、少し、感覚が戻ってきたかも。ゆらの手が、温かい」
初奈がそう呟いた瞬間、彼女の目から大粒の涙がポロポロとこぼれ落ちた。
「ゆら……私、もう嫌だよ」
解離という麻酔が切れた途端、堰を切ったように激しい苦痛が初奈を襲う。
「学校に行くと、みんなが私を見て笑ってる気がするの。私の席だけ空気が冷たいの。家に行くと、お母さんがお皿を叩きつけながら、私の存在を責めるの。私、何も悪いことしてないのに。普通に生きたいだけなのに、どうしてこんなに痛いの?」
初奈はぬいぐるみを再び抱きしめ、声を上げて泣いた。高校生の少女が、人目をはばからず、獣のように咽び泣く。
由来は何も言えずに、ただ初奈の体を強く抱きしめた。
精神科医を目指す人間として、気の利いたカウンセリングの言葉をかけるべきなのかもしれない。だが、今の由来にできるのは、ただの「親友」として、彼女の涙で肩を濡らすことだけだった。「死にたい」という言葉の裏側にあるのは、「生きたいけれど、この生き地獄を終わらせる方法が死ぬことしか思いつかない」という絶対的な絶望だ。
初奈の小さな体が、由来の腕の中で激しく震えている。その震えは、彼女が今まさに、目に見えない巨大な怪物と命がけで戦っている証拠だった。
「はな。死にたくなるくらい、つらいんだね。本当によく頑張って耐えてきたね」
由来は言葉を絞り出した。
「私はここにいるよ。はながどれだけ壊れそうになっても、私は絶対に手を離さないから」
「ゆら……ごめんね、迷惑かけて、ごめんなさい……」
「迷惑じゃない。はなが生きててくれることが、私にとっては一番大切なことだよ」
夜が更ける頃、初奈は泣き疲れて、今度こそ深い眠りに落ちた。その手には、まだあのクマのぬいぐるみが握られていた。
由来はベッドサイドの明かりを落とし、自分の机に戻った。
机の上の教科書を見る。そこには相変わらず、解離や退行のメカニズムが整然と書かれている。
由来は、その本をそっと閉じた。 医学の知識は必要だ。いつか初奈のような人を、科学的根拠に基づいて救うために、自分はもっと勉強しなければならない。
けれど、知識だけで人は救えない。 幼児退行する初奈を怒鳴りつける母親のように、現実を理解しようとせず、自分の基準で相手を裁くことが、どれほど人を追い詰めるか。そして、ただ隣にいて、その痛みを否定せずに一緒に背負うことが、どれほど不器用で、しかし必要なことなのか。
由来は、眠る初奈の横顔を見つめた。 彼女の希死念慮が、明日すぐに消えるわけではない。明日になれば、また学校という地獄が始まり、母親の冷酷な現実が待っている。解離も、退行も、また繰り返すかもしれない。
それでも、と由来は思う。夜のシェルターの中で、初奈がぬいぐるみを抱きしめて生き延びたという事実は変わらない。自分が彼女の手を握りしめ、現実の世界につなぎとめたというぬくもりは消えない。
「私は、絶対に諦めないよ」
由来は小さく呟き、ノートに新しい文字を書き込んだ。それは医学の用語ではなく、彼女自身がこれから戦うための決意の言葉だった。
『心の痛みは、一人で抱えるには重すぎる。だから、その手を握る人間が、世界に一人だけでもいなければならない』
部屋の窓の外では、静まり返った街の灯りが、星のように瞬いていた。夜明けはまだ遠い。けれど、二人が繋いだ手のぬくもりだけが、確かにそこにある暗闇を照らしていた。
ー完結ー
コメント
1件
感想をありがとうございます…! 第1話、読み終えました。 もう、冒頭から心がぎゅっとなりました。精神医学の冷たい教科書と、目の前で幼児退行する初奈さんの温度差が、本当に生々しくて。由来さんが知識を持ちながらも、それだけでは救えないもどかしさを抱える姿に、編集者としてもグッと来ました。 特に「死にたい」の裏にある「生きたいけど方法が死ぬことしか思いつかない」という絶望の描写が、とても丁寧で。ラストの「手を握る人間が一人だけでもいなければならない」という一文に、すべての優しさが詰まっている気がしました。素敵な作品をありがとうございます🌷