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その日の夕方。会社を退勤した私は、いつもの通り、まっすぐ帰宅する。
昼間のアリスの一件で、私は真帆との喧嘩のことなど、きれいさっぱり忘れ去っていた。
仕事中はなるべく考えないように努めていたけれど、気付くとアリスのことばかり考えている自分に、思わず溜息を漏らす。
果たしてアリスはいったい、何の目的であんな民家を訪れていたのか。
普段、いったいどこで何をしているのか。
そんなことばかりを考えながら、私はおじいちゃんに「ただいま」と声を掛けてから、表の古本屋を通り抜け、母屋へと向かう。
ガラスの引き戸に手をやると、今日は鍵が掛かっていた。
どうやら真帆も外へ出ているらしい。
あの子もあの子で、いったいどこで何をしているんだか――
クロは「仕事だ」と言っていたけれど、やはりにわかには信じがたかった。
私は小さく溜息を漏らし、鍵を開けると中に入る。
店の隅には、あの怪しげな、大きな背の高い時計がひっそりと佇んでいた。
確かに今日は動かしていないらしく、長針も短針も、もちろん秒針すら動いてはいなかった。
「いっそこのまま、二度と使えないようにぶっ壊してやろうかしら――」
なんてことを忌々しく思いながら呟き、ふとカウンターに目をやる。
そこには、何やらやたらと古めかしい感じの、小さな眼鏡が置かれていた。
昔の文豪とかが掛けていそうな、瓶底眼鏡だ。
「――なにこれ?」
店のカウンターにあるってことは、何か魔法の道具だとは思うんだけれど……
これはまた、何とも怪しい代物だ。
一見すると昭和よりもまだ古そうなデザインだけれど、よくよく見れば、汚れなどほとんどついておらず、比較的新しいのであろうことは明白だった。
ぱっと見では何に使う道具なのか全く想像もつかない。
「ふぅん……?」
私は特に深く考えず、その眼鏡を手に取ると、何となくかけてみる。
――うん、何の変哲もない、ただの眼鏡だ。
しかも、度すら入っていない、完全なるただのガラス。
もしかして、ただのファッショングラスか何かだろうか?
そう思っていると、がらりと後ろの引き戸が開く音がして、私は思わず振り向いた。
「――えっ」
そこには、アリスが立っていた。
昼間見たあの姿のまま、茫然と、私の顔を見つめている。
「ア、アリス? どど、どうしたの? 何か用事?」
昼間の件で、私は動揺しながらそう訊ねた。
アリスは「へ?」と口にして、
「あ、あぁ――!」
と何かに納得したようにぽんっと手を打つ。
それからおもむろににっこり微笑むと、
「――おねえちゃん、大好き!」
いきなりそう口にして、私にがっと抱き着いてきたのである。
「えっ、えっ、えっ?」
何が何やらさっぱりわからない。
確かに先週会った時、アリスが妹だったらよかったのに、とは口にした。
まさか、あれを覚えていて、そんなことを口にしたのだろうか?
う、嬉しいよ?
アリスにそんなふうに呼ばれると、確かにメチャクチャ嬉しいけど、でも、なんで突然?
何とも納得いかないまま、けれど私も抱き着かれて悪い気はしないので、思わずアリスの背中に腕を回して――
「……んん?」
物凄い違和感を覚えた。
今、眼にしているアリスの姿と、腕を回したその感触が、まったく一致しないのだ。
アリスの着ているふんわりしたブラウスを突き抜けるようにして、薄いニットのような布が私の手に触れる。
これは、いったい、どういうわけ?
私はその妙な違和感に、何となく覚えがあった。
これは、たぶん、いつもの如く、間違いなく―――
私はすぐさまアリスから手を離すと、かけていた瓶底眼鏡を外して、
「――やっぱり」
私の身体に抱き着く真帆に、大きく溜息を吐いた。
「……あらら、バレちゃいましたか」
ちぇっと真帆はわざとらしく舌打ちして、私から体を離す。
「何やってんのよ、あんた」
思わず呆れながら口にして、私は手にした瓶底眼鏡を矯めつ眇めつする。
「これ、なんなわけ? なんで真帆がアリスに見えたの?」
真帆はにこっと微笑むと、
「それですか? それは、おばあちゃんがその昔、魔法市で買った魔法の眼鏡ですよ。かけると、相手の顔が好きな人の顔に見えるそうです」
ほほう、好きな人の顔に見え――
「……なんだって?」
私は思わず、真帆の顔を見つめる。
体中が熱を帯び、汗が噴き出してくるのを感じながら。
「だ、か、ら!」
と真帆は、あの人を小馬鹿にしたような顔でぷぷっと笑い、
「相手の顔が、好きな人の顔に見えるんですって!」
え、ちょ、だ、それって――!
「おねえちゃん、やっぱりアリスさんのこと、好きだったんですね!」
その瞬間、私は思わず、瓶底眼鏡を床の上に叩きつけていた。
――パリンッ
砕けたレンズが、辺りに散らばる。
それを見て、大きく目を見開く真帆。
私はそんな真帆を、ぎっと睨みつけながら、
「――どういうつもり、真帆」
「えっ……」
普段は見せないような狼狽した様子で、真帆は口ごもった。
「もしかして、わざとこんなものをここに置いてたわけ? 私がかけるように」
「ち、違います!」
と真帆は激しく首を横に振り、
「これは、若いころのおじいちゃんが来たときに受け取ったものを、私が片づけ忘れて、ずっとここに置きっぱなしにしていただけで――!」
「じゃぁ、さっきのは何のつもりだったの?」
「……さっきの?」
首を傾げる真帆に、私は一歩前ににじり寄る。
「あんた、さっき私に抱き着いてきたよね?」
「あ、あれは、おねえちゃんが、私をアリスさんだと思ってたみたいだったから、つい――」
「ふざけるな!」
私は思わず、大声で叫んでいた。
腹立たしくて仕方がなかった。
これほど真帆を疎ましく思ったことはない。
ただ目の前に居るってだけで、ムカつく。
「ご、ごめんなさい……」
小さく謝る真帆を、けれど私はどうしても許す気にはなれなかった。
一刻も早くこの家から出て行きたくて、私は足早に引き戸の方へ向かう。
真帆とすれ違うその時、
「ほんっとサイテー。あんたなんて、大っ嫌い!」
私ははっきりと、そう口にした。