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ふぅ。
二時限目終了のチャイムと同時にマイクを置いて、花咲蓮は深いため息をついた。
「はぁぁ……やっと終わった。慣れない。どうしたって慣れないよ。緊張がひどすぎるよ」
ぶつぶつ呟く声も、こころなしか震えている。
講義中のよどみない口調とは打って変わっての情けない様子に、大教室前列に陣取る女子たちが顔を見合わせニヤついた。
「蓮ちん、手汗見せなよ」
「えっ、いやだよ」
気弱な声色での拒否の言葉など聞こえてはいないのだろう。
ガチガチに緊張している若い男性講師に対して、モブ子たちに遠慮などない。
四の五の言わずに手汗を見せろと、教卓周りに群がった。
「や、やめてよ、モブ子さんたち。人のことを何だと思ってるんだい。手汗は絶対に見せないからね!」
無視すればいいのにムキになって両手を背に隠すものだから、女子たちの笑い声は教室中に広がることとなった。
やめてよと、憐れな表情の花咲蓮。三十歳。
高校生といっても通用する童顔に、似合わないビジネスネクタイ。
微妙にサイズの合っていないジャケットからは、服に着られているという印象を受ける。
マイクの持ち手がしっとりしていることからバレてしまったのだが、緊張すると手汗がでるのが悩みだ。
それを気にしてか、手のひらをギュッと握りしめ、背に隠したり頭上にあげたり。
これは完全にモブ子らによって遊ばれている。
「お、俺はお腹すいたから教員棟に戻るからね。みんな、レポートは出してくれた?」
次々と教卓に乗せられていく冊子を両手で抱え、蓮は教室を見渡した。
大教室には、空席がないくらい女子たちで埋まっている。
「蓮ちん、何を食べるんだ?」なんて問いに、律義に「オムレツが食べたい」と返しながらも、連の視線は通路の奥に吸い寄せられた。
長身の青年が、レポート用紙を片手に持って足早にこちらに近付いてくる。
一見して西欧の血が混ざっていると分かるくらい背が高く、手足が長い。
明るい色をした髪に、窓からの日差しが反射して煌めいた。
ランウェイを歩いているわけでもないのに思わず注目してしまうのは、彼の持つ華やかさ故であろう。
「小野くんもレポート書いてきてくれたのかい? えらいねぇ」
へらっと笑ったせいか、足元が留守になった。
冊子を抱えたまま踏み出した蓮の足は、見事に教壇を滑り落ちる。
「アレェ」なんて間の抜けた声とともに、モブ子たちのレポートが宙を舞った。
そのまま蓮の背中は床に叩きつけられる……はずだった。
「先生、どこも痛くないですか?」
「う、うう……」
頭上に降り注ぐ深い声。
同時に背にぬくもりを感じ、蓮はぱちくりと目を見開く。
薄茶色の涼やかな瞳と至近距離で視線がぶつかって、大慌てで手足をじたばた動かした。
「す、すまないねぇ。小野くんにはいつも迷惑をかけてしまって」
「別に迷惑なんて思ってませんよ。先生に怪我がないなら良かったです」
とっさに駆け寄った青年が、背後から抱きしめるように支えてくれていたのだ。
彼がいなければレポートはそこらに散乱。
蓮は腰を強打し、しばらく杖の世話になるところだったろう。
サイズの合っていないジャケットが肩からずり落ちるのをさりげなく直してやりながら、小野と呼ばれた青年は蓮を教壇の下にそっと立たせてくれた。
「小野ちんが、連ちんの腰を抱いていやがるよ」
「エロ従者よ、そのまま押し倒してしまうのだ」
モブ子たちが色めき立つ。
彼女たちに悪意がないのは分かるが、大学の講義終了後のセリフとしては、これはもはやカオスである。
「何てこと言うんだよ、モブ子さんたち」と蓮の焦った声に、彼女たちのにやにや笑いは止まらなかった。
ちなみに。教室には圧倒的に女子が多い。
この物語にさして関係のない彼女たちを、総じて「モブ子」と呼ぶのである。
私立登成野学園大学で、今年度からひっそりと始まったこの「日本史BL検定対策講座」──もちろん、正規の講義ではない。
あくまで検定対策の臨時講座であり、当初の予定では別館四階隅の小教室が予定されていた。
図らずも本館大教室での開催となったのは、受講希望者が予想外に多かったためだ。
大学関係者が驚いたのは、その男女比である。
かなり……いや、ほとんど全員が女子だったのだ。
あくまで検定対策講座なのだが、この検定は女性人気が高いのだろうかとお偉方は首をひねったという。
男女比率100対0──その0と思われた男性比が0.3にアップしたことで、関係者は大いに喜んだそうだ。
さて、その0.3。
それがこの涼やかなビジュアルの学生、小野梗一郎なのである。