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「にゃあ〜」
公園で読書をしていると一匹の猫が足元に擦り寄ってきた。
「……良い子だね。野良猫ちゃんかな。首輪してないね」
そっと頭を撫でて大きくため息をひとつついた。
「ごめんね。餌も持ってないし、飼ってあげれないんだ。そんな資格、ないからね」
この子は1日だけ家族だった子によく似ている。猫は私にとって愛くるしいと思う反面、思い出したくない記憶も掘り返してしまう。
母は男にだらしがない人だった。
そんな母に元々家のことに無関心だった父も呆れ果て出て行ってしまい、私は祖父母の元に預けられ、母は新しく出来た恋人と同棲を始めたそうだ。
祖父母にとっても突然押し付けられた野良猫同然の私はお荷物でしかないようで面倒は見てくれたものの愛情というのは注がれなかった。
お母さん、なぜ私より男を選んだの? なぜ産んだの? おじいちゃん、おばあちゃん、私はあなた達の孫です。そんなにかわいくないですか? 私の存在に意味はありますか? 生きていることを誰か喜んでくれていますか?
果てしない疑問にそっと蓋をし、考えることをやめた。だからだろうか。私は愛に飢え、でも問題からは目を背けどんどん浅はかな人間になっていたのかもしれない。
七歳の頃、一匹の人懐っこい可愛らしい猫を見つけた。
「家族になってくれる?」
猫の小さな頭を撫でて問うと返事をしてくれたかのように鳴き声を上げた。
私は嬉しくて舞い上がった。
この子と家族になったらこれから何をしよう。一緒にご飯を食べて、お散歩もして、同じ布団で眠って、お風呂も……いや、猫ちゃんはお風呂苦手か。なんて考えながら、ペットには首輪とリードが必要だと思ったがペットを飼ったことないうちにそんなものはない。
仕方なくクローゼットから新聞の束などを括る用のビニール紐を手に取った。それを庭で待つあの子の首に括りつけた。
「お散歩に行こう!まずは神社までね!」
お散歩の仕方も、ましてやペットの知識なんか一切ないのに私はその紐を引っ張って歩みを進め続けた。その紐が首に食い込み可愛らしい声が聞こえなくなったことにも気づかずに。
「お前が殺したのか! いるだけでも厄介なのに面倒まで起こして。お前はいらない子だよ」
「違いねぇ。最初から存在しない子だ。あのバカ娘がどこぞの馬の骨かもわからねぇ男とこさえたガキなんざこっちも願い下げだ!」
祖父母の罵声を私は嗚咽を漏らしながら浴び続けた。
泣いたのはもちろん家族を自分の手で殺してしまったこともあるが、私の存在が否定され存在しないものにされてしまったからだ。
真っ白になる頭の中で私は小学校で読んだ本のことを思い出していた。絵本で読んだ優しいお母さんは子供のためにご飯を作ったり頭を撫でてくれたりするらしい。
でも私のお母さんの手は男の人と触れ合うためにある。私のためじゃない。
昔話に出てくる優しいおじいさんおばあさんもそばにはいない。
一緒に寝てくれないし一緒の机でご飯を食べてもくれないしおやつもくれない。
くれるのは冷たい視線と鋭く尖った言葉だけ。
「ごめ……ごめんな……ざい。生まれて……ぅっ……きて、ごめんなさい……」
声を振り絞り少しの期待を持って私は謝罪をした。神様どうか最後のチャンスをください。と心の中で祈る。
そんなことないよって言って欲しい。もしくは頬を打たれてそんなこと言うもんじゃない!と叱ってほしい。
どんな形でも良い。愛情に触れたい。恐る恐る祖母に視線を移すが逆光で表情は読み取れない。
「あぁ、まったくだ」
期待はすぐに裏切られ、私の家族が死んだ日に私の心も死んだ。
その後も相変わらず祖父母の当たりは強かったが私は空気のように過ごしてその場を凌ぎ、小学校高学年の頃には祖父が他界。高校を卒業後は家を出て一人暮らしを始め祖母とは疎遠になった。
もう二年になる。実家暮らしも一人暮らしも私にとっては何も変わらない。一人で食べて一人で眠るだけの生活だ。
「あ、もうバイトの時間だ。じゃあね、猫ちゃん」
野良猫に別れを告げてバイト先に向かう。
カフェでのバイトはやりがいも特に感じないし淡々と機械のように仕事をこなすだけ。先輩には「もっと笑顔でね」と言われるがそんなものに一体何の意味があるのか。
私が微笑まなくても世界はいつも通りに回るし、お客さんだって私の顔なんかどうせ見ちゃいない。
バイト先に着くと先輩方に定型分のように挨拶をし、ロッカーの中に荷物をしまい込む。
髪を束ねてエプロンをつけて業務を開始した。昼のこの時間帯は近くのビルからお昼休憩にやってくる人で溢れ、とても忙しい時間帯だ。
「いらっしゃいませ。店内でお過ごしですか?」
「あぁ。サンドイッチとティーラテで」
無愛想なお客様だ。スマホを見ながらこちらを少しも見ようとしない。こういう人は苦手だ。
「かしこまりました。お席までお持ちいたしますので少々お待ちください」
レシートを雑に受け取り不要レシートボックスをよく見もせずに捨て、ちゃんと入らず地面に落ちた。それに気づかず歩きスマホのまま席へと移動する。モヤモヤとしながら注文されたものを作り、席へと持っていく。
「お待たせいたしました。カフェラテとサンドイッチです」
「は?俺が頼んだのティーラテなんだけど」
しまった、よりによってこういうタイプのお客様に失敗をしてしまったと目を見開いた。
「大変申し訳ございません。すぐに用意いたします」
「ボーッとしてっからだろ。休憩時間限られてるのになんでまた作り直しに待たされなきゃいけねーんだよ。たいした仕事でもないくせにさ。誰でもできる仕事なんだから誰かに代わって貰えば? 代わりはいくらでもいるだろうしさ」
“代わりはいくらでもいる” 確かにそうだ。
別に私じゃなくても良い。もっと仕事を上手くこなせる人はいくらでもいる。
でもどうしてだろう。やりがいを感じてなかったはずの仕事なのに何で涙が出てきそうなんだろう。
あぁ、そうか。また私の存在が誰かに否定されてるからだ。いらないものだと言われているからだ。
異様な光景に先輩が駆けつけてきた。
「お客様、大変申し訳ありません。うちの従業員が何か粗相を……?」
「何かじゃねーよ。こいつがー」
もう頭の中は真っ白だった。大きな声で周りのお客様が見ている中で私を否定されている。
水の中にいるような感覚でお客様の怒号も先輩の謝罪の声も濁って耳に届かなかった。
床もぐらついてるように思えて今にもバランスを崩し倒れ込んでしまいそうだった。
気づいたら私はスタッフルームへと先輩に連れられていた。
「ねぇ、松澤さん。あなたここへきてもうおよそ2年目よね? こんな初歩的なミス……。お出しする前に注文内容を確認することもできないの?」
「……大変申し訳ございません」
「はぁ……。接客も無愛想で笑顔を作れと言っても作らないし。いつも何も考えてないよね。あなた、ここに向いてないよ」
そう言い残すと先輩はスタッフルームを後にした。
向いてないって。その発言パワハラじゃないですか?と心の中で吐き出した。
一人ロッカーの前にうずくまっているとロッカーからスマホの振動が聞こえた。
残った力を振り絞って重い腰を持ち上げスマホを確認する。
画面には“着信 お母さん”とあり心臓が大きくドクンと音を一つたてた。
母と最後に話したのは中学一年生の頃。男と別れたとかで一度実家に帰ってきたが次の日にはヨリを戻し、迎えにきた彼氏と再び出ていくという茶番があった。
その時に中学入学祝いと言い、携帯電話を私に持たせたのだ。電話で話すのはこれが初めて。恐る恐る電話に出る。
こちらがもしもしと言う前に母の甲高い声が聞こえた。
「あぁ!もしもし〜? ゆきちゃん久しぶりだねぇ。よかったぁ、番号変わってなくてぇ!」
ねっとりとヒラヒラした“女”の声に、あぁ、こんなだったなぁと懐かしく思う。
「急に何? 今仕事中なんだけど」
「バイト始めたのぉ!? あらぁ、大きくなってぇ〜……今いくつー?」
自分の娘の年齢さえ把握してないほどの無関心さ。相変わらずである。
「二十歳。で、何の用なの?」
「つれないなぁ。あぁ、そうそう。昨日ねぇ、ばあちゃんが亡くなったんだよぉ」
「……は?」
私は唖然とした。祖母が亡くなったことにではない。お母さんが自分の母親が亡くなったと言うのにその悲しみが一切伝わってこなかったからだ。
「びっくりよねぇ! それでねぇ頼みがあるんだけどねぇ〜、喪主を引き受けて欲しいのよぉ」
「何言ってるの……何で私が? 葬儀のことなんて何もわからないよ」
「葬儀費用はさぁ、ばあちゃんの遺産とか保険金から何とかなるでしょぉ? 足りないところは私が払うし!私のとこに振り込まれるだろうから後で口座番号送ってー? お金はこっちで何とかするからさぁ。葬儀社にももう連絡はしてある〜」
「お母さんは葬儀の間なにをしてるわけ? 何で参加しないの?」
「今タイミング悪いことに彼氏と旅行中なのよぉ! ごめんねぇ、任せちゃって〜。そうそう! ばあちゃんの棺に入れる納棺品も葬儀社の人に預けてあるから受け取ってね〜!」
ちょっと待ってよと怒鳴ろうとした時にこれから食事だからまたねと一方的に電話を切られてしまった。思いもよらない母の無神経さに体が硬直した。
祖父が亡くなったときも母は参列しなかった。祖母が喪主を務め、まだ子供だった私は見ているだけだった。母親が期待できる人間に値しないことはわかっていたのだから、こんなことならあの時葬儀の流れをよく見ておくんだったと後悔した。
−翌朝、葬儀社の方と打ち合わせをした。ビシッと決めたスーツ姿の男性からはほのかに線香の香りがする。
棺のカタログなど様々なものを見せてくるが頭に入ってこない。祖母の死のショックではない。
全てがどうでもいいのだ。まるで赤の他人の葬儀の日程を決めさせられてるかのような気分だ。
「それで今後のことなのですが、納棺式はいつになさいますか?」
そう言われハッとした。
「え? のうかん……しきってなんですか?」
「湯灌の儀というもので故人様の御身体を洗い清めたり、死装束と呼ばれるものにお着替えをして旅支度を整えることでございます。それらは弊社所属の納棺師が務めあげさせていただきます」
初めて聞くそれに興味を惹かれた。祖父の時はそのようなことをしただろうか。
昔のことでもあり、あまりよく覚えていない。
「そうなんですね。じゃあ……明日の午前納棺式、明後日お葬式で通夜はなくて良いです。あと、私一人だけの家族葬でもいいでしょうか? 母は都合が悪く、親戚も遠くに住んでいるため私しか参列できません」
「もちろん問題ありませんよ。承知いたしました。それでは葬儀や火葬などの件ですが……」
私一人で喪主などやり切れるのだろうか。わからないことだらけで不安と緊張で頭がクラクラしてくる。
日程を決め終え葬儀社を後にした。明日から忙しくなる。
昨日今日といろいろとありすぎて帰宅後、しっかりとした夕飯を作る気力もなくお茶漬けを作りサラサラっと流し込み洗い物もせずベッドに倒れ込む。
私もこのまま死んでしまいたい。明日目が覚めず二度と朝日を拝むことができなくなればいいと心から思った。バイト先でも必要とされず、家族からも必要とされず、母には上手く使われてばかりの存在。
でも私は生きてる。心臓は止まってはくれない。
ベッドの上でテレビもつけず無音のこの部屋では静かに、でも確かに私の心臓が動いてる音がした。
「……脈うってんじゃねーよ」
ポツリとそう呟き、布団を強く握りしめた。溜めていたものが溢れ出し、たった一粒零れ落ちたらもう止めることはできなかった。小さな子供のように私は泣き続けた。
いつの間にか眠りに落ちていて目が覚めた時には朝日が射し込んでいた。
腫れぼったい目を開きスマホで時間を確認した。もう七時をまわっている。
「支度しないと……」
疲れが取れていないのか体が鉛のように重たい。ベッドからずり落ちるように抜け出し浴室へ向かう。
温度をわざと下げて冷たいシャワーで目を冷やすと同時に心をシャキッとさせた。
充分に冷やした後の体にバスタオルを包み込むと暖かさを感じる。
下着姿のまま化粧ポーチからメイク道具を乱暴にバラバラと出し、化粧を始める。こういう時の化粧はやはり薄めがいいだろうと判断し普段使わないような淡い色を使った。
喪服に着替え今日のために購入した葬式に相応しい鞄を持ち家を出る。ヒールが歩きにくい。靴擦れを起こしてしまいそうだ。
見慣れた外の風景と着慣れない喪服がマッチしなくていつもの外じゃないように感じる。
葬儀社に到着すると昨日打ち合わせをした男性が近づいてきた。
「お待ちしてました。納棺師の準備が整い次第お声がけさせて頂きますので待合室にてお待ちください」
「わかりました」
案内された待合室の椅子に腰をかけた。改めて葬儀社の中の独特で神聖な空気に緊張する。
スマホでニュースを見たり電子コミックを読んだりして時間を潰そうと試みるが内容が何も入ってこずソワソワしながら待つ。
しばらくしてノック音に反応して扉へと視線を移す。
失礼致しますの声と共に入室してきたのは担当の男性ではなく、凛とした四十代前半くらいの女性だった。
黒いベストとスーツパンツに白のワイシャツ、髪はお団子に結ばれていて全てが美しく整っていた。
「本日、ご納棺のお手伝いをさせていただきます、新木と申します。よろしくお願いいたします」
堂々とした自信に満ち溢れたかのような口調に圧倒される。
「は、はい。よろしくお願いします」
「ご準備が整いましたのでご案内いたします」
こちらですと言うかのような動作と共に歩き出す。後ろからおずおずとついていき、ある部屋に通された。
そこはひと家族が収まるくらいの小さな和室の部屋だった。
「お椅子か座布団のご用意がございます。どちらになさいますか?」
「あ、じゃあ椅子でお願いします」
こういうところで座布団を選んでしまったら正座になるだろう。
納棺式がどれくらい時間がかかるかはわからないが長時間の正座に自信がない。
用意してくれた椅子に腰をかけると新木さんは祖母の向こう側に正座で座り、祖母の顔にかかる白い布を外した。
いつも眉間に皺を寄せ私を怒鳴り散らかしていた祖母はそこにはいなかった。穏やかな顔で眠りについている。遺体らしくない、まるで生きて眠ってるかのようだった。
その祖母の表情に見入っていると新木さんが声を発した。
「改めまして、この度はご愁傷様でございます」
深々と頭を下げられ、こちらも反射的にお辞儀を返す。
「これより、納棺式を始めさせていただきます。お式のまず初めに、喪主様には末期の水をお取りしていただきます」
初めて聞く言葉に首を傾げた。それを見逃さないと言わんばかりに新木さんは続けた。
「こちらの綿棒にお水を含ませお渡しいたします。故人様のお唇に軽く触れ、最後のお飲み物を差し上げてください」
新木さんが掲げた綿棒は普通の耳掃除なんかのとは違う大きなものだった。持つ部分は木でできている。
器に入った水に綿棒を入れ、それを私に差し出す。
「どうぞ、故人様のお顔近くまでお越しください」
何もわからない私を新木さんはうまく誘導してくれる。
綿棒を受け取りこれであってるのか?とおそるおそる祖母の唇にチョンチョンと綿棒を当てた。
新木さんが軽く微笑みながら手をスッと差し出した。大丈夫、あってますよと言われてるかのようなその微笑みに私は安心し新木さんの手に綿棒を返し、席に戻った。
「それではこれより喪主様には故人様の旅支度を整えていただきます」
「え? 旅支度……?」
予期せぬことに小さく声を漏らした。
きっと打ち合わせの時に説明されていただろうが、上の空で聞いていたから頭に入っていなかった。
「旅支度について簡単ではございますがご説明させていただきます」
そう言うと新木さんは綺麗な布達を取り出し、説明を始めた。
「まず故人様が今お召しになられている白いお着物、こちらは経帷子(きょうかたびら)と申します。逆さごとでありますため、襟元は左前となっております」
祖母の襟元を見ると確かに左前になっていた。お祭りの時の着物とは着方が違うようだ。
「こちらは故人様におつけいたします、足袋(たび)でございます。こちらは脛当て、脚絆(きゃはん)でございます」
一つ一つ丁寧に、そして静かに説明していくその手つきや動作がとても美しい。
「こちらは故人様のお手元におつけいたします、手甲(てっこう)でございます」
輪っかのついた僧侶とかがつけてそうなイメージのものだ。お遍路さんなんかもつけてたりする気がする。
「こちらの袋は頭陀袋(ずだぶくろ)と申します。中には印刷物ではございますが六文銭が入っています。三途の川の渡し賃でございます」
綺麗な袋の中には昔のお金が六つ印刷された紙が入っていた。
このあと葬儀が済んだら火葬だし燃やせるものじゃないといけないのだろう。死んでもなお、お金を払わなきゃいけないのかと思うと複雑な気持ちになる。
「こちらは故人様にお持ちいただきます数珠でございます。火葬のできる素材で出来ております。故人様が愛用なされていたお数珠も物によってはお棺に入れることが可能ですが、本日はご持参なされていますか?」
唐突な質問にハッとした。また上の空になっていた……。
「あ、いえ、持ってきてはいないです。愛用の物もないと思うので大丈夫です」
「承知いたしました。それでは続けさせていただきます。こちらの三角頭巾、本当のお名前を天冠(てんかん)と申します。天の冠とお書きします。本来、故人様のお額におつけいたします亡くなられた方の印ではございますが、髪型など崩れてしまいますことから後ほどお棺の中に添えさせていただきます」
よくお化けがつけてるような三角の布だ。ドリフのコントとかでも見たことがある。
「旅支度は全てお紐がついています。結び方は全て固結びの縦結びとなります。これでおつけいたします旅支度についての説明は以上となります。わたくしがお手伝いをさせていただきますので、ご一緒にお願いいたします。どうぞ、故人様のお近くまでお越しください」
祖母の足元に正座すると新木さんは祖母の足が見えるように着物の裾を必要最低限まで捲り上げた。
新木さんのサポートのもと、一つ一つ慎重につけていく。
足を支えてくれてる間に足袋を履かせ、祖母を傷つけないように丁寧に足袋に繋がった紐を足首に巻きつけ結んでいった。
祖母を傷つけないように。私は散々傷つけられていたのに何をこんなに気を遣っているのか。
でもこの空間で新木さんの一生懸命なサポートに私も集中する。この部屋だけ外の世界と遮断され時間が止まってるかのような、でも居心地が悪くない、そんな不思議な時間だった。
「全ての旅支度が整いました。これよりお化粧にてお顔色を整えさせていただきます。故人様は生前お化粧をよくする方でしたか?」
「え……えーっと……」
わからない。十二年一緒に暮らしてきたと言うのに祖母が化粧をしていたかどうかすらわからない。
祖母も私に無関心だったがお互いに無関心だったと言うことに今気付かされるとは思わず脱力した。
「こちらで故人様に合うような色合いでお化粧させていただくことも可能ですがそちらでよろしいですか?」
言葉が出ない私に新木さんから提案され、それに救われる。
「はい、それでお願いします」
「承知いたしました」
銀色の化粧バッグから道具を取り出すとメイクを施し始める新木さん。
その所作はとても美しく無駄がない。頬に血色の良さが現れ、華やかな色の紅で唇も鮮やかになっていく。
まるでアート作品を見ているかのような気分だ。あまりに難なくこなすため、私にもできるのではないかという錯覚に陥る。
けれど、自分の化粧はできたとしても私じゃ誰かの化粧なんてまずできないだろう。
ましてや相手は亡くなった人だ。簡単な作業ではないはず。仕事をしている新木さんはとてもやりがいを感じているかのような表情だ。
それがとても羨ましく、どうしたらそんなに活き活きと仕事ができるのか疑問にも思った。知りたい。
心からそう感じた時、声がかかった。
「どうでしょうか?」
メイクが完了し、祖母の顔を改めて確認する。
最初とは比較にならないほど生きて眠ってるかのような、今にも呼吸し出しそうだ。
揺さぶったらまた憎まれ口を叩きながら起きそうなほど。
「……はい。大丈夫です」
泣き出しそうだ。思春期の頃は私への風当たりの強さに早く死んでしまえばいいのにと思ったこともある。きっと祖母の死に際には泣かないだろうと思っていた。
けど、まるで私に最後の最後で微笑んでくれているかのようなその安らかな顔に不意打ちにも涙が出てしまったのだ。この祖母に涙を流してしまったことに悔しさから下唇を噛み締める。
でも、後悔は微塵もなかった。新木さんは私の横で気持ちを悟ってくれているかのように落ち着くまで待っていてくれている。落ち着きを取り戻すと新木さんが口を開いた。
「それではご納棺となります」
葬儀社の方も手伝いに入り、打ち合わせで決めた棺に祖母は納められていく。
新木さんは棺のそばに立ち、木で出来た杖を掲げた。
「最後に三点、入れていただきたいものがございます。こちらは旅の杖、金剛杖(こんごうづえ)と申します。生前、故人様の利き手はどちらでしたか?」
「右です」
「それでは故人様の右側、腰元に添えて差し上げてください」
右側に杖を添え、しわくちゃになった祖母の手を眺める。握ってあげるべきなのだろうか。悩んでいると新木さんは続けた。
「この後、お顔飾りがありまして、それが済みますとお布団がお胸元までかかります。お手に触れていただける時間はこれで最後となると思います。よろしければお手元などを触れて差し上げてください。」
これで最後。その言葉を聞き、私は咄嗟に祖母の手を握りしめた。冷たくなってしまった祖母の手。今までほとんど握ったことのない祖母の手に照れ臭さを覚える。
そっと祖母の手を戻し、軽く新木さんにもう大丈夫ですというように会釈をした。
それを察した新木さんは納棺式を続けた。
「こちらの編み笠には先ほどご説明させていただきました天冠を結びつけさせていただきました。杖とは反対側の腰元に添えてください」
編笠を受け取り、添える中であることを思い出した。
まだ母が男にだらしなくなかった時の遠い記憶、夏休みに祖母の家に遊びに行った時、笑顔で私の頭を撫でてよく来たねと抱きしめてくれた。
その夜には大好きなハンバーグを作ってくれて美味しい美味しいと食べた記憶。
一緒にお風呂に入って庭で蚊取り線香を焚きながらみんなで花火をした記憶、蚊帳の中で一緒の布団で眠った記憶。
祖母は……、臙脂(えんじ)色の口紅が好きだった。
なぜ私は今まで忘れてしまっていたのだろう。自分の嫌だと思う記憶ばかりに縛り付けられ、楽しかった記憶をごっそり封印してしまった。一番忘れてはいけなかった大切な記憶。
「す、すみません新木さん!」
「はい。何か気になる点がございましたか?」
驚きもせず、わかっていたかのように落ち着いた口調で問いかける。
「祖母は、臙脂色の口紅が好きで……。今更でしょうか。もうお化粧終わってしまいましたもんね」
「いえ、まだお直しできますよ。臙脂色ですね。故人様によくお似合いの色だと思います」
そういうと新木さんは再びメイクボックスからリップパレットを取り出し塗り直してくれた。
臙脂色の唇の祖母を改めて見て、むかし微笑みかけてくれた顔を鮮明に思い出す。
「新木さん、ありがとうございます」
「いいえ、最後の姿ですからご遺族様のご希望に出来る限りお応えいたしますので遠慮なくお申し付けください」
そういうと納棺品を取り出し、式を続けた。
「こちらは旅のお履物、草履です。故人様のお足元に添えて差し上げてください」
最後の品を添え終わると新木さんは白い段飾りを取り出した。
「お顔まわりの飾り付けをいたしますのでお座りになってお待ちください」
「はい」
……とても静かだ。席に座り待っている間、祖母との思い出に浸っていた。思えば祖父だって最初は優しかった。二人の気持ちの変化にまだ理解はできないが、一切愛してくれなかったわけじゃなかったことを思い出す。母と折り合いが悪くなった時から祖父母に変化があらわれた。
「そういえば……」
突然新木さんが口を開き体がびくりと反応する。
「担当者さんからこれをお預かりしていました。お葬式の際に行うご納棺品とは別にこちらはとっておいた方がいいとこちらで判断いたしました」
そう言い、渡されたのは白い封筒だった。表には私の名前が書いてある。おそるおそる封筒を開け、中に入っていた一枚の便箋を広げた。
『ゆき。今までのことを許してくれとは言いません。お前の母さんがこちらの心配をよそに男を取っ替え引っ替えになり絶縁状態になったというのに、ゆきを押し付けられてしまい、私たちの敵は我が娘であるのに、ゆきのことも敵視してしまいました。年をとると、より頑固になりなかなか謝ることができませんでした。ゆき、ごめんなさいね』
祖母が久しぶりに私を“お前”ではなく、“ゆき”と呼んでくれた。
こんなささやかなことがとても嬉しく、その喜びがゆっくりと心に暖かく染み込んでいく。
事の真相を知り、静かに目を閉じた。愛されてたのではないかという憶測が確信へと変わり、長年の誤解やわだかまりが静かに溶けていくようだった。
祖父母も娘に振り回され、私もお母さんに振り回され、私たちは同じ被害者だったのだ。もっと生前におばあちゃん孝行しておけばよかった。
どこかでお互い向き合うことができていたなら、もっと早くに分かり合えたかもしれないのに。でもきっとこれは今となっては良い経験であり、必要な遠回りだったのかもしれない。
「ご準備が整いました」
新木さんの声にそっと目を開ける。
「それではお蓋閉めとなります。故人様のご冥福を祈りましてお手合わせをお願いいたします」
そっと手を合わせ再び静かに目を閉じる。その後、棺の蓋は閉じられ次に会えるのはお葬式の日となった。棺の蓋にそっと触れ、声をかける。
「おばあちゃん、また後で会おうね」
そこへ新木さんが静かに近づいてくる。
「以上で納棺式は終了となります。わたくしはこちらで失礼致します」
深々と頭を下げて挨拶をされる。この後は葬式と火葬だけ。新木さんと話せるのはこれで最後だろう。
私は迷っていた。でもここで言わなければ後悔しそうな気がする。
「あ、あの、新木さん!」
きょとんとした顔で、はい?、と見つめられる。
「納棺師って募集してますか? あの、私本当に感動して。いま私バイト先でもやりがいを感じず、本当にダメダメで、それで、あの私……」
言葉でうまく気持ちが伝えれず、聞かれてもないのに私情を話し、唐突にこんなことをいう自分自身に赤面した。恥ずかしくて新木さんの顔を見ることができない。
でも、“知りたい”
出会ってすぐの新木さんに私は強い憧れと興味を抱いた。
理由はたったそれだけだが私には充分だった。
きっとおばあさんを亡くされたばかりで気が動転してると思われるのがオチだろう。でもそうなったとして話を流されてしまったとしても私は後悔はしない。
「……葬儀とあなたの気持ちが落ち着いたらこちらにお電話ください」
こっそりとそういうと新木さんは自身の名刺を私に差し出した。えっ、と顔を上げた私に優しく微笑み、再び軽くお辞儀をしてその場を立ち去った。
その後ろ姿を見て私は密かに希望を抱いていた。