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ある晴れた休日の午後。
月光での業務も早めに片づき、杠は妙に手持ちぶさたになっていた。
「……なんか、今日はやることないなぁ」
裏口の掃き掃除をしながらぼそりと呟く。
と、そのとき――
「ねぇねぇ、ユズリハ君〜!暇ー?」
耳に響く明るい声。振り向けば、裏口からひょこっと空白が顔を出していた。
「空白ちゃん、どうしたの?」
「今日はね〜、お仕事少なくて暇になっちゃったの!だから一緒に遊ぼうだよ!」
無邪気な笑顔に、杠は苦笑しながら肩をすくめた。
サグメからの忠告が脳裏をよぎる。
――空白を外に出すな。
言い方だけ見れば、まるで監禁だ。それが胸にひっかかって、杠はためらった。
けれど、空白の期待に満ちた目を見ると断れなかった。
「……ちょっとだけだよ?」
「やったー!行こ行こ〜!」
空白に連れてこられたのは、近所の農家だった。
今日の“任務”は畑の手伝い。
もちろん、杠に農作業の経験などない。
「ほらユズリハ君、そっち掘って〜!」
空白は元気全開でスコップを振るう。
その動きは軽やかで、まるで土が自ら避けているかのように見えた。
一方、杠は――
「……もう十分疲れたんだけど……」
「ふふーん♪ 力仕事は得意だよ? ユズリハ君」
空白は笑いながら、どんどん土を掘り返していく。
杠は息も絶え絶えで、ついにその場に座り込んだ。
「空白ちゃん……ちょっと休憩しない……?」
「えー?だってユズリハ君、楽しそうなんだよ♪」
「……楽しそうじゃないし、死にかけてるの……」
空白は首をかしげ、しかしどこか満足げだった。
夕暮れ。空がオレンジ色に染まり、長い影を地面に落とすころ。
農作業を終えた杠は、重い体を引きずるように帰路についた。
ふと気づくと、空白の姿はいつの間にか消えている。
「……どこ行ったんだろ」
仕方なく一人で細い路地を歩く。普段通らない道だ。
街灯はまばらで、光と影の境目が不安を誘う。
「この道、あんまり通らないから……ちょっと不安だな」
そのとき――
キィ……ッ。
金属が擦れるような音が、どこからか響いた。
「……誰か、いる……?」
杠は足を止め、周囲に耳を澄ます。
風が一瞬止まり、世界が静まり返ったように感じた。
そして、路地の奥の闇がゆっくりと形を持ち始めた。
にじむように現れたのは、血の気を帯びたナイフを握る男。
瞳は異様に濁り、獲物を捕らえた獣のそれ。
「あ……」
杠の心臓が跳ね、頬から血の気が引いていく。
「うっ……いや、こんなところで……!」
咄嗟に後ずさったが、背後はすぐ壁だった。
逃げ道はどこにもない。
街灯の光が明滅し、男の影が不気味に揺れる。
男はゆっくり、笑った。
その笑みには人の温度が一切なかった。
「……や、やめ……!」
杠の声は震え、足は言うことをきかない。
喉は乾き、呼吸が苦しい。
狭い路地の空気が、じわりと冷たく肌にまとわりついた。
胸の奥で、恐怖と戦う自分がかすかに叫ぶ。
――動け。逃げろ。
――でも、動かない。
夜の静寂の中、杠の心臓の音だけがやけに大きく響いた。
普段の月光での小さな失敗や、サグメとの軽口まじりの会話――そんな賑やかな日常が、今の杠には遥か遠くの世界の出来事のように思えた。
路地裏には風の音すらない。胸を締めつける沈黙が、耳鳴りのように響いている。
そのときだった。
「――あ、杠くんいた〜!」
背後から明るい声が落ちてきた。
ホッとしたのも一瞬、背筋が凍る。
振り返った杠の視界に浮かび上がったのは、闇の中に立つ空白のシルエットだった。
表情はいつもの無邪気な笑み。
しかし――その目だけが、どこか温度を失って光っていた。
その視線は、安心よりも恐怖を与えるほど鋭い。
空白の登場だけで、路地の空気がまるで別物になる。
殺気が霧散し、冷たい圧が満ちていく。
杠は声を喉につまらせ、ただ硬直していた。
前方の殺人鬼が杠にじわりと近づく。
ナイフが街灯に反射して、鈍い光を放っていた。
――逃げられない。
そんな絶望が喉を塞いだ瞬間だった。
「杠くん、危ないよ~」
空白は、いつの間にか杠の背後から滑るように前へ出ていた。
手には――農家で使っていたスコップ《愉快さん》。
柄には泥がこびりついている。
次の瞬間、
鈍い衝撃音が、路地にひとつだけ響いた。
男の身体がくず折れるように地面に崩れ落ちる。
ナイフが乾いた音を立て、転がった。
そのあとは、不自然なほど静かだった。風さえ止まってしまったように。
「え……今……殺し……?」
杠の膝から力が抜けた。
震える手で壁を探り、なんとか倒れないよう身体を支える。
空白は返り血を浴びたまま、振り返って笑った。
まるで迷子の子どもを迎えに来ただけのような自然さで。
「杠くん、最近危ないからさ~。
“月光に泊まりなさい”って店長が言ってたんだよ? 帰ろっ!」
あまりにいつも通りの口調に、言葉を失う。
杠の頭の中では、今日の農作業の平和な光景と、今目の前の凶行が渦のように混ざり合っていた。
月光に戻っても胸の鼓動は収まらない。
空白の無邪気な横顔を見るたび、昼間とは違う意味で心がざわつく。
あの子は、ただの明るいバイト仲間じゃない。
裏に潜む力――いや、“何か別のもの”を見た気がした。
「……空白ちゃんって……いったい、何者なんだ……」
夜風が窓の隙間から吹き込み、部屋の空気を冷やす。
その冷たさが、さっきの音――男が倒れたときの鈍い衝撃――を思い出させる。
空白の無邪気な笑顔、滴る返り血、目の奥の無表情。
杠は思わず身をすくめた。
自分がまだ知らない“世界の裏側”が、空白の背中越しに薄く透けて見えた気がした。
杠は月光に戻って暫く経ったが、まだ心臓が早鐘のように打っていた。
空白が帰り道で目の前の殺人鬼を瞬時に制圧したことを思い返す。
手に汗をかき、呼吸を整えながら呟く。
「……でも、あれ……犯罪じゃないの……?」
その声に応えるように、サグメが話しかけてくる
「どうしたの、ユズリハ?」
杠「先輩、今日の……空白さん、あの……人を……」
サグメ「ああ、知ってるよ」
サグメは間髪入れずに返す。
杠「いや……でも、あれって犯罪……じゃ……ないんですか?」
杠の声はまだ震える手を胸に押し当て、深く息をついた。
理解はできないが、空白の行動の意味だけは少し腑に落ちる。
杠「……なるほど……でも……やっぱり……怖いなぁ……」
サグメの声が、少し優しく響いた。
サグメ「それでも君は空白ちゃんと一緒に働くでしょ?大丈夫、君ならうまくやれるよ」
今日一日の恐怖と不思議さを噛み締めながら、机に倒れ込む。
「……あの子、本当に何者なんだ……」
月光へ戻ってからしばらく経つのに、杠の心臓はまだ荒ぶったままだった。
胸の奥で、さっき見た光景が何度も再生される。