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350
BADEND
MERRYBADEND
死
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人生で初めて赤信号で止まった。
別に今まで信号無視をしていたわけではない、ただ俺が通る時は必ず青信号だっただけだ。
赤い信号が何だか新鮮で、今までの運を使い果たしたような感覚で。
意味もなく周りも見渡した。信号の待ち時間をどう過ごすのかが分からなかったから。
肌寒い秋の空気が心地いい。最初はこの空気を味わう為に信号が止まったのだと思ったが、それが違うことはすぐに理解した。
隣には美しい人が居た。スラッと長い手足、深く被ったフードとその隙間から出ている少し長い髪、まるで漫画に出てくる登場人物のような立ち姿に惹かれてしまう。顔は見えなかったけど、絶対にかっこいいという自信があった。
きっとこの人を見つけるために神様が信号を赤にしたのだと思った。
でも話しかけるなんてことはしない、俺から行動しなくてもいいと思ったからだ。いざ話しかけて失敗するのが怖い、とかではない、決してない。
凡そ50秒の待ち時間が一瞬のように感じた。
次の日もまた赤信号で止まった。きっと昨日の人が居るのだろうと、期待で胸を膨らまして周囲を見渡す。挙動不審な程に周囲を見渡したが居なかった。正直ガッカリだ、絶対に居ると思ったのに。
そのまま何事もなく青信号になる。周りが歩くと同時に歩き始めると、後ろから肩を叩かれた。
『…落としましたよ』
振り返る前に声が聞こえた。何故か確信した、昨日の彼だと。振り返り目を合わせると案の定そうだった。昨日と同じ服と長い茶髪高い身長の彼。やっぱり神様は俺の事を愛している。
「ありがとうございます」
落し物には目もくれず彼の顔だけをまじまじと見つめる。鼻周りから頬にかけてにあるそばかす。長い髪は一つくくりで前に持ってきており、鎖骨の下まである。瞳は小さめだが黄緑色で存在感があり、それなのにどこか死体のように感じてしまう。瞳が死体のようだなんて意味がわからないだろう、でも実際そうなのだ。鼻は高く堀が少し深い、ハーフか外国人なのかもと思う。今まで見たどの人類よりもかっこよかった。様々な特徴がある中でも特に歯に目が行った。ギザギザでまるでワニのような歯、噛まれたら一溜りもないだろう。どういう原理なのだろうか、生まれつきなのか、それとも自分で削ったのだろうか。本当に外国人でその地の文化なのだとしたら面白そうだ。
落し物を受け取ることなく少しの間見つめていた。周囲の人が小走りになった、青信号が点滅しているのだろう。早く赤信号になって欲しい、彼を見る為の時間が欲しいから。
ただ無言で財布を出される。あ、財布を拾ってくれたのか、盗むことも出来たのに態々教えてくれるなんて優しい。
「ありがとう…ございます」
この時間が終わるのが惜しくて、何かしらアクションをしないといけない気がしてきて、意味もなく自語りをしてみることにした。
「俺貧乏で…これ落としてたら死んでました、ありがとうございます」
一応言っておくと決して貧乏ではない、寧ろ生活には余裕がある。でもこんな平凡で何の特徴もない俺は嘘以外で語れることがないのだ。
『それは良かった』
初めて見る笑顔の形だった。ただ文章でも顔文字でも表現できない形だった。
「俺ロボロって言います、よければお礼に食事でも」
『お気になさらずに、お気持ちだけ受け取っておきます』
迷う間もなく断られる。少しショックだが、この位で諦めるロボロ様ではない。
「じゃあせめて連絡先だけでも。俺ロボロっていいます、何か困った事があったらいつでもかけてきてください」
ポケットからペンと適当なレシートを取り出し、自分の連絡先を書いた。 多少ナンパのようにはなってしまったがこれなら断れないだろう。
『あぁ…あ、俺はゾムって言います。それじゃあ、ありがとうございます』
ゾムさんか。俺が言うのもなんだが珍しい名前だ。ゾム…ゾム、ゾム。大切に心の宝箱にしまった。
『それじゃあまた』
青信号になったことを確認し、俺の前を小走りで行ってしまう。
ゾムの後ろ姿を見送り、スマホの通知をオンにした。
次の日も、その次の日もそのまた次の日も信号は青だった。
約一ヶ月後、一つの電話がかかってきた。
連絡を取り合うような関係性の人なんて一人もいない俺は、誰からなのかを見るよりも先に電話に出た。
『ぁ、お久しぶりです』
以前聞いた声よりも大分弱々しい声、それでも確実にゾムの周波数だった。
「お久しぶりです!何かありましたか?」
一ヶ月も待ったのだから、!が付く強弱で喜んでもいいだろう。
『実は』
ポツリポツリと話し始めた内容は、簡潔に言えばお金が無いから貸してほしいというもの。今月の食にも困るというものだからとりあえず食事に行かないかと誘った。下心がないと言えば嘘になるが、助けたいというのは本望だ。
『ありがとうございます』
次の休日に食事に行く約束を取り付けた。住所を聞き出し互いの家の中間地点のカフェへ13時に、その約束がこの先の運命を変える決定打な気がしてワクワクした。
集合の一時間前に来た、流石に早すぎたかもしれないと近くのベンチに座ると、緑色のフードが見えた気がする。
『こんにちは、』
目の前に来て手を振った彼は以前見た時よりも窶れた人相で少しばかりショックを受ける。決して、変わった彼にショックを受けたわけではない。彼が変わる要因が分からないのがショックなのだ。
「こんにちは、早いですね」
『はい…楽しみで』
俺と会うのが楽しみだったのか、食事とお金を貰えるのが楽しみだったのか、それは聞かないでおこう。
カフェへの移動途中、敬語からタメ口へ、さん付けから呼び捨てへと昇格した。
「ホンマに…彼奴マジで死んだ方がマシやわ」
『www』
お互いに趣味が合ったこともあり、数時間も経てば気づけば友達。殆ど初対面の人間とは思えない空気感だ。
今はアニメの話で盛り上がっている。このヒロインが可愛いだとか、あの敵役がクソだとか。趣味が良く合うだけでなく、ゾムの好きな物の大半はここ数ヶ月で俺がハマったものばかりだった。お陰で記憶も鮮明な状態なので話も盛り上がる、本当に運命としか言いようがない。
話も一区切り付き、お互いに水を飲んで落ち着いた。笑い疲れたとでも言うような笑顔で少しだけ呼吸を荒くしたゾム。余程体力がないのかその疲れ具合は普通ではなかった。
「話は変わるんやけど、いくら位欲しい?」
唐突な質問に戸惑いながらも考える素振り、まるで何円までなら支援してくれるだろうかと考えているように見えなくもない。10万?100万?何に使うのかは分からないが、ゾムにならいくらでもあげてもいいと思った、それほどまでの価値がある存在だと思ったから。
『5000円くらい…』
想像の何倍も少ない値。5000円なら態々貰わなくても一日あれば稼げるだろうに、本当に何に使うのか検討もつかない。
「遠慮しとる?俺そんな金持って無さそうかなー」
被害妄想が過ぎるが、俺自身に価値がつけられたように感じた。
『…………』
ゾムは何も言わなくなってしまった。何か気に障ることを言っただろうかとも思ったが、思い返してみても互いに非はない。ただ黙りたいから黙る、そんな感じの沈黙に思えた。
一、十、百、千、万、十万円。ゾムは十万円を借りて帰っていった。あげるつもりで渡したのだが流石にそれは申しわけないから三ヶ月以内には返すと言って、何度も何度も頭を下げて帰っていった。正直解釈違いすぎるけどフィルターのかかった脳内では全て良いように変換してしまう。
それから暫く経った。三ヶ月と三日位だろうか、スマホの通知音は付けたままだ。今日か明日かとゾムからの連絡を待ちわびている。もしかしてもう来ないのだろうか、お金を返したくないからか、返せないからか。
その日は久しぶりに赤信号で止まった。
勿論そこにはゾムが居た。大きな身体を少し縮めて、大きな手と指を弱々しく曲げて、まるで俺を子供扱いしているようでほんの少しだけ腹が立つ。
『久しぶり、ロボロ』
しかしその苛立ちは名前を覚えてくれていたという事実で飛んで行った。自分でも単純だと思う。
「久しぶり!また会えるとは思っとらんかったわ」
本当にまた会えるなんて思ってもみなかった。このまま音信不通になって、俺の事なんて忘れて逃げられると思ったから。
適当な相槌を打たれ、どうして連絡がなかったのかとかは聞けなかった。
互いに急ぎの用もないということで、近くのベンチに座った。少し待っててと言い近くの自動販売機まで小走りで走ったかと思えば、缶珈琲を二本持って帰ってきた。
「ありがとさん」
海外から仕入れた本場のものよりも、話題の珈琲屋のマスターがブレンドしたものよりも、今まで飲んだどの珈琲よりも 美味しかった。次からはこの珈琲を飲もうと思ったが、次も美味しいかは今日の俺の行動次第だろう。
結局、次に飲んだ珈琲は相変わらず美味しかった。ビターで大人な、それでいてコクを感じる深い味。ゾムは日常で感じることの少ない苦味を、新鮮な気持ちで楽しんでいるようだった。
『やっぱこの珈琲美味いな』
何だか珈琲が羨ましく感じる。俺もゾムに飲んでもらいたい。
「やっぱこれが一番よな」
缶珈琲を持っていないゾムの左手にさり気なく触れた。あぁごめん、なんてわざとらしく謝ったけど、ゾムは何も気にする様子がない。ゾムと居る時だけ俺は左利きになる。
『ロボロ…』
「なに?」
『ロボロってさ、俺の事好きよな』
まるで口の中から心臓が出てきたのかと錯覚するほどに驚いた。心音が煩い、ゾムに聞こえてないだろうかと心配になり、心臓以外の音を出そうとしても回答が見つからない。
「……バレた?」
兎に角焦っているとバレたくなくて、恥ずかしくて、格好つけるフリをした。
『バレバレやで、今も。…ほら』
胸元に手を当てられる。先程まで暖かい缶珈琲を持っていた手の暖かさを服越しに感じる。心音が速いのは寒いせいだ、急に暖かいゾムに触れられたせいだ。そう言おうともした。人生で鳴らす心音を今ここで使い果たしてしまいそうなほどに速いく煩い。これは違うんだと、言い訳の仕様が無いほどに。そう気づいて何も言えなかった。
『……何か言ってや、恥ずかしいやん』
寒さのせいか、この状況のせいか。鼻先と頬を赤くして、ゾムから出た空気が水蒸気になって目に見える。照れくさそうに笑うその笑顔が世界一可愛くてかっこいい。缶珈琲の中身が残っているかとかそんなことを気にする間もなく、ゾムの暖かくて冷たい両手を握った。
「…結婚してくれ」
好きでも付き合ってくれでもなく結婚してくれ。自分でも飛びすぎたのは分かっている。ただ焦りで沈着な判断が取れる状態じゃなかったんだ。そう、仕方がないことなんだ。 ゾムの前では冷静な男で在りたかったのに、かっこいい余裕のある男で在りたかったのに。
目を瞑って下を向いて、現実的に考えて。
男同士で結婚出来るわけないとか、そもそもゾムが俺の事を好きな確証なんてないとか、冷静に考えて今の俺めちゃくちゃ恥ずかしくないかとか、1つ考えるとどんどん想像してしまう。涙が出そうになった。羞恥心と後悔からだ。その間ゾムは何も言ってくれない。どんな顔してるのかが気になって、それでも上を向けずにいる。
『あの、俺……』
『俺もロボロのこと好きやから、まずは付き合いたい』
その一言でようやく上を向けた。この表情はなんだろう。申し訳なさそうな、嬉しそうな、後ろめたそうな表情。それでも互いに思いあっている事実が嬉しくて、気付かないふりをした。
恋人なんて人生で初めてできたから、デートもキスも手を繋ぐことすら初めてで、時にはネットで調べたりして余裕のあるカッコイイを演じ続けた。普段の素の状態で居たいなんて思ったことは無い。多少見栄を張ってでも良いように思われたいんだ。
ゾムも本来の自分を出し切っている様子はなかった。別に俺は気にしない。誰にでも隠し事の一つや二つあるから、話したくなったら話してもらったので構わない。これは世間で言う冷たいなのだろうか。偶にこのままでいいのかと迷う時もある。
5回目のデートは俺の家でお家デート。何をすればいいのかが分からないからネットで調べて、部屋を片付けて、念の為にベッドも綺麗にして。今の俺は浮かれまくっていて傍から見たら恥ずかしい男だろうか。少し気にしながらも
、ホコリひとつない部屋に暖房を付けてゾムを待った。
初めて鳴ったチャイム音、初めて見る玄関に並ぶ俺以外の靴、初めて床に落ちた俺以外の髪。初めてだらけのそれらは心の日記帳に余すことなく書き尽くした。
机に置いた麦茶を飲んで、何をしようかと話し始めた。
今日ここに来てから気になっていたゾムの表情。まるで告白した時のような、迷いのある顔だった。
ゾムが言いたくないなら気にしないようにしたいけど、やっぱり気になるものは気になるのだ。さり気なく悩みがないかと聞いてみてもはぐらかされるばかりで、俺の聞きたいゾムの話は出てこなかった。
「俺そんなに頼りないかなぁ」
金銭的な悩みも人間関係の悩みも、俺が出来るところまでは助けたいと思う。今の俺ならゾムに全財産強請られても渡してしまいそうだ。
『そんなことない!頼るとか、そういうんやなくて…』
「俺の事全部話すから、ゾムのことも全部教えて」
少し強引な提案、それでも小さく頷いてくれて。 何度か言葉に詰まりながらも少しずつ、本当に少しずつ教えてくれた。
ゾムは生まれつき病を患っていた。何の病気なのか何十何百回も聞いたが、返事はかえってこない。頑なに言いたくないらしい。ずっと長袖を着ているゾム。出会ってから秋冬しか過ごしていないため気に求めたことはなかったが、袖をめくる姿を見てようやく理解した。細い、細すぎる。大量の注射痕。血管が浮き出ていて、色白というより青白いその肌は不健康そのもの、明らかに普通じゃないことがわかった。
『俺…いつ死ぬかわからんのよ。やからもう…』
別れよう。その一言が聞きたくなくて、早くゾムの口を塞ぎたくて、少し強引に口付けをした。
「大丈夫、大丈夫やから」
顔が見えないように思い切り抱きしめる。俺よりも大きいと思っていた体は、服で隠しているだけで子供のように弱かった。
ゾムの事となったら脆くなる涙腺は、俺の言葉よりも正直者で、体内から不安を零していった。
何ヶ月か経ってようやく暖かい空気を感じ始めた春。俺とゾムは同棲し始めた。それでもこの選択は不安要素と幸せを増やして天秤を保つばかりで、これ以上幸せにはしてくれない。
細く血管の浮き出た身体や大量の錠剤を飲む姿、血を吐いては息苦しそうにする様子を見ていれば、後先短いことは安易に想像できる。
ただただベッドで横になるゾムの呼吸音を確かめることが生き甲斐になった。
ある時は海に、ある時は街に、ある時は公園でデートをした。
最初は朝から晩まで10時間程度のデートも数ヶ月経つ頃には7時間、5時間と減っていく。終いには家から出ることが難しくなった。
室温調節がキチンとされたこの家は、冬でも寒さを感じることはないし、夏も暑さを感じることはない。 ベッドで横になって何をするでもなくただ天井を見つめるゾム。
病院に行こう、もっとちゃんとした治療を受けて安静にしよう。何度目か分からない説得しようとしたが、どうせ治らないからと断られてしまう。治る治らないじゃない、少しでも長く俺の隣に居て欲しいから。自分勝手で利己的なその言葉を吐くことは出来なかった。
時折聞こえる苦しそうな咳が、涙目で苦痛に耐えるその姿が痛くて痛くて愛おしい。
『もっと俺を愛して』
突然目を見つめられ、本当に死にそうな顔で言うものだから。
「愛してる、愛してるから」
真意の分からないその台詞に苦しい声を返すことしか出来ずにいる。
「そういえばなんでお金借りたん?病院代?」
以前借りた謎の十万円。ゾムは働いていないが、保険か家族のお金かで生活に困っている様子はない。
『俺働いてみたかったんよ。でも働く理由がなくてな』
貰った十万は治療費にあて、十万を返すためという名目で三ヶ月間色んなところで働いたらしい。
少し変わった人だと思った。でもやっぱりそこも愛おしくて、恋は盲目とはよく言ったものだ。
『楽しかったで。でもやっぱり俺には向いてなかったわ』
どこで働いても体力が持たないらしい。工場も飲食店もコンビニですら。確か俺とゾムの住むこの市は住宅街が多いし、接客業だと対応も大変だろう。
「偉い、頑張ったな」
頭を撫でて改めて存在を肯定する。そうすると、ロボロはいつも頑張っていて偉い凄い、なんて改めて肯定の言葉が返ってくる。それを更に丁寧なラッピングで返す。その繰り返しがとんでもなく好きだ。飾られた言葉のプレゼントは、リボンで縛り付けていないと飛んでいってしまいそうなほど浮かれている。
大きな大きなため息が聞こえる。何か嫌なことでもあったのかと心配になる。
『…死にたないなー、』
今までの台詞が全て嘘かと思ってしまうほど、それは本心だった。死にたくない。そんな一言が苦しくて堪らない。人間自分の死が見えてる人間なんて少ない。明日交通事故で死ぬかもしれない、明後日病気で倒れるかもしれない。そんな想像が現実になることなんてないって信じきっている。今までがそうだったからだ。でもゾムは毎日死を見続けていて、その苦痛が分からない自分自身が憎くて悔しくて堪らない。
まるで母親が死んだ夢を見た子供のように泣いてしまった、死なないでって、長生きしてって。だっていきなりそんなことを言うのだから、そんなことを言うゾムが悪いんだ。
『ごめんって、嘘やから…な?』
つり上がった瞳が、曲線の着いた三日月のような口が、全部が全部心地よくて天国の天使が魔法をかけているような、そんな夢見心地。死にたくないが嘘なら死にたいってことになるけどって、それを言うのはやめた。これ以上この話を深堀したくないから。
色んな漫画や映画の登場人物は死ぬ直前に何か言い残すけど、そんなものは無かった。
酸欠状態で何かを話そうとしても赤の混ざった咳に遮られる。そこら中に飛び散った血が悲惨な運命を物語っていた。
あいしてる。
たった一言だけ形にならない音が読めた。必死に口を動かして、意識が朦朧とする中で何度も何度もその一言だけを描いていた。
やがてはそれも無くなって自分以外の音が聞こえなくなる。人は心臓が止まってからも数分間は耳が聞こえる、そんな嘘か誠かも分からない言葉を信じて叫び続けた。
聞こえないといけないから得意な大きな声で。
本当に伝えたいことをまとめる余裕なんてなくて、今までありがとうとか、一目惚れだったとか、愛してるとか、思っていたことが口から出て行った。
「置いて行かないで…」
弱々しく出た言葉は最後の本音だった。
暫く泣いて声が枯れて咳が止まらなくなった。まるでゾムのようだと独りで小さく笑う。
「……あは、ゾム。今、動いただろ」
「いいよ。形が崩れても、匂いがついても」
俺はゾムのすべてを許す微笑みを浮かべたまま、ゾムの胸元を包丁で薄く切り開いた。 狂気ではない、ただ確かめたかっただけこの体の中にある俺を作り替えた心臓が、一体どんな形をしているのかを。 肋骨の隙間から見えたそれは期待していたような宝石でも禍々しい化け物でもなかった。
ただの古びた機械のように沈黙した、赤黒い肉の塊。
「……意外と普通やな」
その心臓を震える手で取り出した。
ゾムの体温を失ったそれは驚くほど冷たく、そして重い。
台所のシンクで丁寧に水洗いした。ゾムが嫌っていた汚れをすべて洗い流すように。
「ゾム潔癖症やったもんな…綺麗にしような」ゾムに汚いところなんてあるはずが無いだろう、頭と心と口は意見の食い違いで今日も喧嘩をしている。 いくら洗ってもその肉の塊にこびりついた執着の匂いは消えなかった。
ゾムの心臓をジップロックに入れ、プラスチックの容器に入れた。これをゴミ袋に入れて集積所に置く自分を想像してみると吐き気がする。 カラスに突かせたり、清掃車の中で他のゴミと一緒に潰したりすることなんて到底できない。
「ゾム、我儘すぎるって。死んでからも俺の部屋占領してさ」
泣きながらゾムの心臓を自分の胸に強く押し当てた。 自分の心臓がゾムの死んだ心臓を打つ。
ドクン、ドクン、ドクン、ドクン。
二つの心臓が一つの体の中、奇妙なリズムで共鳴する。
「俺だけやで、こんな我儘に付き合ってくれるん」
まるで涙で心臓を洗うように泣いた。
ゾムの吐き出した血を今日も唇に塗った。乾かないように瓶に詰めていた血液はまだまだ赤い。
ゾムが最後に触れたシーツも何もかもあの日のまま。思い出に一生囚われ続ける、この先も永遠に。
高温多湿の空間、換気がしたくなっても絶対にしない。ゾムの居たあの空気が捨てられないから。
ゾムの遺体はクローゼットの中でゆっくりと静かに骨へ近づいている。
毎日その扉を開けては、変わり果てていくゾムの姿を検品するように眺めた。肉が落ちて関節が浮き出し、ゾムの身体本来の姿が露わになっていく。
「……こんなに尖っとったんやね」
ゾムの細い指の骨を一本、そっと外した。
腐敗の工程を終えたそれは驚くほど白い。 その骨を自分の口に入れた。 ゾムの骨は冷たくてひどく優しい味がした。
あの呪いのような美しい日々がこの一本の白い棒に凝縮されている。甘くて苦くて辛くてでもやっぱり優しくて、 それを飲み込もうとした。
ゾムを物理的に俺の血肉にしたかった。
だが、骨は喉の途中で鋭く突き刺さる。
「っ……、…あ」
吐き出そうとしても、奥へ押し込もうとしても動かない。
ゾムの指先が死んでなお、俺の喉を内側から愛撫するように、じりじりと食い込んでいく。
痛いけれど、この痛みこそが俺が渇望していたゾムとの接触だった。
ようやく飲み込めた骨が器官を通る感覚がした、そして少しずつ内臓を削られる。
今日も乾いた唇に残った感覚が美しかった。
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またね
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これが純愛…