テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
ふく。
『主様であれない主様』
5話 これだけは分かる
朝の空気は、少しだけ重かった。
いつも通りに整えられた屋敷。
変わらないはずの景色。
けれど――
確実に、何かが変わっていた。
⸻
廊下を歩くたび、視線を感じる。
隠そうとしているのが、逆に分かる。
距離。
ほんのわずかに、開いたそれが痛い。
⸻
「……主様」
ベリアンが声をかける。
「本日のご予定ですが――」
言葉が止まる。
一瞬だけ、迷ったように。
⸻
「……ご指示を、いただけますか」
⸻
その一言に、胸が締まる。
⸻
「……」
返事ができない。
⸻
昨日の言葉が、頭の中で繰り返される。
⸻
“主様として、振る舞え”
“できないで済ませるな”
⸻
分かっている。
分かっているのに。
⸻
「……すみません」
また、それが出る。
⸻
ベリアンは何も言わない。
ただ、静かに目を伏せる。
⸻
その沈黙が、一番苦しい。
⸻
「……っ」
息を吐く。
⸻
考えるな。
止まるな。
⸻
「……本日の巡回は、北側を重点的に」
口が、勝手に動く。
⸻
「夜間の気配が少し変わっていました」
⸻
言った瞬間、分かる。
⸻
違う。
⸻
また、“これ”だ。
⸻
「……承知しました」
ベリアンは従う。
完璧に。
迷いなく。
⸻
それが、余計に苦しい。
⸻
“主様の命令じゃないのに”
⸻
胸の奥が、軋む。
⸻
⸻
その日の午後。
小さな騒ぎが起きた。
⸻
外部から来た客だった。
屋敷の外れで、何か言い争いが起きている。
⸻
「――だから言ってんだろ」
荒い声。
⸻
「こんな屋敷に、まともな主がいるわけねぇ」
⸻
足が止まる。
⸻
「……」
胸の奥が、ざわつく。
⸻
「執事ばっかりで、肝心の主は顔も出さねぇ」
⸻
「飾りだろ?どうせ」
⸻
言葉が、刺さる。
⸻
「――失礼いたします」
ベリアンが前に出る。
穏やかな声で、間に入ろうとする。
⸻
「お引き取りを――」
⸻
「は?お前じゃねぇよ」
男が遮る。
⸻
「“主様”出せっつってんだろ」
⸻
空気が、張り詰める。
⸻
背後で、ロノが小さく舌打ちする気配。
ハウレスはいない。
フェネスが一歩踏み出そうとする。
⸻
その前に――
⸻
「……私が、主です」
⸻
声が出ていた。
⸻
全員が振り返る。
⸻
男がこちらを見る。
上から下まで、値踏みするように。
⸻
「……は?」
⸻
「これが?」
⸻
笑い声。
⸻
「冗談だろ」
⸻
その瞬間。
⸻
何かが、切れる。
⸻
「――訂正してください」
⸻
自分でも驚くほど、低い声だった。
⸻
空気が、変わる。
⸻
「……あ?」
⸻
「今の発言を、訂正してください」
⸻
一歩、踏み出す。
⸻
「この屋敷を、侮辱する発言です」
⸻
「は、ははっ……」
男が笑う。
⸻
「侮辱?事実だろ」
⸻
「主として立ってるだけで、中身がねぇ――」
⸻
最後まで言わせなかった。
⸻
「黙れ」
⸻
声が、落ちる。
⸻
一瞬で、空気が凍る。
⸻
視界が、狭くなる。
音が、遠くなる。
⸻
「……俺の前で、それ以上言うな」
⸻
一人称が、変わる。
⸻
自分でも、止められない。
⸻
「執事を侮辱するな」
⸻
胸の奥が、熱い。
⸻
怒り。
それだけが、はっきりしている。
⸻
「何様のつもりだ」
⸻
「主様だ」
⸻
即答だった。
⸻
自分でも、驚くほど。
⸻
「ここは、俺の屋敷だ」
⸻
「俺の執事を、侮辱するな」
⸻
空気が、完全に支配される。
⸻
男が一歩、後ずさる。
⸻
「……っ、チッ」
⸻
舌打ち。
⸻
「……覚えとけよ」
⸻
吐き捨てるように言って、去っていく。
⸻
静寂。
⸻
誰も、動かない。
⸻
「……主様」
ベリアンの声。
⸻
その一言で、現実に戻る。
⸻
「……っ」
息が乱れる。
⸻
何を言ったのか。
全部、曖昧になる。
⸻
ただ、一つだけ。
⸻
胸の奥に、残っている。
⸻
「……分かる」
小さく、呟く。
⸻
視線が集まる。
⸻
「主様が何かは……分からない」
⸻
「命令も、できない」
⸻
「でも」
⸻
息を吸う。
⸻
震えは、まだ止まらない。
⸻
「これだけは、分かる」
⸻
顔を上げる。
⸻
まっすぐに、全員を見る。
⸻
「ここにいる人たちを、否定させない」
⸻
「絶対に」
⸻
言い切る。
⸻
それだけは、迷わなかった。
⸻
沈黙。
⸻
誰も、すぐには何も言わない。
⸻
けれど。
⸻
「……それでいい」
小さく、ロノが笑った。
⸻
「それが主様だろ」
⸻
ナックは何も言わない。
けれど、目を逸らさなかった。
⸻
フェネスは、少しだけ安心したように息を吐く。
⸻
ルカスは、静かに目を細める。
⸻
そして――
⸻
ベリアンは。
⸻
ほんのわずかに、微笑んだ。
⸻
「……お見事でございます、主様」
⸻
その言葉は。
⸻
初めて、“重くなかった”。
5話 終わり
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!