コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
「――レ、レイチェル?」
その声には聞き覚えがある。
いや、聞き覚えどころの話じゃない。
蚊の鳴くような弱々しさで聞こえてきたその声は、二歳年下の実妹、レイチェルのものだった。
「やっぱり、シオンお姉さまだったんだ……!」
「どうしてレイチェルがここに? お父様とお母様は?」
薄く濡れた土壁にくっついて、なんとかその向こう側にいるはずの妹と会話を試みる。
私の声を聞いたレイチェルは小さくすすり泣きながら、私に会いに来たはずが捕らえられ、この地下牢に連れてこられたことを離してくれた。
「お父様とお母様は……まだエミリシアにいるの……」
「なんてこと……」
妹が私のいる聖都にやってきたのは、本当に偶然だった。
口の中がカラカラになって、冷や汗が止まらない――母国にいる両親の無事を必死で神に祈ったが、翌朝かびたパンと共に差し出されたのは、優しい両親が処刑されたという一方だった。
「そんな! お父様とお母様が何をしたの!」
「さーてねぇ。大主教様は反逆っておっしゃったんだろ? それなら、アンタの両親が国王陛下やこの大聖教に歯向かったってことなんだろうよ」
父は貴族としてではなく、罪人として首を落とされたという。
母がどうなったのかは――女ならば聞かない方が幸せだと言われた。
隣の房にいるレイチェルは絹を裂いたような声で泣き叫び、兵士は低くチッと舌打ちをする。
「おいうるせぇぞ! 泣き止まねぇなら喉潰しちまってもいいんだからな!?」
「や――やめて! レイチェルには手を出さないで! その子はまだ十六なの……もし鞭打つと言うなら、わ――私を……」
――この状況で、なんとしても妹のことだけは守らねばならない。
慌てて兵士に懇願したが、私の願いが聞き届けられることはなかった。
「おっと、アンタはしかるべき日まで傷つけんなって命じられてんだ。悪いな、聖女様」
ゲヒヒ、と笑った兵士が、隣の牢の鍵を開ける。
同時に聞こえてきたのは、怯えきったレイチェルの悲鳴だった。
「オラよっ! こっちに来な、お姫様!」
「い、いや! お願い、放してぇっ……! お姉さま! 助けてお姉さま!」
「あ――レ、レイチェルっ……!」
引っ立てられた彼女は、牢内の別の部屋へと連れていかれた。
そして、しばらく経って聞こえてきたのは凄惨な拷問の音――鞭打たれ、柔い体を殴られる音は聞くに堪えなかったが、それ以上にレイチェルの悲痛な叫び声が胸を締め付けた。
(どうして……殴るのなら私を殴ればいいのに……!)
血が滲むまで強く扉を叩いても、決して私の目の前にある鉄扉が開かれることはなかった。
レイチェルへの酸鼻を極めるような拷問が行われた後、彼女は雑巾のように部屋の中へと打ち捨てられた。
――私がいる、独房の中へ。
「お、姉さま……?」
「あ、ぁっ――レイチェル……!」
傷一つなかった肌には血が滲み、ところどころ青黒くなってしまっている。
紫色に腫れた頬や目元は、その場所を集中的に甚振られたことを如実に物語っていた。
「レイチェル――ご、ごめんなさい。私が……姉さまがあなたを守ってあげられなくて……」
少し冷たいレイチェルの手を取って涙を流しても、彼女の傷が癒えることはない。
――もしも私に特別な力があったのなら、誰かを癒す神の恩寵があったのなら。目の前で傷つけられた愛しい妹を救うことができるのに。
(どれだけ祈っても、神は私を救ってはくれない……それどころか――)
神は、私からすべてを奪おうとする。
痛みに呻き、悲鳴を上げる気力すらなくなったレイチェルは、数日をかけてどんどん弱っていった。
私はずっと彼女の側に寄り添っていたが、傷はひどくなる一方――適切な治療を受けられない地下牢の中で、大切な妹の命はゆっくりと尽きようとしていた。
「ねえ、さま……」
「どうしたの、レイチェル……大丈夫、姉さまはここよ……!」
「……わた、し――もっと、生きたかったなぁ……」
かすれた声が、にわかに震えている。
口の中に血の味が広がって、私は何も言えずに首を横に振った。
「しあわせに、なりたかった……。お姉さまと一緒、に――」
「いや――レイチェル! お願い、一人にしないで……!」
ふぅ、と小さくレイチェルが息を吐いて――それが最後だった。
可愛い可愛い妹――世界で一番、幸せになってほしいと願っていたレイチェルの体が、どんどん冷たくなっていく。
やがて兵士がやってきて、ズタ袋に妹の体を詰めていってしまう――足に縋りついてそれだけはやめてくれと懇願したが、結局振り払われて扉は閉ざされた。
そして翌日、兵士がニヤニヤした表情を浮かべて扉の鍵を開けた。
「よぉ、聖女様。いいこと教えてやるよ。あんたの処刑日が決まった。これから大広場で火あぶりだとよ」
「やっぱり聖女様は天の御国に参られるのかねぇ」
「地獄だろぉ? なんたって、聖女の位を剥奪されたんだからなぁ!」
処刑と聞いても、心は然程動かなかった。
――私も死ぬ。両親やレイチェルと同じように死ぬのだと思っても、恐怖も悲しみも湧き出してはこない。
ただ私の内側に揺らめいているのは、怒りの炎だけだ。
神に。世界に。そして人々に。
私から家族を奪った――レイチェルを傷つけたものすべてに対する怒りが、体の内側に渦を巻いている。
「――殺すというのなら、殺せばいいわ」
「……なに?」
「最早私に、これ以上失うものはない。全てあなたたちに奪われたもの」
ゆらりとその場に立ち上がった私は、ゆっくりと一歩前に踏み出した。
兵士たちに連れられて、つい先ごろまで祈りを行っていた大広場に向かう――そこは既に、私を魔女と蔑む人々であふれかえっていた。
(あぁ、あの人……足は治ったのね。それとあの人は、病気の子どもがいて……)
誰も彼もが、私に怒号を浴びせかける。
魔女だの異端者だのという言葉は全て私の中を通り抜けて、意味もなく消えていった。
「私はすべてを憎む。神を、世界を、あなたたちを――燃え盛る炎が私の体を焼き尽くしても、この憎悪は決して消えはしないでしょう」
最後の告解――体を磔にされて最後に許しを請うその瞬間、私はそっと口を開いた。
――許さない。
業火が全身を舐める痛みを覚えながら、私の世界はそっと幕を下ろしたのだった。