5澱み
今日は、人生の中でも5本の指に入る最悪の日だ。
定時で上がり、後輩を連れ帰って夕食を摂っていた先月が嘘のようだ。
 『ほらほら観音坂ぁーズボン下ろせよぉ』
 先輩の言うことが聞けないのかぁ〜という声を遠くに感じながら、独歩はカチャカチャとベルトを外していた。
 (ええと……俺は何をしていたんだっけ)
 そうだ。
今日は金曜日だからって、社の合同の飲み会に参加させられていたんだった。
 『先輩様に、お前のモノ見せてみろよぉ』
 ギャハハとか、他部署の女性社員の、やだーとかいう声が聞こえる。
先輩?先輩ってこういうもんだったか?
泥酔して、女性社員の前で、後輩に一物を晒させるのが先輩の役割なのか?
 ——腹が立ってきた。
 「うわーん!」
 酔ったふりして尿でもかけてやろうか、と最後の砦に手をかけたところで、聴き慣れた声に手を止める。
 「酔っ払っちゃったよー!どっぽせんぱい〜おうちまで送ってってー!」
 えーん!と言いながら、陽葵がパンツ姿の独歩の背中に頭を押し付けた。
……まるで銃でも押し当てられているようだ。
 「ほらほら、ひなたちゃんはオレが送っていくよ♡うぐぅ」
 別の男性社員がその肩を抱くが、頭突きで返り討ちにされていた。
 「どっぽせんぱいじゃないとヤダぁ〜ぴえ〜ん!」
 結局、『君が!送るまで!暴れるのを!やめない!』と叫びながら暴れ狂う後輩と共に、ハゲ課長に追い出されたのであった。
陽葵は、珍しく腹を立てていた。
 「アンタ、馬鹿なんですか?」
 尊敬すべき先輩の尻を、膝で蹴り上げる。
 「う……面目無い。……ってかお前、ザルじゃなかったか?」
 ドスッ。
再び膝で蹴り上げると、先輩からぐえっと間抜けな音が聞こえてきた。
ピンヒールで踏み付けないのは、陽葵なりの労りだ。
丸まった背中に頭を押し付け、陽葵史上で一番長いため息を吐く。
 「誰のために、あんなみっともないことしたと思ってるんですか」
「う……すまん」
 丸い背中が、さらに丸く、小さくなる。
 「はぁ。仕方ない先輩ですね。折角タダ酒呑める機会だったのに……代わりに、奢ってくださいよ」
 いつもの様に項垂れる先輩の背中を撫で、顔を覗き込む。
 「……なんて顔してるんですか」
 目一杯涙を浮かべ、なんなら少し鼻水も出ている。
 (子ども……?)
 折角のイケメンが勿体無いですよ……言いかけて、止めた。
 「……何の騒ぎですかね、アレ」
 ちょうど、繁華街の一番目立つ位置。嬌声と人集りの騒めきが耳を貫く。
 「先輩……あそこって、もしかして……」
「……っ!一二三……!」
 いい終わらぬうちに駆け出す背中を、陽葵はピンヒールを脱ぎ捨てて追い掛けた。
今日は、この輝かしく素晴らしい人生の中で、最も最悪な日だ。
 「うふふ。もっとその顔を見せて頂戴」
 自分を指名した人物を、一二三はよく知っていた。
いや、忘れたくても忘れられない。忘れられるはずがない。
でも、何故此処へ?
完全に克服したわけではない。
だが、二度と遭うことがない……はずだったのに。
 「な、なんで此処に……なんで此処が……」
 後退り、店外へ出ようとする自分を、ゆっくりと確実に、その女は追い詰めてくる。スーツのジャケットなど、もう意味を為さなかった。
 「うふふ……こぉんなに有名なのに、どうして気付かれないと思っていたのかしら」
「……っ」
 徐々に間合いを詰めて来る。
膝が震え、腰が砕ける。
 「こ、来ないで……」
 騒つく店内や他の指名客、後輩ホスト達のことなど、もう眼中には無い。
きっと情けない顔をしているだろう。だが関係ない。
今の目標はただ一つ。
 ——この女から逃げること。
 「何処に行っても無駄よぉ」
 わざとらしくコツコツとヒールの踵を鳴らし、ゆっくりと着実に追い詰めてくる……久しく感じていなかった吐き気。先程まで喉を潤していたものが、喉元まで上がってくる。
 「く……そっ……」
 やっとの想いで外に出るが、靴のつま先をヒールの踵で踏み付けられる。
 「……ど……」
 声が出ない。
先程まで持て囃してくれていた客も、スタッフも、後輩も、誰も助けてくれない。
 ——絶望という言葉で、目の前が霞む。
 「ひふみ!」
「一二三さん!」
 聞き覚えのある声。
安心と希望と絶望、そして恐怖が綯交ぜになり、完全にブラックアウトした……
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