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吾輩は猫である。名乗るほどの者では無い。なぜなら我が人生は今この瞬間にて散るからである。路地裏の薄汚れた石畳に腹這い、吾輩は息を切らせながら空を見上げる。星一つない夜空は、まるで吾輩の運命を嘲笑うかの如く黒々と広がっている。どうしてこうなったのか。話はそう遠くない過去に遡る。
吾輩が生まれたのは、どこかの商家の裏庭だった。母猫の温もりも束の間、すぐに人間の手によって引き離され、籠に詰め込まれて市場へと運ばれた。あの時の人間どもの喧騒、魚の匂い、籠の隙間から覗く雑踏の光景は、今も吾輩の脳裏に焼き付いている。だが、吾輩は幸運だった。ある書生の手に拾われ、彼の貧乏臭い書斎に住まうこととなったのだ。
書生は妙な男だった。昼間は本を読み、夜は酒を飲み、時折わけのわからぬ詩を呟いては天井を眺めた。吾輩は彼の膝の上で丸くなり、時折その手に撫でられながら、世の中の不条理をぼんやりと考えた。人間とはなんと愚かな生き物か。彼らは己の欲望に振り回され、猫の如く自由に生きる術を知らぬ。吾輩はそんな書生の生活を観察しながら、己の哲学を磨いた。
だが、自由とは脆いものだ。ある日、書生の家に怪しげな男が訪れた。借金の取り立てだという。書生は顔を青くし、吾輩を膝から下ろした。その夜、吾輩は書生の不注意で開いた窓から逃げ出し、路地裏へと迷い込んだ。そして今、吾輩はここにいる。腹は空き、身体は冷え、どこからか犬の遠吠えが聞こえる。
吾輩は思う。人生とは、かくも儚いものか。猫といえど、運命のいたずらには抗えぬ。だが、たとえこの身が今散ろうとも、吾輩は猫である。自由に、気ままに、己の道を歩んだ。それで十分ではないか。
だが、ふと脳裏に浮かぶのはあの書生の面だった。腐ってもなんとやら、吾輩を拾い、短い間だが餌をくれた奴には恩がある。この恩を返さずして猫の誇りが廃ろう。吾輩は這うようにして立ち上がり、震える足で路地裏を進む。自由とは甘美な響きだが、腹が減っては哲学もへったくれもない。まずは書生の借金をどうにかせねばならぬ。