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私達はセンターで次の家が見つかるまでの間お世話になった。
家を出た時に最後に食べたお昼ご飯はカレースパゲッティだった。私はそれ食べると家を出た時のことを思い出すのであれ以来食べていない。
センターで最初の夕飯として出されたのがハンバーグだった。それがとても美味しくて、こんなに幸せな日があるのかととても3人で喜びあった。
1日だけ荷物をまた取りに帰らなくてはならなくて帰った。幸いアイツはいなかった。
家の中は埃まみれでアイドルのライブなどであるようなウチワが置いてあり、私と母と姉の名前が貼ってあった。車の窓には私と姉の名前と、「帰ってきて」の文字が貼ってあった。
必要なものを持ってまた家を出た。
家を出たことにより学校も辞めたため友達に別れを言えることができなかったがそんなこと考えている暇もなかった。
私は学年が違う近所の奴3人に、姉はクラスの人にいじめられていたのでそこも考えると家を出て正解だ。
4ヶ月経ち、とりあえず東京にある祖父の家に行くことにした。
そこで学校に通って2ヶ月で千葉県で家が見つかり引っ越すことになった。
話忘れていたが祖母は私が小2らへんで倒れて寝たきりの植物人間状態になった。
病名は
「くも膜下出血」
姉と同じ病気だ。
祖母もアイツに苦しめられていた。
母から話がいったりもしていたが、アイツがよくお金を自分の親じゃなく母方の親にせびっていた。
現在祖母は発症から10年間点滴のみで生き続け私が高1のとき肺炎により死去(80)
祖母死去から1ヶ月後、腸捻転という腸がねじれていて手術で治ってすぐ退院出来る状態だった祖父が肺炎にかかり死去(86)
私達は千葉県に引っ越してきて新しく人生を再スタートした。
当時私は小学4年生だった。
まだ離婚は成立しておらず小学6年生になったとき市役所からアイツのサインが押された離婚届が届いた。
こうして私達は完全にアイツの檻から逃げ出すことが出来たのだ。
あのとき逃げるのに協力してくれた松村さんや学校の人達には感謝しきれないくらいです。
本当にありがとうございました。
年月が経ち、22歳の4月に警察から電話があった。知らない番号だったから旦那に電話に出てもらった。警察がアイツの名前をいい、お父さんですか?と聞く。そうだと答え、アパートで死体で見つかったと知らされる。
ひとり暮らしのため見つかるまでかなり時間が経っていて腐敗が進んでいて、アイツ本人かどうかが分からない姿だと告げられた。
念の為事件性を疑い私に電話をかけてきた。
でもたぶん病死だろうとのことだった。
私はあまり実感は湧かなかったが、悲しい気持ちは1ミリもなく、アイツも千葉県にいて距離もそんな遠くないところにいるのは噂で聞いていたから、いつ会ってもおかしくない状況の中でアイツがいなくなったのがとても嬉しくて安著の涙を流した。。。
私と姉は今でも誰かが怒鳴っているのを見ると身体中から涙が溢れ出す。それは永遠に変わることは無いだろう。