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「|琉永《るな》ちゃーん。おっかえりぃー!」
日本に帰国し、出勤した私を朝一番で出迎えたのは、デザイン事務所『|Fill《フィル》』のトップデザイナーである|紡生《つむぎ》さんだった。
表情は明るいけど、目の下には濃い隈ができている。
「おはようございます。パリに行かせていただいて、ありがとうございました」
「うんうん、勉強になった?」
「はい。とても」
「う~。こっちはずっと徹夜だったんだよ~」
やっぱり徹夜続きだったらしい。
それなのに、このテンションでいられるのがすごい。
もしかして、徹夜明けのテンションなのだろうか。
「今まで、|型紙《パターン》を作成していたんですか?」
「うん、そーだよ。|恩未《めぐみ》の仕事を手伝ってた」
デザイン画が終わり、次の作業に入っていた。
ノルマのデザイン画は、きちんと終わらせた紡生さんは、次の展示会に向けて動き出す。
八月に行われる秋冬の展示会に出す服が並び始めている。
展示会は重要なイベントで、商品の取り扱いはもちろん、新しい取引先を獲得するという目的がある。
「紡生さん、展示会の招待状リストは確認していただけました?」
「したよ~。琉永ちゃんの机にチェックして戻しておいた」
「わかりました。リストを見て、招待状の作成をしますね」
リストをチェックすると、私がバイトとして働いていた最初の頃より、かなり増えていた。
ブランドを立ち上げたばかりの頃の『|Fill《フィル》』は、EC販売しかしていなかったけれど、口コミで評判が広がり、実店舗を持つまでに至った。
それはやはり、『|Fill《フィル》』のトップである紡生さんと恩未さんの存在が大きい。
天才と呼ばれるデザイナーとパタンナーのコンビである二人。
でも――
『自由にやるほうが楽しいだろうし、彼女たちには合っていると思う。でも、いずれ伸び悩む』
『経営才能とデザインの才能は別だからだ』
――リセの言葉を思いだし、不安になった。
ちらりと紡生さんを見ると、手にけん玉を持ち、カン、コンっと音をたてて遊んでいる。
「あっ! 惜しいっ! のらなかった~。あと少しなのになぁ」
「紡生さん。恩未さんと他の人たちが目を覚ましますから、静かにしていたほうがいいですよ」
「なんだよー。私の華麗なけん玉さばきを見せようと思ったのにさ。昨日はのったのにな……ほんとだよ?」
しゅんっとして、机の上にけん玉を置いた。
どうせ、けん玉をしているのは一週間か長くても一か月。
早ければ、明日あたりにけん玉ブームは終わる。
紡生さんは好奇心旺盛な性格で、興味を持ったら、なんにでも手を出す。
けん玉の前はルービックキューブ、ヨーヨー、スケートボード、他多数。
「他の趣味はどうなったんですか」
「世界を目指せないことがわかってやめた」
「……けん玉で世界を目指すんですか?」
「そうだよ! かっこいいだろ!」
紡生さんは親指を立て、自分を差して、意味不明のドヤ顔を見せた。
「大皿にものせられないのに、世界を目指すなんて、無謀じゃないですか?」
「わかんないじゃん! 明日には突然、私の秘めたるけん玉の才能が目覚めるかもしれない!」
けん玉の前に本業であるデザイナーとして、世界を目指した方がいいと思う。
これが冗談ならいいけど、本人は至って本気でマイペース。
「さあ! 一緒に世界を目指そう! けん玉で!」
「どうして、けん玉で世界を目指すんですか。ここはデザイン事務所ですよ。恩未さん……。早く起きてこないかな」
そろそろ紡生さんの面倒をみてくれる人が必要になってきた。
自由人な紡生さんをコントロールして、お世話しているのがパタンナーの恩未さんだった。
恩未さんを探すと、自分の机の下で毛布にくるまって眠っていた。
眠っていても、眉間に皺を寄せたままで、顔つきが険しい。
私が不在の間の苦労がしのばれた。
――お疲れ様です。恩未さん!
恩未さんを思い、目じりに浮かんだ涙をそっとぬぐった。
死屍累々。
そんな言葉がぴったりだ。
事務所内の机の下で眠るパタンナーやデザイナーが数名。
その苦労のおかげか、トルソーに素敵な服のサンプルが並んでいて、展示会が今から楽しみで仕方がなかった。
シンプルだけど素材もしっかりしていて、さりげないデザイン。
丁寧な縫製、肌に触れた時、不快感のない布――これこそ『|Fill《フィル》』。
気づいたら、クローゼットから選んで、何気なく着てしまっている服は、それだけで特別。
着心地がいいから、無意識に選んでいるのだ。
「秋ジャケットの袖口のボタンは留めなくていいように、装飾として使われてる。それに、サッと着れて、フォーマルに見えるから便利よね」
カジュアルにTシャツとロングスカート、スニーカーに合わせても使えるし、これは欲しい。
家洗いもオッケーというのも魅力的だ。
カンッ、コンッ、と必死にけん玉を練習する紡生さんを見る。
何度やっても大皿にのせられず、悔しそうにしていた。
どうやったら、こんな細やかな部分までデザインを考えられるのだろう。
紡生さんが遊びで作った服も面白くて、パーカーの裾についた大きなボタンや小さなボタンが可愛い。
ジャケットを考えている時に、ボタンをつけて遊んでいたのだと思うけど、センスがある。
――私たちは、ボタン一つに悩む。
満足いく答えが出るまで、悩み続ける。
でも、それが楽しい。
ジャケットのボタンを指でなでた。
「秋冬の新作。どれも素敵ですね」
トレーナー生地のセットアップはタイトスカートで、裾は同じ色のコットン生地。
大きなフリルになっているのが特徴だ。
あえて大きくしてあることで甘くなりすぎないようにしてあるらしい。
「琉永ちゃん。秋冬のサンプル、気に入った~? みんな、頑張ってくれたんだよ」
「忙しい時にすみません。私だけのんきにパリに行ってきてしまって」
「行ってこいって言ったのは、私なんだから、気にしなくていいって。いい刺激になったでしょ?」
「はい」
私の成長のために、紡生さんは事務所のメンバーから、あえて私を選んだのだと気づいた。
――でも、私は結婚が決まってる。
結婚するので辞めますって、言わなきゃいけないのに、言葉が出なかった。
――私、ここにいたい。もっと『|Fill《フィル》』の人たちと服を作りたいのに。
泣きそうになって、慌てて紡生さんから顔を背けた。
「……紡生さん。今、コーヒーいれますね」
「うん、ありがと。恩未も起きてるみたいだし、コーヒーひとつ追加で」
机の下から、芋虫のようにゴソゴソと恩未さんが這い出てきた。
「ひっ!?」
思わず、私は悲鳴を上げた。
恩未さんは凶悪な顔で紡生さんをにらんでいる。
「た、大変だ! 琉永ちゃん、コーヒーを早く!」
「は、はい!」
恩未さんはトレードマークのメガネとスーツ、そして、仕事中だったと思われるエプロン姿――徹夜で疲れて、そのまま眠ってしまったのだと思う。
ズレたメガネを指で直し、ぼさぼさの髪をまとめ、少しずつキチンとした恩未さんへ近づいていく。
でも、スーツのシワだけ直せない。
スーツが大好きな恩未さんが、スーツのシワに気づき、大きなショックを受けるだろうということは予測できた。
危険を察知して、奥のミニキッチンでお湯を沸かす。
眠っている他の人達のためにも多めに。
これで全員、目を覚ますだろう――
「ぎゃっー! 私のスーツがっー!」
――恩未さんの悲鳴が、事務所内に響き渡った。
心の中で合掌した。
「私が作った一点もののスーツがシワに……」
恩未さんのスーツは、イギリスのスーツ生地専門ブランドで、自分で生地を選び購入して作ったもの。
完成したスーツのために、パーティーを開いたとか開かないとか……それくらいスーツが大好きなのである。
シワができた部分を見つめ、固まっていた。
「徹夜が悪かったのよ。そう誰かさんが展示会に出す服を追加したいなんて、無茶ぶりしてきたから。このクソ忙しい展示会の準備中にね」
「め、恩未……! 落ち着いて。私が悪かった!」
「何度めの悪かった? 本当に悪いと思ってる?」
「えーと、十二回くらいかなー。なーんちゃって!」
あはははっと笑いながら、紡生さんは誤魔化した。
誤魔化しがきくような相手じゃないのに……
「千四百六十三回よ」
「えっ!? そんなに怒られてた?」
「出会ってからの回数よ。紡生は反省はしてないみたいね」
二人が出会ったのは専門学校からのはず。
専門学校は二年制で、賞をとった先輩たちはその後、特待生として専修コースに二年間在籍した。
その間に独立の準備を粛々と進めてきたというわけだ。
私も同じく特待生として二年間、デザイン研究コースに進むことができた。
先輩達の手伝いをし、この事務所に入ることに決めた。
企業デザイナーより自由にデザインできるから、それ魅力だった。
それは私だけじゃない。
「なんという朝の目覚めの悪さ……」
「もうっ! 紡生さん、勘弁してくださいよ~!」
騒ぐ声に、他のメンバーが目覚め、机の下から起きてきた。
それぞれ、寝袋や毛布を片付け、連日の疲れから、まだ眠そうにしている。
紡生さん以外は、ローテンションである。
「待った! 恩未! 一日一回謝ったとして、四年間で千四百六十回だよね?」
「一日に複数回謝っているのもカウントしているわ」
「あっ! なるほど、そういうことか。さすが、メグタンは鬼姑くらいに細かいな!」
「誰が鬼姑よ」
恩未さんが感情に任せ、紡生さんの胸ぐらをつかんだのが見え、慌ててコーヒーを持って飛び出した。
「恩未さん。コーヒーをどうぞっ!」
「おかえりなさい。琉永ちゃん」
「ただいま帰りました」
話題をそらすことに成功し、紡生さんは解放され、恩未さんはコーヒーの入ったカップを手にした。
よ、よかった。
紡生さんはふいっーと息をはき、額の汗をぬぐった。
そんな危機感を覚えるくらいなら、恩未さんを煽らなければいいのに……
さすがの私も呆れた顔で紡生さんを眺めた。
「で、ショーはどうだった?」
「とっても素敵でした。特に――」
モデルのリセが、と言いかけて言葉を呑み込んだ。
「『|Lorelei《ローレライ》』が印象的で、モデルのローレライとか……」
「|麻王《あさお》|悠世《ゆうせい》ね。麻王グループの後ろ盾があるっていっても、それ以上の成果を上げてるわ。経営力もあるし、この先、長く生き残るブランドよ」
恩未さんは冷静な分析をする。
「パリで描いたデザイン画を見てもらっていいですか?」
紡生さんと恩未さんの二人は、コーヒーを飲むのを止め、同じタイミングでニヤリと笑った。
この二人はやっぱりコンビ。
私がパリに行きから帰ったら、デザイン画を見せるだろうとわかっていたようで、両側から肩をがしっとつかまれた。
「私は厳しいよー?」
「あら。私もよ」
「……お願いします」
気に入ったデザイン画を数点、先輩達に見せた。
「へぇ、いいね。男女兼用デザインか」
「いいんじゃない?『|Fill《フィル》』のイメージとも合っているし」
ゆったりめなサイズ感のシャツやパーカー、シンプルだけど形にこだわったデザインでカラーバリエーションを出す。
「いいね。男性もはけるスカートのようなパンツスタイル」
「ラインがさらっとしていて、いいわね。でも、これはこれからの季節だから、間に合わない。来年にしましょう」
来年に――ということは。
先輩達の顔を見た。
「採用! さっそく数点サンプルを作ろう」
紡生さんがそう言うと、デザイン画を恩未さんが手にした。
「パターンは私が作るわ」
「恩未さんがやってくれるんですか?」
徹夜で疲れているはずなのに恩未さんは少しも疲れを見せていなかった。
「私がやりたいからよ」
他のパタンナーからブーイングがあがったけど、恩未さんはパタンナーたちの頂点に君臨する絶対女王。
涼しい顔でデザイン画を持っていったのだった。
「春夏の展示会のデザイン画も考えておくといいよ。いい刺激になったみたいだしね。パリに行かせてよかったよ」
紡生さんは笑う。
イレギュラー的に発生したパリ行きだったけど、満足そうな紡生さんの顔を見たら、偶然ではなかったような気がした。