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廃墟のような町中を、一人の少年が歩いている。
その姿は若葉のように緑色だ。
髪の色も。
長袖のカーディガンも。
瞳自体は灰色なのだが、足元の雑草を眺めた際に緑色が映り込む。
体のあちこちが汚れており、その姿は周りの浮浪者と大差ない。
頭上の空は薄暗く、その証拠に太陽は西の地平線へ沈もうとしている。
荒れ果てたここは貧困街。
この少年も路上生活者の一人だ。帰る家などなく、廃棄された小屋に住み着いていることがその証拠と言えよう。
(今日は野良猫、見当たらないな)
体はすっかりヘトヘトだ。
それでも足取りが軽い理由は、普段通りに金が稼げたことと背負い鞄に夕食が入っているためか。
中身がどれほど質素であろうと、この少年にとってはそれが普通であり、決して嘆いたりはしない。
ライ麦ロールパンが一つ。
具無しおにぎりも一つ。
そして、明日の分も含めて干し肉二枚。
量的にも栄養的にも不足しているのだが、所持金を考慮するとこれ以上の贅沢は難しい。
見慣れた道のりを歩き、我が家を目指す。かつては整備されていたのだろうが、今ではこの区画に相応しい荒れ具合だ。
家と居場所を失った者達の溜まり場であり、そういう意味では隔離されていると言っても差し支えない。
そうであろうと、この少年は胸を張って歩き続ける。時折周囲を見渡す理由は、野良猫がいないか探してしまうためだ。
潮の香りが届き始めた頃合いに、我が家と見なしたボロ小屋にたどり着く。
本来ならば、玄関代わりの木板をどかし、入室後は今日の労働を労いながらくつろぐだけで良かった。
(ん? 猫が喧嘩してる? いや、泣き声……?)
呻くような音は、隣家の方から聞こえる。家と言っても、それは屋根すら朽ちたかつての物置小屋だ。放棄されて何十年、もしくはそれ以上の年月が経過した建物なのだが、少年は自宅を目の前にして悩まずにはいられなかった。
(この辺りには僕くらいしか住み着いてなかったのに……。泣いてるってことはそういうことだろうから、声くらいはかけるべき……か)
動機としては親切心もあるが、同時に不安も覚えてしまう。
その掘っ建て小屋は危険だと、先ずは教えなければならない。雨が降れば濡れる上、倒壊の可能性も付きまとう。もちろん、それはこの少年の家にも当てはまるのだが、見た目で判断するならば、その差は明らかだ。
おそるおそる声のする方へ、歩みを進める。
この出会いが何を意味するのか、今はまだわからずとも、進まないという選択肢だけはありえなかった。
「あのう……」
「ひっ⁉」
この瞬間、二人の視線は確かに交わった。
扉すらない小屋の中を、心配そうにのぞき込む少年。
木片や砂埃の中で縮こまる、年上の女性。
反応は対照的だったが、両者の視線がぶつかったことだけは確かだ。
驚かせてしまったと反省しながらも、今は話しかけなければならない。
「す、すみません。この小屋はかなり古いので、あっちの方を物色した方がいいと思います。あ、僕は隣に住んでいる者で、わからないこととか困ったことがあったら、いつでも声かけてください」
親切心から声をかけただけなのだが、実は少し後悔している。
彼女の服は見慣れないものだ。汚れてしまってはいるが、その生地や質感は庶民着とは似て非なる。
さらには肉付きが良く、太っているわけではないのだが、裕福な出生であることは一目瞭然だ。
(貴族かも、この女の人)
だとしたら、不要な声掛けだったのだろう。少なくとも、少年はそう判断する。
つまりは、単なる家出だ。ここで泣いている理由まではわからずとも、高貴な身分には様々なしがらみがあるのだろうと推測し、一刻も早くここから離れることにした。
浮浪者の命など、貴族の前では虫けらにも等しい。話しかけただけで命までは取られないだろうが、関わらない方が安全だ。
その足を自宅の方へ動かすも、彼女の泣き顔を直視してしまった以上、言葉を紡がずにはいられなかった。
「僕で良ければ相談に乗り……、いや、さすがにそれは難しいか。あ、だけど、本当にお困りでしたら隣の家を訪ねて頂けたら。僕はそこに住んでますので。し、失礼します」
たどたどしい言い回しだが、無理もない。
城下町でなら時折貴族を見かけも、ここは貧困街。平民でさえも滅多に足を運ばない区画だ。
汚い。
危険。
大勢の浮浪者。
理由としては十分だろう。掃きだめのようなこの場所は、この国の恥部でしかない。
その住民が貴族と会話をすることなど、本来ならばご法度だ。
それをわかっているからこそ、少年は足早に帰宅する。
もちろん、後悔はない。知らなかったという言い訳は可能ながらも、彼女は心の底から泣いていた。腫らした目元から、その事実だけは容易に見抜けてしまった。
(影のある人だったけど、綺麗だったな……)
率直な感想だ。
あり得ないほど艶のある、長い黒髪。
涙を連れ添っていながらも、蠱惑的な瞳。
目上の女性でありながら、野良猫に通じる可愛らしさ。
身分が違う以上、恋愛感情を抱けはしないのだが、それでも目の抱擁にはなったと思わずにはいられない。
(きちんとは見えなかったけど、む、胸もすごかった。膨らんだ部分が上着からはみ出してたし……。あれってなんて服なんだろう? お腹の方だけボタンがしまってたのかな? だとしても、そういうのは見当たらなかった気が……)
見たことのない服装だった。
黒色の上着は、肩から手にかけて白い線が複数本走っており、模様なのか機能的な意味合いがあるのか、それすらもわからない。
ズボンについてはその生地がムラのある紺色で染色されており、頑丈そうには見えたものの、安物なのか高級品なのか、その判断すらも困難だ。
わかったことは一つだけ。
何不自由なく生きてきたのだろう。
食事も。
着るものも。
家さえも困ったことはないはずだ。
(家出だったら今日中には帰るだろうし、話しかけたのはかえって迷惑だったかな? 一人になりたい時もあると思うし……)
そう結論づけ、粗末な我が家で腰を下ろす。
頭上を見上げれば、天井は穴だらけだ。幾度となく補強したものの、雨天の度に雨漏りと戦わなければならない。
室内も清潔とは言い難く、窓無しの木造建築物ながらもあちこちが腐り、朽ち果てた結果、密閉性は失われた。
居心地は悪くないのだが、不衛生なことに変わりなく、それでもわがままは言えないため、文句も言わず、ここに十一年も住み続けている。
陽は未だ落ちきってはいないため、灯りなしでも読書が可能な程度には明るい。
鞄を部屋の隅に降ろし、その流れで腰に手を伸ばす。
そこには包丁のような刃物を携帯しており、ベルトから鞘ごと取り外して棚にそっと置けば、帰宅後のルーチンは完了だ。
後は川で水浴びを済ませ、腹が空いたら夕食を食べればよい。
明日に向けて英気を養う時間ゆえ、その過ごし方は自由だ。
そのはずだが、今日に限っては心が落ち着いてはくれない。
(う、耳を澄ますと、あの人のが聞こえてくる。まだ泣いてるのか……)
慰めるには至らなかった。そう気づかされたものの、手の施しようなどない。相手は身分の違う人間ゆえ、近寄ることさえ避けるべきだ。
(今日は天気が良かったから雨の心配はなさそうだけど……。いつまであんなところにいるつもりなのかな? 早く家に帰ればいいのに……)
自分には残されていない選択肢ゆえ、羨ましいとさえ思ってしまう。
帰る場所など、ない。
頼れる相手さえ、もういない。
だからこそ、居場所はここだけだ。風が吹けば揺れようと、不法滞在だと罵られようと、追い出されない限りは住み続けたい。
地べたにはシートを敷いており、玄関で靴を脱いだら段差がなかろうとそこから先が居住空間だ。
室内には、ゴミ捨て場から持ち帰った棚が数点あるだけ。着の身着のままで生きているのだから、現状以上を求めるつもりなどない。
(少し、本でも読もう)
座り込み、積みあがった書物の最上段に手を伸ばす。彼女のことが気がかりではあるのだが、手の施しようがないのも事実であり、趣味に没頭したとしても罰は当たらないはずだ。
その後は集中出来ないままに時間だけが過ぎ去るも、水浴びや夕食を済ませた頃合いに少年は再度立ち上がる。
(まだ、泣いてる。今からの帰宅はさすがに危ない気がする……)
外は完全に暗闇だ。この区画に街灯の類はなく、港の方まで歩けば話は別だが、少なくともこの辺りでは月明りに頼る他ない。
貴族を襲う不届き者がいるとは思えないが、彼女は護衛の類を同伴させていない以上、何が起きるかは不明瞭だ。
ましてや、今なお声を押し殺すように泣いているのだから、自ら自身の存在を周囲に知らせているに等しい。
(どうなっちゃうかわからないけど……!)
最悪のケースを想定するのなら、逮捕の後に打ち首か。
それほどに貴族は雲の上の存在であり、一般市民でさえないこの少年は近寄ることさえ許されない。
そうであろうと、見過ごすことなど不可能だ。
彼女は何時間も泣き続けている。
理由としては、それだけで十分だった。
ひび割れたランプが周囲を優しく照らす中、大きく息を飲みこんだ理由は勇気を絞り出すためだ。
「こんばんは」
この声を合図に、泣き声が押し殺される。
返事はなくとも、今回は悲鳴ではなかった。そういう意味では一歩踏み込めたのかもしれないが、二歩目が困難だ。
なぜなら、その女性は暗闇の中で丸まっており、大きな両眼は今なお恐怖に囚われている。
それでもなお、話しかける。そのためにここまで来たのだから、差し出したその手を引っ込めるとしたら、言葉で拒絶されたからでも遅くはないはずだ。
「もしお腹が空いてたら、干し肉でよければ差し上げます。き、貴族様のお口に合うとは思えませんが、すみません、それしかなくて……」
肉の切れ端を塩に漬し、燻製にしただけの食べ物だ。肉そのものの旨味が閉じ込められており、塩っ辛さも相まって愛好家は多いのだが、庶民の食べ物であることには変わりない。
しかし、この少年が提供出来る精一杯のもてなしだ。悪気はないのだから、断られたとしても負い目を感じる必要はない。
訪れた静寂は今が夜であることと、ここが人通りのない廃墟だからか。
もしくは、どちらも言葉を発しないからか。
ゆえに、息苦しささえ覚えてしまうも、その沈黙は涙と共に破られた。
「あ、ありがとう、ございます……」
嗚咽を漏らしながらの発声な上、声量は虫のように小さい。
それでも少年には十分だ。その意志を聞き逃すわけがなく、左手にランプを持ちながら、そっと右手を差し出す。
「僕の名前はエウィンです。エウィン・ナービスです」
「わたしは……、坂口あげは……です」
物語はここから始まる。
エウィンとアゲハ。
偶然と運命に導かれ、こうして出会った。
巡り合えた。
彼らの手が繋がる時。
こぼした涙が光る時。
世界は大きく動き出す。
◆
みすぼらしい室内で、二人は緑色のレジャーシートに座りながら黙り込む。
少年の小屋に移動を終え、幾ばくの時間も過ぎ去ってはいない。
それでも、エウィンは居心地の悪さを感じずにはいられなかった。
(貴族をこんな場所に招いても良かったのかな? いや、もしかしたら、この人はもう……)
勘当されたのではないか?
つまりは、その地位を手放した人間だ。帰宅もせずに泣き続けていたことから、とりあえずはそう結論付ける。
推測が当たろうが外れようが、どちらでも構わない。こうして彼女の身の安全を確保することが出来たのだから、最初のステップは成功だ。
溜飲が下がるも、黙ったままでは埒が明かない。やるべきことは明白ゆえ、ゆっくりと立ち上がると、背負い鞄を漁ることから始める。
「とりあえず、干し肉どうぞ。あ、お茶もあった方がいいですよね」
肉の切れ端と共に革製の水筒も手渡す。
彼女は手ぶらだ。
つまりは、着の身着のまま家を飛び出したのだろう。
エウィンはそう結論付けるも、この予想は的外れだ。
答え合わせは、アゲハと名乗ったこの女性が落ち着きを取り戻したタイミングで済まされる。
「お肉、美味しいです……」
「硬いと思うので、ゆっくりで大丈夫ですよ」
泣き腫らした眼はそのままながらも、その表情がわずかに綻ぶ。
一方で、その姿はひどい有様だ。
濡羽色の髪も。
モグモグと動く頬も。
黒い上着や紺色のズボンも、砂で汚れてしまっている。
部屋に置かれたランプがその事実を突きつけるも、エウィンの関心はそこではなかった。
(ふくよかってほどではないけれど、こうしてまじまじと眺めると、何と言うか、すごいと言う他ないな。こんな大きな胸、ギルド会館ですら見たことないし、座ってるからかもしれないけど、足というか太ももなんてぱっつんぱつん。何より……)
彼女の髪は異質だ。
その黒髪は長いだけでなく、毛先部分だけが青く変色している。ただの青色ではなく、今にも輝きだしそうな色彩だ。
その存在感は髪染めによって表現出来るとは思えず、少年は吸い込まれるように魅入ってしまう。
その視線に反応してか、アゲハは噛み千切った肉を飲み込むと、俯きながら頭を下げる。
「助けてくれて、ありがとう、ございます……」
「いえ、僕に出来ることはこれくらいですので……」
礼に対し、エウィンは照れるように両手を動かす。
彼女を匿い、食べ物を恵んだのだから、無自覚であろうと立派な善行だ。
だからこそ、彼女は表情には出さないものの、心の底から安堵しており、顔を隠すように黒髪を垂らしている。
その顔が持ち上がると、静かに食事が再開されるのだが、少年は言葉を飲み込むしかなかった。
(怯えてるのかな。当然か、初対面なんだし……)
彼女の瞳は驚くほど大きい。そのためか、言葉には出さずとも感情が容易に読み取れてしまう。
その目は濁っており、入室以降、一度も視線を合わそうとはしない。
ゆえに、落ち着きのない眼球運動を眺めながら、エウィンは見守ることを選ぶ。
とは言え、向き合いながらの沈黙は居心地が悪い。咀嚼中ゆえにタイミングを見計らないながら、気分転換も兼ねて質問を投げかける。
「その服ってどこで売ってるんですか? 見たことなぁと思って……」
「あ、ジャージのこと、ですか? 駅前のアパレルショップです……。あのう、私からも訊いていいですか?」
「はい」
(ジャージ? アパレル? 何もわからない……)
知らなくて当然だ。そういった謎も含めて、知識のすり合わせが始まる。
「ここは、ウルフィエナ、であってますか?」
「ウルフィ……? す、すみません、何のことかわからないです……」
エウィンにとっては馴染みのない単語だ。
それどころか、十八年生きてきて初めて耳にした。
ゆえに、彼女の問いかけに対し縮こまることしか出来ない。
「あ、私の方こそ、ごめんなさい……。困らせるようなことを訊いてしまって……」
「と、とんでもないです。ここがどこかって意味でしたら、貧困街のはずれで、歩けばすぐ港に出ますよ」
城下町の片隅ではあるものの、現在地について尋ねることは本来ならばありえない。既にこの場所にいるのだから、迷子であっても改めて問う必要はないはずだ。
そのはずだが、エウィンは湧き上がる違和感を受け入れ始める。
見たこともない衣服。
聞いたこともない単語。
そして、ここがどこかもわからない素振り。
慎重な対応が必要だと、痛感せずにはいられなかった。
「私……、気が付いたら、ここにいました」
「それって、眠ってる間に運ばれたってことですか? でも、何で……」
「い、いえ、多分、違うと思います。全然、何もわかっていないのですが、私、死んだはずなんです……」
アゲハの証言が、対面の少年を硬直させる。
あまりに荒唐無稽だ。酔っ払いでさえ、ここまで妄言を吐かない。
エウィンの目の前には確かに実体を伴った女性が座っており、その手は食べかけの干し肉を掴んでいる。
正座ゆえにズボンが張り裂けそうなほどにパンパンだが、白いタートルネックの自己主張はそれ以上だ。
もしもこれが幻なら、少年は夢でも見ているのだろう。既に就寝中ゆえ、目が覚めたら明日が訪れるはずだが、頬を撫でた隙間風が現実だと気づかせてくれた。
(今は……、とりあえず話を聞こう)
疑いはするが、否定はしない。
そして、笑い飛ばしもしない。
サカグチアゲハと名乗った女性は、大人でありながら泣き崩れていた。
食事もとらず、この国が暗闇に包まれようと、その場からは一歩も動かなかった。
正しくは、動けなかった。
行く当てがなかったのか?
泣き止めなかったのか?
どちらにせよ、寄り添うように耳を傾ける。
「ビックリするくらいの爆発音がして……、その直後に、アパートが燃えて、私もそのまま……」
「すみません、えっと、あぱーとって何ですか?」
「あ、住んでる場所で、その、集合住宅って言えば通じるの、かな?」
「集合……、宿屋みたいなものでしょうか? あ、話を遮っちゃってすみません」
かろうじてイメージ出来たのだから、再開を促す。信じる信じないの判断は、彼女の説明を聞いてからだ。今はその全てを受け止めなければならない。
「私、きっと死んだはず、なんです。痛いくらい熱かったし、息も出来なかったから……。だけど、気が付いたら……」
「ここに……、この街にいた」
彼女の独白に、少年は相槌を打つように被せるも、アゲハは髪を揺らしながら首を振る。
「不思議な場所、でした。何もない、真っ黒な空間? だけど、あちこちが眩しくて、例えるなら、宇宙みたいな、だけど違うような、そんな場所。泡がいっぱい漂ってるような、白と黒が交わらないような、夢を見ているようなところを、私はぼんやりと漂っていました。その時に、反響するような声が、語りかけてきたんです」
「声?」
息を飲むエウィンだが、実は何もわかっていない。
それでも聞き入る理由は、アゲハが一生懸命だからだ。ふざけてもいなければ、騙そうともしていない。
少なくとも、少年の目にはそう映る。
だからこそ、一語一句聞き逃すわけにはいかない。
「私は死んだから、ウルフィエナで生まれ変われって」
「ウルフィエナ?」
「私も同じように、返事をしました。そうしたら、教えてくれて……。在りし日の理想郷だって、女の人は言ってました」
(蟻の理想郷? 僕達のことじゃないよな? 意味がわからないけど、今は我慢しよう)
再び現れた単語も去ることながら、その補足説明も依然として謎だ。
エウィンとしてはこのタイミングで質問を投げかけたいものの、アゲハを困らせるだけだと予想し、沈黙を選ぶ。
「わからない、って答えたら、こうも言ってました。あなたにとっては、異なる世界だ、って……」
「異なる世界? 精霊界とはまた別の世界? いや、今回の場合、ここがそうなのか。むぅ、複雑だな」
腕組と共に悩みだした少年。その姿が、彼女を静かに驚かせる。
「あ、あの……、信じて、くれるんですか?」
「はい。別の世界が存在することは、前から噂されてましたし……。えっと、サカグチさんの世界はどんなところだったんですか?」
「私は、日本という国で暮らしていました。地球という星の、日本です……」
アゲハにとっては馴染みのある固有名詞だが、当然ながらエウィンには理解出来ない。
国という概念はわかるのだが、後者の情報がかみ砕けなかった。
「星? 夜空にいっぱいある、あの星ですか?」
「はい……。地球は丸くて、大きくて……。ここもそうなのかまでは、ごめんなさい、わからないです……」
突拍子もない説明だ。
ゆえに、理解が及ばない。
大地は平たいのだから、球体だと言われたところで信じることなど困難だ。
それでもなお、否定はしない。彼女のことを信じると宣言したのだから、真正面から受け止める。
「なるほど。僕には難し過ぎてほとんど理解出来ませんでしたが、チキュウという世界からやって来た、と。いや、生まれ変わったって表現の方が正しいのかな」
「多分、そうだと思います」
「声の正体は、やっぱり神様?」
「そう、なのかもしれません」
死んだ人間を蘇らせた。
異なる世界を蘇生先に選んだ。
もはや科学では説明のつかない現象ゆえ、神秘以外の何物でもない。
「神様って本当にいたんですね。まぁ、魔物がいるなら、当然なのかな?」
「まもの?」
そして沈黙が訪れる。
問いかけに対し、エウィンが黙ってしまった結果だ。
動かぬ少年を前に、アゲハは見守りながらも無意識に髪をいじる。昔からの癖なのだが、止める必要性を感じていないせいか、大人になっても一向に収まらない。
「もしかして、チキュウには魔物がいない?」
「ごめんなさい、本当に何もわからなくて……」
彼女がこの世界に転生して、まだ半日程度か。外を出歩いてすらいないのだから、当然ながら知識は不足している。
左手で髪を触りながらも縮こまその姿は、ひどく虚ろだ。何もかもを失ってしまったばかりか、周囲には知人すらもいないのだから、精神的ストレスは計り知れない。
ゆえに、エウィンは教えることから始める。教わってばかりでは、不平等だと考えてのことだ。
「魔物は、人間を襲う……魔物で、ってこれじゃ説明になってないですね。動物はわかりますか? オオカミとかネコとか」
「あ、はい。それなら……」
「見た目だけなら動物や昆虫に似ていて、そいつらよりも大きかったり、そもそもすごく強くて、一番身近な魔物だと草原ウサギがそうなのですが、飛び蹴りをもらうと骨がバキッと折れてしまいます。人間に似てる魔物もいて、例えば巨人族。僕の倍くらい、おっきいです」
「漫画やゲームに出てくるモンスターみたい……。あ、ごめんなさい! 失礼なことを言っちゃって……」
悪気はないのだが、アゲハは率直な感想を口にする。
魔物は人間にあだ名す異形であり、彼女が思い描いた化け物達は、おおよそ正解と言えよう。
「お気になさらず。と言うか、何のことかわからないので。地球には魔物がいないってことは、すごく平和な世界なんですよね」
エウィンの想像もまた、無知から生まれた妄想だ。
魔物が存在しない世界では何が起きるのか、彼女だけが重々承知している。
「日本は治安の良い国だけど、外国は……、紛争やテロが頻繁に起きて、その度に人間同士で戦争をします……」
「う、人間同士で? そんなことが……、起きるのか、うん、言われてみたらそうなのかも。あ、魔物がいないと、食べる物に困ったりしないんですか? 例えばお肉とか……」
「家畜を……、牛や豚、鳥を食べるので、大丈夫です。あ、私はお魚の方が好きだったり……」
国によっては飢饉が起きているのだが、少なくとも日本に住んでいれば食糧不足とは無縁だ。その多くを外国に頼ってはいるのだが、輸入出来るだけの国力があるのだから、そういう意味でも安泰だ。
「僕も魚は好きです。たまに釣って、焼いて食べるくらいには。ちなみにその干し肉は草原ウサギの肉ですよ。牛の肉もたまーに出回るそうですが、食べた人の感想だと、やっぱり魔物の肉が最高らしいです」
「これが……、魔物の……」
当然ながら、食べても問題ない。
むしろ、栄養価は動物の肉よりも優れている。
魔物食は他にも利点があるのだが、話題は慌ただしく移り変わる。
「その服、ジャージでしたっけ? それってボタンどうなってるんですか?」
アゲハはタートルネックの上にジャージを重ね着している。
しかし、大き過ぎる胸がボタンを留めさせてはくれない。正しくはボタンではないのだが、そのからくりは彼女の実演によって示される。
「あ、これはファスナーって言って、このスライダー部分を掴んで、上下させると、う、ジャージがしまったり、開いたりぃ! うぅ……」
ジャージは完全に閉まらない。ファスナーを下げることは出来るのたが、上げようとしてもへそを越えた辺りでどうしてもつっかえてしまう。
干し肉を太ももに置き、両手を使おうと結果は変わらない。
その胸が邪魔をする。衣服の内部に二つのメロンをしまっているのだから、当然と言えば当然だ。
(僕は、何を見せられているんだろう)
刺激的な光景が、エウィンの理性を激しく揺さぶる。鼻血が流れ出ようと、目を背けることは出来ない。ファスナーの上げ下げに連動して水風船がホヨホヨと揺れるのだから、出血死するまでは眺めていたいに決まっている。
(母さん、僕は魔物ではなく、この女の人に殺されそうです。もうすぐ会えますね)
何かをやり遂げたようなその顔は、心底満足そうだ。そのまま倒れ、二度と起き上がれそうにないが、己の人生に悔いはない。
「あ、あれ? あの……、あのう!」
アゲハの声を子守唄に、今日という一日に別れを告げる。
少年はまだ何も知らない。
この世界の仕組みを。
闇の中で燃えている、漆黒の殺意を。
この世界の名は、ウルフィエナ。
楽園か、はたまた地獄か。
どちらであろうと、救いを求めるように生きるしかない。
エウィン・ナービス。両親を失い、故郷を追われた少年。
坂口あげは。転生をえて、この世界に降り立った女性。
始まりだ。
新たな人生の始まりだ。
二人はこうして出会ったのだから、ここからは手を取り合って物語を紡ぐ。
そのための力は、既に与えられている。
体の内側に蓄積されている。
ゆえに、歩幅を合わせて進むだけだ。立ち止まる必要すらない。
全てを打ち破り、やがてはそこへたどり着く。
これはそういう物語であり、今日は単なる序章だ。
夜が明ければ、新たな一日が始まる。
二人っきりの、新たな一日が始まる。