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複雑に入り組んだ路地の街ではあるが神官長ルチェラの案内は必要なかった。ただ街に溢れ返る『騙り蟲の奸計』の流れに逆らえば呪われたリーセル湖へとたどり着く、とのことだった。
そうは言っても一度ジェムリーの街の中に侵入した蟲の群れは渦巻くように湖畔の港町を巡っていて、全体の大きな流れを把握するのには苦労した。
小さな抵抗の末に弾けるような、蟲を踏み潰す感触に二人が慣れてしまった頃、かつてはかつての湖に負けず劣らず輝いていた陋屋は後方へと押し流され、開けた景色を眼前に迎える。
蟲の溢れた湖という言葉を聞いて以来、その有様を特に想像していなかったことにユカリは気づく。しかし目の前の光景を想像することはなかっただろう。そこには僅かな湖面を覗くことすらできない蟲の沼が広がっているだけだった。蟲の呪いは満天下の始まる前の混沌とした泥の渦にも似て、意味も目的も運命も行く末もない騒々しい沈黙だ。近くで見ればうねっているが遠くで眺めている分には黒々と曇った鏡面の如くで、凪いだ海に似て穏やかにのたうち、雪の降った夜のように無音で蠢き、見るだけで人を不快にさせる。
結局のところ、基本的に湖の有様は街の中と同じだ。当然、発生源であるが故により酷い有様ではある。岸辺が判別つかず、どこから陸でどこから湖なのか判然としない。船や桟橋も見当たらない。それも約四十年もの間、手入れできなかったのだから当然だ。全ては腐り落ちてしまったのだ。今や湖に残されているのはリーセルと呼ばれる貴き名と、輝かしくも遠く離れて今は痩せ衰えた歴史だけであり、それらもいずれは――このままにしておけば――消えてなくなる。蟲の呪いは臭くて、不潔で、気持ち悪いだけではない。人を近寄らせないことで、営みも文化も齧り、蝕んでしまうのだ。
岸辺に残されている人工物は古色を帯びた八本の石の柱だけだ。係船柱にしては木登りの練習ができそうなほどに高い。それに岸に沿うべきところが、まるで護衛兵が王を取り囲むように並んでいる。おそらく宗教的な建造物なのだろう、とベルニージュが推測する。
元々古くから信仰されていたという清らかな湖の方は見る影もない。神官長ルチェラによると、この呪いはクヴラフワ衝突に怒った神の罰なのだという。ユカリたちはわざわざルチェラの説明に訂正を入れようともしなかった。少なくとも街の人々は納得しているらしい。
「見渡す限り気の滅入る光景だね」ベルニージュが火でも噴きそうな溜息をつく。「焼き尽くしたいけど、尽くせないなんだろうな。魔導書の気配はあるの?」
「うん。でもマルガ洞の中に入った時と同じ、地面のあちこちから気配を感じる」
「マルガ洞では壁や天井からも気配を感じたって言ってなかった?」
「言ったけど。ここには壁も天井もないし」
「空から感じていた可能性は低くなったよね」
「なるほど。考えてみれば洞窟にいた時以外は上から気配を感じてないね」ユカリは意気込む。「さておき今度こそ解呪しなきゃね」
「その前に呪いを調べるよ」
「個人的な興味で?」
「世の平和の為にだよ」
二人で呪われた湖の岸辺をたどるように散策する。観察するに蟲の様子は街の中と変わらない。街中と変わらず無目的に蠢いている。あるいは蠢くことだけを目的としているとしか思えない。餌を探したり蟲同士で争ったりしている様子もない。
街の中になかったもので初めに見つけたのはあの合掌茸だった。岸辺をなぞるように生えていて、ぼんやりと温かみのある赤みを帯びた光を放っている。蟲も光る茸には興味がないようで、周囲を蠢いてはいるが集る様子はない。
「もしかしてこれが例の茸? 人間の手みたい。こんな怪しいものよく食べる気になったね」とベルニージュが蟲を見る目つきで茸を覗き込む。
「お皿の上では光ってなかったんだよ。調理された後だと形もよく分からなかったし」
それにあのような痩せた土地で客人としてもてなされては断れない。
「危ないですよ!」
突然誰かに鋭く呼びかけられてユカリはびくりと跳ねる。
「どうかした?」というベルニージュの問いかけに、
「今の声、どこから……」とユカリは答え、素早く周囲を見渡す。
ハーミュラーの声だった。そしてハーミュラーの姿を石の柱の直ぐ側に見つけた。何もない柱の上を見上げている。
「危ないですよ。もう調査は十分です。降りてきなさい」ハーミュラーの幻の語気が強まる。「……そんなものは諦めなさい」
ユカリは幻の元まで駆け寄って手をのばすがやはり触れられない。
突然ハーミュラーが走り出し、見えない何か、おそらく石の柱から落ちた誰かを受け止めて尻もちをつく。
「ほら、御覧なさい。言った通りではありませんか。……別に怒っていません。ただ恐ろしかったのです。危険な旅路に連れ回しておいて、私に言えたことではないかもしれませんが」ハーミュラーは悲しそうな顔を浮かべて首を横に振る。「そんな風に言わないでください。確かにクヴラフワ救済は私の大切な使命です。しかし私にとってクヴラフワとはすなわちそこに住む民のことです。貴女も含めて、ね」
ハーミュラーは立ち上がって蟲を手で払う。その蟲は幻の一部のようで空中で掻き消えた。そしてシシュミス教団の巫女は小さな誰かの手を握る。
「さあ、泣き止んで。高い所が怖いのに無理をして……え? 違うのですか? ……そう。何か怖いものはありますか? ……え? 何も? それは、素晴らしいことですね」
ハーミュラーの幻が彼方へ消え去り、ユカリも現実に戻ってくる。蟲の溢れる忌々しい現実に。
ベルニージュは怪訝な表情を隠さずにユカリの顔を窺う。
「もしかして例の幻? ハーミュラーが一人で喋ってるとかいう」
「うん。いつも唐突なんだよ。今回も見えない誰かと話してた。怖いもの知らずの、たぶん子供」
ベルニージュは腕を組んで小さく唸る。
「たぶん、ハーミュラーか、ハーミュラーと一緒にいる誰かの記憶だと思うけど、それだけでは何とも言えないね。何でユカリにだけ見えるのか。何でハーミュラーだけなのか。いっそのこと謁見の時に直接ハーミュラーに尋ねれば良かったんじゃない?」
「無理だよ、そんなの。覗き見てるようなものなんだから」
「じゃあお手上げだね。気になって仕方ないけど、今のところ魔導書や呪災との関連も見いだせないし、危険もなさそうだし、様子見するしかない」
「そうだね。でもそうだ。ハーミュラーさんと誰かはこの石の柱を調べていたみたい」
「ワタシだって調べようとしてたけどね」
二人は名高い彫像を鑑賞する時よりも丹念に石の柱を観察する。石には素朴で単調な波模様の彫刻が施されているだけで、その意味するところはユカリには分からなかった。特別に精緻な造りではなく、悪戯好きの妖精が戯れに人の野に残す跡のような杜撰さが見て取れる。
「何だろうね。屋根があったような配置には見えないけど。ベルは分かる?」
「波模様は水を表すとして」ベルニージュは柱のどれも同じ彫刻であることを確認する。「湖は一つしかないから、流れ込み流れ出す川を表しているのかも。川が何本あるのか知らないけど」
「川かあ。湖が神聖なら川もそれに準ずるってことなのかな」
そう呟いて、ユカリはふと少し先の地面に気づく。地面が見えている。六本目の柱の近くに蟲が近寄らない空隙があった。
ユカリはうぞうぞと這い回る蟲を慈悲なく踏みつけながら、その空っぽの地面のすぐそばへと急ぐ。その空間は蟲に縁取られながら絶えず蠢いていた。そして間違いなくユカリの接近に気づいたかのように、逃げるように距離を開けた。
蟲の空隙を逃すまいという思いでユカリは地面を睨みつける。
「ベル! こっち来て!」
「ユカリ! 危ない!」
ベルニージュの声に振り返り、ユカリは現実に迫る脅威に気づく。石の柱がユカリの方へと倒れ、圧し潰そうと迫っている、とユカリ自身が気付いた時には目と鼻の先に波模様があった。
ユカリが目を瞑った瞬間、石の柱は落雷の如き激しい音とともに真っ二つに割れ、蟲を圧し潰し、舞い上げ、倒れる。ユカリは身を庇うように持ち上げた腕の隙間から辺りを窺う。怪我一つないことも確認する。
「ありがとう、ベル。助かったよ」ユカリは呼吸が止まっていたことに気づいて深く息をつく。「この柱、なんで突然倒れたの?」
ユカリは石の柱が埋まっていた辺りを覗き込む。埋まっていた部分が土を跳ね上げた跡を見る。このような柱を立てるにしてはあまりに浅いことを除けば特に異常はない。あるいは蟲の呪いが長年這い回っていたことによって辺りの土が掘り下げられてしまったのかもしれない。
ベルが駆け寄ってくる。その表情はまだ強張っていて、周囲に鋭い視線を走らせている。
「大丈夫だよ、ベル。お陰で傷一つないから」
「違う。ワタシの魔法は間に合わなかった。他に誰かいる」
ユカリはすかさず魔法少女の杖を出し、光をかざすように方々に向ける。