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下品な明るさで夜を染めるネオン街の一角。柴は火をつけた煙草を咥えながら、錆臭い路地裏へ続く道を一人歩いていた。背後では頭からつま先までアルコールに浸った群衆が上げる下卑た笑い声や怒号、泣き声が耳障りなオーケストラを演じている。
三歩歩けば面倒事に遭遇する夜の東京を柴が歩いていたのは、ある噂を確かめるためだった。
──人喰い金魚が夜の街を泳いでいる。
そんな一見馬鹿げた、そしてよくある都市伝説のような噂話を偶然入ったバーで耳にした時、柴はグラスを傾ける手を震わせた。あの日から3年が過ぎた今、探し焦がれていた情報を見つけた衝撃と、その話の不穏さに動揺したためだ。
「なぁあんたら。今の話ほんまか」
「あぁ?なんだおめぇ、こんな法螺話に興味あんのか」
「あんた魚屋かなんかか?金魚捕まえようったって、殺されるのがオチだぜ」
表情を殺した柴とは対照的に、赤くなった顔で唾を飛ばして笑う4、5人の男たちの手元に勢いよく札束を叩きつけると、柴は無言でその机の空いていた席に腰を下ろした。その勢いに気圧された男達は思わずといったようにジョッキを下ろすと、幾分落ち着いた声で柴に語り始める。
「最近よく人が死ぬんだよ」
「毎日人が死ぬなんてここらじゃ珍しいわけじゃねぇが、その死に方がひでぇのなんの」
「すっぱり首切られて壁まで血飛沫がとんでんだと。……それでたまたまその場に居合わせた奴がいたらしくてよ、そいつが言うには首を切られる瞬間赤い金魚が見えたらしい。まあおっかなくなってすぐ逃げたらしいが」
「俺は黒だって聞いたぞ」
「見たって奴は結構いるんだよ。赤だの黒だの錦だの、それこそ魚屋みてえな話だ」
「だから人喰い金魚だよ。そいつが現れると人が死んでくからな」
男達が演技じみた口調でその金魚のことを話していくほど、柴の予想は核心へと変わっていった。首をすっぱり、つまり刃物で首を飛ばされたということだろう。そしてなにより3匹の金魚の話。
──淵天だ。
六平から聞いた彼の最期の妖刀の特徴と話が一致する。淵天を眺めながらその話をしていた六平の顔が浮かぶ。そしてその横にいたあの子のことも。
「……ほーん、なるほどな。なら、その人喰い金魚飼っとる人間のことは知らんか?性別は男か?」
「さぁ、そこまでは知らねぇな。……しかし兄ちゃん、こんな信憑性も何もねぇ話が気になるんで?」
「まさか本当に魚屋でも始めるつもりか?」
「馬鹿野郎!そんなわけねぇだろ、黙ってろ酔っ払い」
「あ?俺ぁ酔ってねぇよ」
真剣な話に飽きたのか再び騒ぎ出したのを見て、これ以上話を聞くのは無理だと柴はその場を立とうとした。しかし、向かい側に座っていた髭面の男が物言いたげにこちらを見ていることに気がついて、柴は眉を寄せた。
「なんや親父、言いたいことあるんか」
「いや?俺は別にどっちでもいいが、あんたが聞きたいなら聞かせてやろうと思ってな。殺された野郎共の話さ」
「……」
机に散らかされたアラカルトを摘んでニヤニヤと楽しげに見上げてくる男に、さらに札束を投げつける。すると豪快に笑った男は、胸元からシガレットケース程の大きさの何かを取り出し柴に見せつけた。なるほど合点がいった。
「ヤクの売人か?」
「いや? 大抵はシマ荒らしたチンピラだとよ。何ヶ月か前に随分これ巡って好き勝手してた知り合いもつい最近お陀仏したって話だ」
つまり、人喰い金魚は薬の売買に関わる組織の人間。それなら話は早い。金魚を誘き寄せるための餌はそこら中に転がっているのと同義だった。
「助かったわ。……あんたら、それ買うんなら早めに買い溜めしといた方がええよ」
今度こそ立ち上がると、柴は振り向きざまにそう言い残してバーを出た。
向かう先はこの辺りを仕切る組織の拠点。月明かりのない汚れた夜を柴は一人歩き出した。
──3年前、隠されていたはずの六平家が襲撃されたあの日に奪われたものは妖刀六本だけではない。柴が結界の崩壊を感知し、そこに駆けつけた時、六平国重の愛息子チヒロの姿はどこにもなかった。
この世界において人間の血肉は妖術的に大きな意味を持つ。特に、異質な体質を持つ人間の体液や細胞を目当てに人身売買が横行するケースは後を絶たない。神奈備の主要な仕事の一つがその現場の取り締まりであることからも、現状の悲惨さが想像できるだろう。
妖刀を作り出すという人智を超えた偉業を成し遂げた六平の息子に、毘灼が生物的価値を見出し、連れ去ったとついに神奈備は結論づけた。
六平チヒロの消息不明から3年間、柴は一人霞ほどもない手がかりを辿り彼を探し続けている。
少し昔を思い出して思考に耽る柴は、人通りがある所をわざと避けて細い路地へ路地へと歩いていた。
周囲を照らす街頭など既になくなり、ただ街の光を反射した灰色の空が柴の頭上を覆っている。夜目の効く柴は足元に転がった何の骨かも分からない物体を避けては、さらに深くへと足を進めた。そこでふと、足を止める。
視界の端を一瞬何かが過った。ひらひらとした何かが宙を浮いている。それにつられて、少し視線を横に動かした時目に入ったのは──あかい、金魚。
刹那。
突然現れた鋭い閃光が鼻先を掠った。
踏みとどまった柴はそのまま高く跳躍すると、その後を追ってきた影に目を凝らす。確実に首を掻っ切ろうとする正確な太刀筋で闇夜を狙った急襲。月明かりもない闇の中で鈍く光る刃は一切の躊躇いもなく、何度も柴に振り下ろされた。残酷なまでに命を刈り取るための動きだった。
随分と場数を踏んでいるのだろう。空中戦というイレギュラーにもよく対応している。並大抵のもは敵わないと直感できるほど訓練された動きだった。──そう、並大抵のものならば。
柴は襲撃者がの片手が脇差しに伸びた瞬間、一気に距離を詰めると未だ刀を握る両手をいとも簡単に素手でひねり上げた。そして、
「っ、チヒロくん!!」
光の灯らない赤色の瞳を覗き込んで、そう声を張り上げた。やっと見つけた、探し求めたこの子の手は記憶より随分と冷たかった。
「チヒロくん、っほんまに、今までどこおったんや! ずっと探しとって、六平もあんな……!」
思わず溢れた感情に言葉をつまらせながら、柴は至近距離でチヒロに訴えかけた。酒場で噂を聞いてから押さえつけていた激情がドクドクと胸の中から溢れだしてくる。耳元に心臓があるのかというほど激しい鼓動が柴の体を震わせた。
しかし、柴の呼び掛けどころか柴の顔を見てさえチヒロの表情はピクリとも動かなかった。両手を掴まれたまま落下する現状からどうにか抜け出そうと、下手くそに体を捩るだけでその表情に色は灯らない。それどころか柴に向けた殺気は先程よりも濃く、鋭くなっていき、その瞳は目の前の男を殺すことしか見えていなかった。
チヒロが浮べる、こめかみに筋が浮くほど固く奥歯を噛み締めて強ばる表情を、柴はよく知っていた。戦場で幾度も見た顔だ。他人を殺しにかかる時、のしかかる全ての重圧と自身を蝕む罪悪感を振り払おうとする人間の顔にそっくりだった。それはつまり、まだ人間を辞めていない証。柴が失った表情の一つだった。
だからまだ、希望はある。
「チヒロくん頼むから俺と一緒に来てくれ! まだ間に合う、何があっても俺が守るからだから……!」
「っ、さっきから一体何の話をしているんだ!」
自身の抵抗をものともしない柴に痺れを切らしたチヒロが声を荒らげた。
「2日前、この街のドラッグを取り仕切っていた組織が壊滅したのは知っているな? 俺はその犯人、お前を殺すためにここに来た。なのになんだ、さっきから誰の話をしている? 俺はお前を知らない。見たことも、ないのに」
必死にチヒロと目を合わせ、届けと心から願って話す柴の言葉にチヒロの瞳が僅かに揺れる。
知らない、その一言に底知れない絶望感が柴の中に広がったが、それでもチヒロの生白い手を離す訳には行かなかった。
「……知っとる、知っとるよ。俺は君のことを知っとる。ずっと君を探してた。もう大丈夫や、こんなことせんでいい。一緒に帰ろう、チヒロくん」
チヒロの耳元で幼子に言い聞かせるように言葉を区切って囁くと、ふと抵抗の力が弱まる。その落ち着きを見て、柴はチヒロと共に軽やかに着地すると両肩に手を置いて再び瞳を合わせた。警戒心を全身に纏わせながらも、どこか迷うように柴を見つめ返すチヒロの姿は、頼るあてのない傷ついた野良猫のようだ。
何かを言おうとして、言葉が出てこないのか口をはくはくと動かすチヒロを待つ間、柴は3年で様変わりしたチヒロの姿を見つめていた。
記憶よりも目線が近く、彼の成長していく姿をずっと見つめていけると、そう信じていたあの頃が思い出になってしまってから随分と時間が経ったことを嫌でも自覚する。
「……あなたは」
まだ迷いが消えない顔でチヒロはぽつりと言葉をこぼす。
「どうして俺の名前を知っている……? 俺をその名前で呼ぶ人間は、もう誰もいないはずだ」
「……俺は、チヒロくんが生まれた時からずっと君を見てきた。本当に、ずっと。覚えてない、かもしれへんけど」
「……」
「……3年前、君がいなくなってからは正直生きた心地がせんかったよ」
「……3年前?」
何かが引っかかったのか、チヒロは顔を上げ怪訝そうに柴の顔を覗き込んだ。いつの間にかチヒロの首元には寄り添うように3匹の金魚が空を漂っている。
「父さんが、死んだのは15年前のは、ず」
「な……」
今度は柴が絶句する番だった。チヒロが柴を知らないと言った時点で、何らかの妖術をかけられていることは検討がついていた。だからこそ降り立った瞬間、チヒロに気付かれないうちに解呪の術をかけてみたものの、チヒロの表情は晴れない。なるほど、想像以上に手強い人間がこの子の後ろにいるようだ。
「……君は記憶を操られとる。3年前、君のお父さん、六平国重が毘灼に殺された時そいつらに連れ去られたんや」
その瞬間チヒロは伏し目がちな瞳を大きく見開いたかと思うと、青白い顔を更に青くさせ眉間に皺を寄せた。柴にまで伝わってくるほど震える体に思わず柴はチヒロを抱きしめようとしたが、逆に軽い衝撃と共にチヒロは柴から距離をとった。
「毘灼……? 毘灼が、父さんを殺した……?」
「こんな嘘なんかつかんよ。君のお父さんは、毘灼に……っ、まさか」
二人の間を生ぬるい風が走り去った。
あまりの動揺っぷりに違和感を覚えた柴は、わなわなと震える体を自身で掻き抱いたチヒロの右手に目を落とし、言葉を失った。
チヒロの手の甲にくっきりと刻まれた独特な紋様。三日月が二つ重ねられたようなそれは──。
「チヒロくん、いま、誰と、一緒におるんや」
チヒロを刺激しないようゆっくりと尋ねる柴の声はもうチヒロには届いていなかった。
「……知らない、分からない……何も、わからない……!」
駆け寄ろうとした柴を拒絶するように頭を左右に振るチヒロは、息を荒らげて絶え絶えに言葉を漏らす。
「俺は何も覚えてない……! なんで父さんが死んだのか、なんでここにいるのか、っあぁ……!」
地上の空気に溺れるように苦しげな顔をするチヒロが急に頭を抑え、その場にうずくまった。その姿についに柴が駆け寄ると、混乱しているのかチヒロが柴のシャツに縋りつき言葉にならない呻き声をあげる。
「大丈夫、大丈夫やから。ゆっくり息吐きな」
「っぁ、……ぅ、はーっ……」
指先が白むほど固く手を握りこんで深呼吸するチヒロを柴は割れ物のように優しく撫でた。シワになったシャツを気にもせず、ただ一心にチヒロの背中を摩る。
すると、未だ呼吸が整わないチヒロの周りを心配そうに舞っていた金魚たちが唐突に弾けたように空中へと霧散した。先程まで片時もチヒロの傍を離れようとしなかったのに、何故──。
瞬間柴の全身を刺したのは、光の届かない水底のような冷たく鋭利な殺気。柴の背に嫌な汗が伝う。戦場ですら感じたことの無いほど重たくどす黒いそれに、一気に緊張が走った。
「っ、くそ」
一瞬の静寂の後、轟音と共に地面が割れ隙間から出てきた太い松の幹が柴に牙を向いた。鋭く尖った幹の先端が柴の頬を掠る。傷口から僅かに血液を滲ませながら、しかし柴は空中で体をひねり松の猛撃を軽々と躱す。避けた先にあるのは袋小路の細い路地で、すぐさま松は柴へ向かってくる。だがその追撃の前から音もなく姿を消した。
そして次の瞬間には柴は空中に姿を現した。
妖術で空中に移動した柴に気付いたのか、再び今度は束になって松は落下し始める柴に迫った。逆さになって落ちる柴の鼻先に松が届く、その直前。周辺ビルの窓ガラスが割れ、空気が振動するほど大きな衝撃波がその場を襲った。
「…………」
バラバラと音を立てて崩れ落ちる松を浴びながら、表情を消した柴が地上に降り立つ。その眼前には、糸が切れたように眠るチヒロとそれを横抱きにする黒い長身の男。
ひと目でわかる。あの殺気の主がこの目の前の男だと。
両者はただ無垢の子を挟み立ち尽くすだけで一歩も動けない。
否、動けないのではなく、動かないのだ。互いが本気でやり合えば街のいくつかが更地になるだけでは済まないことを、直感的に理解していたからこその選択だった。
「…………なかなか少々、刺激が強すぎたかな」
その沈黙を破ったのは眼前の男の方だった。
低く、肌を撫でるような声が柴の体を這う。その不快さに眉を潜めた柴もまた口を開いた。
「……一体なんのつもりや」
「……特に、深い意味はない。この子にもそろそろ経験を積む機会があってもいいだろう」
「……その子を使って何を企んどる。記憶まで操作して、何をさせるつもりや」
この状況でも笑みを浮かべた口元を隠そうとしない男は、柴の地を這うような声にすら肩を竦めておどけてみせる。掴みどころのない亡霊のような男を前に柴は僅かに重心を落とした。
「……直に、面白いものが見られる」
「なに?」
「支配人と料理人が異なる店で出したフルコースは誰のものになると思う?」
「……」
唐突に脈絡のない話を紡ぐ男は肩口に力なく項垂れかかるチヒロの額に唇を寄せる。肌に触れるか否かの距離で動きを止めると、視線を柴に流し愉悦に浸るように切れ長の目を歪ませた。
「仮にそこで出される料理がその料理人にしか作れないものだとしよう。だが支配人は別の人間。だとすれば料理をいつ、誰に出すかの自由は支配人の側にある、そうだろう」
「…………その子に妖刀握らせて、お前が操ろうとでも言うんか」
男の回りくどい与太話を切り伏せ柴は無理やり話を戻した。しかし男は射殺すような柴の目線をものともせず、死んだように目を伏せるチヒロを愛おしげに覗き込んだ。
「つれないな。……まあいい。柴登吾、お前とは再び会う時が来るだろう。だがその時には六平国重と同じところに送ってやる。奴が遺した全てで朽ち果てるならお前も本望だろう」
「何をふざけたことを……!」
あからさまな物言いに柴が一歩踏み出そうとした瞬間、手印を結んだ男の体は燃え塵となって消えてゆく。抱き抱えられているチヒロにも男の手から炎が伝わり、体が欠け始めた。男は未だ笑みを崩さずゆったりと炎に巻かれていく。
反射的に伸ばした柴の手はチヒロを掠める直前、二人の姿は燃え尽き空を切った。
「っ……」
その勢いのまま拳を地面に叩きつけた柴は、叫び出しそうになる声を必死に噛み殺した。
厚い雲が途切れた途端に顔を出した月が、柴の背中を晒すように照らしあげる。鈍い光を浴びながら柴はその場を動かなかった。
毘灼の目的も、あの男の意思も何もかもが柴を蝕んでいく。あの男の物言いは、柴が想定する最悪をなぞるようなもので。
神奈備の歴史上最強の男は、無力感に苛まれながら重たい体を立ち上がらせ、胸元から取り出した携帯を口元に当てる。
静寂の中、微かな電子音だけがその場に響いた。
「……薊、今すぐ頼みたいことがあるんやけど」
凪いだ声で旧友の名を口にして一歩踏み出した次の瞬間、柴の姿は跡形もなく消え失せた。
怖いもの知らずの野良犬がどこかで遠吠えを上げる夜には、人喰いの金魚を探し求める物好きな男が現れる。
そんな真しやかに囁かれる噂の真実は如何に──。
柴が悪態をついたのと同時に地面から湧き出した松の衝撃で、チヒロは背中を地面に打ち付けた。いまだ痛む頭を片手で支え上体を起き上がらせる。そして目の前で起こったことを何とか理解しようとしたのもつかの間。
「千ちぎり」
「ぁ……」
柔らかいバリトンの声がチヒロの鼓膜を震わせた。途端にそれまでが嘘のように全ての不快感が消え、戸惑いで揺れていた真朱の瞳がどろりと溶ける。
ゆっくりと振り返ればそこには、
「……ゆら」
恍惚とも言える表情を浮かべ、チヒロを見下ろす男──幽が立っていた。
「悪い夢を、見ているようだな」
「……あの人は、」
「お前が気にするようなことじゃない。疲れただろう、ゆっくり休むといい」
そう言って幽は氷のように冷たい掌をチヒロの目元に当て、その視界を覆った。幽の肌が触れた部分からじんわりと頭の中に何かが広がっていくような感覚に肩をびくつかせるも、チヒロの意識には段々と霧がかかり始める。
幽の手に触れる度感じるこの感覚は、まるでぬるま湯の海に浮かんでいるようだ。先の男との会話で頭をかすめたどこかの景色も、死んだ魚が水底に沈むように意識の深い所へ沈んでは消えていく。
「おやすみ千。全て忘れて楽になるといい」
幽が発した言葉を理解するまもなく、チヒロの意識も深い底へと沈んで行った。
最後に過るのはあの金髪の男。
いつかまた会えるのならば、あなたの名前を──。