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「姉ちゃんはヒナだ」
それは宣言だ。
「……だ、だけど……」
ようやく反論する。
「でも、やっぱり無理よ!だって、どうしたらいいの?何にもわからないのに、どうすればいいの!!」
「俺たちは普通、ヒナと干渉しない。そういう決まりだから。だけど姉ちゃんは事情が違う」
彼はため息をついて鉄格子に背中を預けた。小さな男の子のため息は、聞いていて少し切なくなる。
「誰かが姉ちゃんから引き剥がした”影”を無理矢理狂わせている。ここは」
とんとフレディはブーツの爪先で床を蹴った。
「”影”のためのエサ場なんだ」
エサ場……。エサはヒト。
「こんなところに閉じ込めて、過剰に血を与え続ければ狂うのも無理ないよ」
可哀想にと、彼が呟く。その言葉は私に向けられたのか、それとも他の誰かに向けられたものなのかよく分からなかった。
「でも……どうしてそんなことするの?」
「さあね、わかんないよ。でも……」
ふとフレディは遠くを見つめる。
「焦っているのかな」
「焦ってる?」
「時間がない……そんなイメージ。無理してでも央魔がいる……」
「…………」
言葉を返せないでいると、彼は決然とした表情で振り返った。まっすぐな視線に、思わずすくむ。
「もうたくさんの人が死んだ。これ以上の犠牲は許されない。今、ここには俺一人で来てる。偵察だけのつもりだったから。でも仲間に連絡を取れば、上に指示を仰がさるを得ない。そうすれば多分、命令が下る。本体と影の融合を待たずに滅せよと」
「私を……殺すの!?」
声が掠れた。
フレディはリズを躊躇いなく撃った。必要とあれば、この子は私だって撃つだろうーー。思わず身を引いた私の足を引き留めて、自分の両腕を強く揺さぶる。
「でも、俺は姉ちゃんを殺したくない!!だから”影”を屈服させるって約束して!じゃないと……」
「そんな、そんなこと言われても!!」
激しく首を横に振った。困る、困る、困る!だってどうしたいいかわからないものを、どうやったらどうにかできる?何一つ、わからないのに!
「たす……けて」
言葉が溢れた。
「お願い……フレディなら!お母さんを、私を助けて!」
けれど彼は静かに、でもきっぱりと首を横に振る。そんな……どうして……。
「俺は何もしてあげられない。これは姉ちゃんにしか決着のつけられないことなんだ」
腕を掴んだ手に、きゅっと力が込められた。小さくて熱い手。優しいのに、縋ることを許してくれない手。
「急いで。もし姉ちゃんの母ちゃんが本当にここにいるとしたら……残された時間はほんのわずかだ」
「!」
お母さん!そうだ、お母さんが!でも……だってどうしたら!焦りと恐怖で混乱する。考えなきゃいけないのに、考えられない。ああ、誰か。助けて。助けてください。
胸の中の悲痛な声に応じてくれる人は、どこにもいない。その思いを声にして、再び目の前の少年に泣きつきそうになるのを我慢することが私にできる精一杯。言葉を返せない私から、ゆっくり離れた。ドアに手をかけて、振り返らずに言う。
「迷ってる間にも、誰かか犠牲になっているかもしれない。それを忘れないで……」
フレディが出て行ってしまい、しばらくその場に立ち尽くしていた。
ここは断罪の間。柵の内扉は、ひしゃげたままになっている。暗がりに目を凝らして見たが、お母さんの痕跡は見つからなかった。
「…………」
東の扉をくぐって牢獄道だ。牢の中も見たが、人がいた痕跡は見当たらない。お母さん……。目を閉じれば、囚人の呻き声が聞こえてきそうだ。
一階の人柱の部屋に入る。人柱を一つずつ見て回る。…………。見覚えのある人柱が増えた様子はない。死体にも気配があるのだと、肌まで感じる。
地下一階の酒樽の間だ。相変わらず、すごい臭い……。もしこの樽の中が全て血だとしたら、一体どれだけの人が……。あまり深く考えるのはよそう。なんだか以前より、甘い匂いが強くなっている気がする。
まっすぐ進むと、地下の池の西側だ。岸は乾いているし、人がいた形跡はない。水の中にも落ちていないようだ。水が澄んでいてよかった。濁った沼なら、こんな簡単に確かめられないもの。澄み切った水は、美しさよりも異様さを感じる。見かけは美しくても、きっとこの水では魚が生きていけないだろう。
「!」
二階の鳥籠の間に足を踏み入れた時、私は立ちすくんだ。昨日まで空っぽだった鳥籠の中に、私の”影”がいる。けれど今日の『私』は笑うこともなく、襲いかかることもない。ただ檻の中で、動物のように丸まっていた。
「…………」
寝ている……の?恐る恐る檻に近づく。
呼吸しているかどうか、ここからでは確認できない。時折瞼がぴくぴくと動くのは分かった。やっぱりよく眠っているみたい。けれど、その横顔は苦しそうだ。
お化けでも自分と同じ顔をしたものが苦しそうにしているのは、不思議と少しやりきれない気分になる。あんなに恐ろしいお化けなのに?……そうね。今日は赤い目を閉じているから、落ち着いて見ていられるのかもしれない。嫌な夢を見ているの?私の悪夢はあなたなのに、あなたにも悪い夢があるの?私は……。私たちは……。ああ、だめ。
鼻と口を両手で覆った。やっぱりこの部屋のお香は嫌い。部屋には、昨日までと同じく甘ったるい匂いが充満している。眩暈がする。……今はよく寝ているが、いつお化けが起きるか分からない。
もしかしたら彼女もこのお香の匂いが苦手なのかも。眠いような、体がだるくなるような、気がする。こんな部屋、早く出よう……。そっと檻を離れた。
階段を上って、三階の忘却の間だ。床と壁には大量の血が飛び散っている。リズの血。ここは彼女が死んだ場所。
「…………」
ゆっくりと目を閉じた。意識的に現実から目を背ける。今はお母さんを探さなきゃ。泣き喚いて悲しみに暮れるのは、その後でいい……。窓から漏れる月明かりが部屋を照らしている。
ドアを開けて、空にかかる渡り廊下へ出た。大きくくり抜かれた窓からは、今夜も湿った風が通り抜けていく。北側の窓の外には、湖が広がる。その向こう、黒い林の中に霞むように懐かしい我が家が見えた。直線距離にしたら大して離れていないはずのに、ひどく遠く懐かしい。もう二度とあそこには帰れないような。
「…………」
ダメダメ。
嫌な想像を振り払い、頭を振って反対側の窓へ目を向けた。そこからは中庭が見渡せる。中庭を見下ろした私は、その風景に目をとめた。中庭を誰かが歩いている。その腕に誰かを抱えて、体を揺らしながら。
「お母さん!?」
冥使の腕に抱えられていたのは、お母さんだった。気を失っているのか、ぐったりと動かない。
「お母さんッ!!」
窓から身を乗り出して絶叫した。でも、冥使もお母さんも反応を返す事はなく、回廊の中へ入っていく。……追いかけなきゃ!のんびり辺りを見渡してる場合じゃないわ。二人が遠くに行っちゃう前に中庭へ降りなきゃ!!
階段を駆け下りて、二階の鳥籠の間に飛び込んだ瞬間息が止まった。檻の中の『私』がーー”影”が起きている。