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見渡す限り、湖岸に人の気配はない。街の者たちが幾人か遠目に二人の訪問者を眺めているが敵意は感じない。
「あ、そういえば、蟲が近寄らない地面がそこにあって」ユカリは先ほど見つけた蟲の空隙を探す。「……今はないみたいだけど。何だったんだろう」
あちらこちらに目を向けていたベルニージュが指をさす。「いた! 逃げるな!」
テロクスの狩人が狩猟犬に指示する時の簡素な手振りと灰に覆われた街を憐れむ小さな呪文を唱えるとベルニージュは三体の炎の獣を指先から生み出した。高熱を発する魔法の獣は蟲の呪いを焼き焦がしながら駆けてゆく。炎の獣の追うその先には蟲が近寄らない空間があり、その空間は街の方へ逃げようとしていた。
すぐにベルニージュの使いたちは空間を追い越して立ちはだかり、ばちばちと爆ぜる牙を剥く。逃げる空隙は細長く、蛇行していて、一言で言えばにょろにょろしていた。
「もしかして透明蛇のカーサ?」とユカリは手探るように呟く。
「そうみたいだね。ワタシの方はかすかに姿が見えるよ。一見普通の蛇だけど」
焚書官ルキーナもといユカリの実母エイカの相棒である透明の蛇だ。
ユカリとベルニージュは蟲を踏み分け、炎の獣に足止めされた見えない蛇カーサの元へ向かう。どこまで近づいてもユカリには見えなかった。
「デノク市の砦でワタシが蹴飛ばして以来、何かと縁があるね」ベルニージュは蟲の避ける地面を見つめ、皮肉な笑みを浮かべて言った。ユカリも同様に見つめる。ただ見つめる。「ユカリ。ワタシ、蛇語は分からないんだけど」
「私だって蛇語なんて……分からないけど会話はできるんだった。ええと、地面ではなく透明の蛇に話しかけます」と自分自身に言い聞かせ、ユカリは一つ咳払いして露わになった地面の少し上の空間を意識して見つめ、【話しかける】。「カーサさん。お久しぶりです。こうしてお話するのは初めてですね。最後に会ったのはいつだったか。会ったと言えるのか分からないですけど」
目に見えないものと話すのも最近はご無沙汰だ。
「ああ、大丈夫。そんな魔法は使わなくていい」
蛇の言葉は分からなかったベルニージュも蛇の話す人の言葉は聞こえた。
「話せたんですか!?」虚を突かれてユカリは驚いた。
「そうだ。人の言葉は昔に学んでね。あまり話さないが話せる。そして、久しぶりだ。いつ以来だったか」その耳に届く響きは知恵深い老翁の如く威厳を湛えていた。「そう、ルキーナが、いや、エイカが闇に消え去った時以来か」
サンヴィアにて、魔法使いクオルの造った魔物が謎の闇を生み出し、産みの母エイカは闇の中に全身を消し去ったのだ。
「どうしてここに? 私たちのことをつけていたんですか? サンヴィアからずっと?」
「半分正しい」カーサは蟲を尾で払いながら答える。「エイカを探して彷徨っているところでゆくりなく君たちを見かけ、追いかけてきたという訳だ」
「エイカってユカリのお母さんだよね? 産みの方の」ベルニージュが確認し、ユカリが頷いて肯定する。「探しているってのはどういうこと? 見つける方法を知ってるの? そもそもいるといえる状態にあるの?」
「説明は難しいが、大雑把に言ってエイカは俺と似た状態にあるはずだ。全く同じというわけではないし、俺と違って慣れてもいない。自分でもどうなっているのか分かってないだろうな」
「カーサさんも謎の闇に呑みこまれた、呑み込まれているってことですか?」
「そんなところだ。俺はこの状態でも不自由していないがな」
ユカリはほっと安堵の溜息をつく。ずっと心の奥でつかえていた不安の一つが少しだけ安らいだ。少なくとも謎の闇に呑みこまれてもすぐに死んだりはしないのだ。頭を失っているチェスタや全身が消える直前まで腹の大部分を失ったエイカ、何より心臓を失っている自分自身の例があるので、まず大丈夫だろうとは思っていたが。
「カーサさんは母を大事に思ってくれているんですね」
「腐れ縁だよ。ずっと面倒を見ていたからな。親心に近い」
ユカリはその声の響きに確かな慈しみを感じた。そして親心と聞いてずっと心に引っかかっていたあることを思い浮かべる。
「『君のお母さんは生きているってこと、伝えておかなきゃと思って』とルキーナが言っていました。母の友人であるルキーナが母エイカが生きていることを教えてくれたのだ、と最初は思っていました。でも実はルキーナこそが私の母エイカでした。となると、『君のお母さん』という言葉が別の意味になりますよね」
ずっと実感のなかった母エイカの死と違って、義母ジニの死を否定するのは荒唐無稽に思えたが尋ねずにはいられなかった。
ユカリを案じるベルニージュには、期待しすぎないようにと注意されてもいた。
「言っていたな。自分の正体を隠したまま自分が生きていることを娘に伝えたかったのではないか?」カーサの説もユカリは十分承知していた。「もしジニのことを言っていたのだとしても、俺もジニが死んだと知ったのは君が旅立ったあの日だし、実は生きていたのだとしてもエイカに接触した様子はない。それを隠していたのだとしてもやはり理由は分からない。それに忘れたか? 君が旅立ったきっかけを。ジニが亡くなったために口止めの呪いが解け、オンギ村の産婆が救済機構に密告したのだ。エイカが手を尽くしたお陰で武闘派の第四局を出張らせずに済んだが」
確かにその通りだ。もしもジニが生きているのだとしたら、口止めの呪いをジニ自身が解いたことになる。その意図が分からない。ユカリは足掻くように助けを求めるようにベルニージュに目を向ける。
ベルニージュは何もない空間――カーサのいそうな方向でもない――をじっと見つめて、僅かに眉間にしわを寄せている。そして首を横に振る。
「ワタシには分からないかな。ジニさんやエイカさんの人となりも知らないし、どういう意図を抱くか予想もつかない」
「ただ一つ、気づいたことがある」とカーサは付け加える。「覚えているか? チェスタがジニの墓を掘り返したって話を」
ユカリは思い出すと同時に、その話を聞いた時の怒りまで蘇った。しかし矛先を向けるべき相手はいない。
「覚えてますよ。あの時の怒りも締め付けられた感触も海の潮の香りも何もかも」
「あの時はすまなかったな。言い訳するわけではないが、少なくとも俺とエイカは墓荒しには参加していなかった。そういう問題ではないが。できれば止めたかった。トイナムの港町でチェスタがその話をした時、なんて言っていたか覚えているか?」
「たしか、何かおかしなものを見つけたって。何が見つかったんでしたっけ?」
「何もなかったと言っていたな」とカーサは真剣な声色で答える。
ユカリは呆れて短く笑う。
「要するに、私を引っかけようと適当なことを言ったんですよね。あの時チェスタは私に魔導書に関する失言をさせようとしてましたし」
「だが、何かおかしなものを見つけて、かつ何もなかったのだとすれば?」
ユカリは少し考え、カーサが何を言いたいのか察する。「遺体がなかった?」
「という可能性を考えた。もちろん何の証拠もない。チェスタ他、墓を掘り起こした者には箝口令が敷かれていたからな」カーサは自嘲気味に笑う。
ベルニージュが刺々しく呟く。「証拠がない割には期待を持たせるね。そうじゃなかった場合のこと考えてる?」
カーサが重々しく答える。「いや、すまない、ユカリ。浅はかだった」
「いえ、私が持ち出した話なので。気にしないでください」
その話はそこまでだった。故にベルニージュは再度問う。
「それで? ワタシたちに接触して来なかった理由、さっき逃げようとした理由はまだ見えてこないけど?」
ベルニージュがまだ警戒していることに気づき、ユカリも杖を握る力が強くなる。
「負い目のようなものだ」とカーサは答えた。「闇の向こうへ消え去ってしまったエイカと腹の中の弟か妹のこと、長らくエイカと共に死を偽装していたこと」
「……あ、私に対する負い目ですか」とユカリは話の途中で気づく。「カーサさんは気にしなくていいですよ。エイカが全部勝手にやったことだって分かりますから。ね?」
ユカリはベルニージュにも目配せする。警戒する必要はないと思う、と。
ベルニージュはもう一つ忘れてはならない疑問をカーサにぶつける。「ところで、ワタシに見えたり見えなかったりする理由は分かる?」
「それも分からん。ただ俺ではなく君に原因があるのは間違いないな。俺は姿を見せたり隠したりしていない。それができれば苦労せん」
その時、突然、脈絡もなく、力いっぱい吹き込んだ警笛のような悲鳴が聞こえた。少女の悲鳴だ。否応なくこの街に来た理由の一つ、救済機構を逃げ出した元護女エーミのことを思い出す。