「じゃ、今日はもうちょっとだけ“裏”に行ってみまーす♡」
軽やかな声でそう宣言すると同時に、マリア・スノウリリィは暗い通路の奥へと足を踏み出した。
視界に広がるのは、登録済みのマッピングとは異なる灰色の構造体。
配信用ナビHUDが点滅し、警告を表示する。
《警告:未認可区域に接近しています》
《データベースに該当構造が存在しません》
《この区域への進入は推奨されません》
「わかってる、でも──行くの」
マリアは小さく呟き、警告ウィンドウを手のひらで払う。
カメラドローンが後を追い、視界を多角的に記録しながら、視聴者に異様な空間を中継する。
《え、未認可行くの!?》《またギリギリ攻めるな》《リアルBANの予感しかしない》
コメント欄は瞬時に盛り上がる。
彼女のファンには知られていることだが、マリアはときどき意図的に“認可外”に突入する。
だがその理由を、本当に理解している者は少ない。
──未認可区域。
それは「都市防衛ダンジョン」内部において、行政機関および管理AIが安全性や論理的一貫性を保証できない空間のことを指す。
ダンジョンはあくまで“異界との接続点”であり、人間による観測と記録によって構造が安定している。
しかし未認可区域は、元々想定されていなかった形状、記録にない出入口、反応しない魔物、繰り返す構造変動など、不確定要素に満ちた異常空間である。
本来、こうした領域への立ち入りは法人資格がなければ違法であり、事故が起きても一切の責任は負われない。
それでもマリアは進んだ。
──なぜなら、この区域で、“彼女の過去”が途切れているからだ。
「ここだけ、空気が死んでる……」
壁をなぞる指先に、埃はつかない。
だが肌を刺す冷気と、喉奥にへばりつくような異臭が、この先の異常性を物語っていた。
(事件当時のデータログじゃ、この区域の記録がまるごと空白だった)
そう。
ファントム・ミラー暴走事件が起きた当日。
爆発的な通信遮断と同時に、ここ──層区07-B・γブロックの地下構造──は“存在しなかったこと”にされた。
管理局の報告でも、企業の記録でも。
この地点で「アイドルの少女たちが消えた」という事実は“書き換えられている”。
「……今度こそ、あたしの目で見る」
ドローンが警戒音を発した。
《魔力反応、接近中》
直後、頭上から落下してきたのは、生きた鉄塔のような巨大魔物。
鋼線のようにうねる腕、光学迷彩を纏った肌、複数の視線を持つ“再設計型”魔獣。
マリアは跳躍し、即座に光の鞭を展開。
先端がきらめき、瞬時に反転して腕を切り払う。
「おっと……随分お行儀の悪い歓迎ね!」
だが、魔物は倒れない。
明らかに通常の種とは挙動が異なる。反射速度も、構造も、生物兵器のように洗練されていた。
《なんだこれ》《あのスピード初見殺しじゃね》《マリア逃げて!!》
「大丈夫、ちゃんと倒すから──見てて」
鞭を振るうその手の先で、光が再び唄う。
しかし、その瞬間──
視界の奥に、何かが“揺れた”。
暗がりの中で、誰かが“見ている”。
(──え? 誰?)
その問いが生まれる直前、魔物の一撃が、マリアの眼前を切り裂いた。
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