吹く風は心地良く、桜に覆われた町には子供達の笑い声が響いている。
4月――腹立たしいほどの晴天。
「…買い忘れはないな」
スーパーの袋を両手に持った俺は、桃色の花弁が舞う遊歩道を「寮」に向かって歩き出した。
春休みも終わり、明日から新学期。またあの喧しい子供らの世話が始まる。毎日の食事作りに備品の管理、掃除に洗濯。それからたまには喧嘩の仲裁、悩み相談、愚痴だの何だの、その他諸々――。
「あら、吉田くん買い出し?」
呼ばれて振り向くと、寮の厨房担当でベテランパートの笠原さんが立っていた。腕には小さなプードルが抱かれている。
「ええ。笠原さんはポポの散歩ですか?」
「そうなんだけど、この子は疲れちゃったみたい」
困ったように笑う笠原さん。俺は荷物を片手にまとめ、空いた右手でポポの顎を撫でた。
気持ち良さそうに目を細めるポポを見ていると、疲れて死んだ顔になった俺の頬まで緩んでしまう。
犬って、何でこんなに可愛いんだろう。
「もう新学期ね。確か3年生は転校生も来るのよね?」
笠原さんの言葉に、俺はポポに向けていた視線を彼女に移動させた。
「また一年頑張りましょ、吉田くん」
「はい、よろしくお願いします」
私立夢が丘学園高等部、学生寮――。
今年で35歳。前職は銀行員だった俺にとって、寮監という仕事は驚くほど精神的負担が少ないものだった。
毎日同じことの繰り返しだが、今の俺にはそんな生活が丁度良い。性格の悪い上司や自分のことしか頭にない同僚よりも、ガラは悪いが中身は子供の生徒達を相手にしている方がずっとマシだった。
出会いなんて微塵も期待できない仕事だが構わない。
前の恋愛で懲りている身としては、しばらくは色恋沙汰には関わりたくない。
「それじゃあ明日ね、吉田くん」
「ええ、また」
笠原さんとポポに手を振って別れ、再び寮へと歩みを進める。俺も犬を買いたいが、こう殆ど休みもなく働いていては難しいだろう。
子供の頃は犬を飼っていた。何処へ行くにも一緒で、寝る時だって寄り添ってくれていた――モフモフで丸っこくて、本当に可愛かった。
「…………」
かつての愛犬を思い出して含み笑いをしつつ、辿り着いた寮の前でポストを確認する。すると扉の向こうから、複数人の生徒の怒声が聞こえてきた。
「だから何度も言ってんだろうが、ヒロさんは今いねえって!」
「ていうかてめえ誰だ、どこの制服だ!」
全く、不良どもめ。元々素行の宜しくない生徒達が集まる高校なのは分かっているが――いやそれよりも今、ヒロさんて。俺の名前が出てきたような。
「おい、何を喧嘩してんだ」
中へ入ると、入口から一番近い共用スペースに見覚えのある顔が幾つか見えた。あれは2年の――明日から3年になるA組の工堂ミツルだ。
「あっ、ヒロさん。コイツ何とかしてくれよ!」
ヤンキー丸出しの金髪ロン毛に右半分を剃り上げ、耳どころか眉と唇にもピアスを付けているミツルが、苛立った様子で腕組みをしている。背は低いが眼光鋭く、喧嘩の腕も相当らしいが……まあ、漫画か何かの影響を受けているんだろうなというのが丸分かりの典型的なファッションヤンキーだ。
とはいえ教師ではない俺のことを一応「さん付け」で呼んでくれる分、まだ可愛げがあるが。
「コイツって…」
そうして、そんなミツルと彼の取り巻きに囲まれながらも涼しい顔をしていたのは、他校の制服を着た背の高い生徒だった。
今風のふわっとした焦げ茶の髪に、印象的な大きな目。高い鼻に形の良い薄い唇。顔の位置からして背が高いらしく、180センチ近い俺と真正面から目が合っている。
…何だこの絵に描いたようなイケメンDKは。
「どちら様?」
他校の生徒が何の用かと思っていると、俺を見つめていた彼の目がカッと大きく見開かれた。
そして。
「…あ、う…」
小さく声を発しながら、彼の形の良い薄い唇があわあわと開閉している。同時に、大きな目にうるうると涙が滲みだす。泣く寸前の小学生みたいな顔だ。
「ヒロさん、こいつマジでキショいんだけど。話通じねえしよ!」
「そういうこと言うな、ミツル」
窘めれば、ミツルがむくれてそっぽを向いた。
「あー…悪かったな。いきなり大勢に囲まれて驚いただろ」
今にも泣きそうになっている彼に向かって右手を差し出す。
「俺はこの学校の寮監やってる吉田裕孝だ。君は――」
「ひろ、たか…」
握手を求めたつもりだったが、何故か彼は俺に向かって両手を伸ばしてきた。
「え…?」
そうして伸ばされた2本の腕が次の瞬間には、がっしりと俺の体に絡みついてきたのだ。
「裕孝あぁっ!」
抱きついてきた彼が思い切り俺の名前を叫んだ。突然のことにフリーズしたのは俺だけじゃない、ミツル達もだ。
「裕孝、会いたかった!やっと見つけた!」
「ちょっと待て。何だお前いきなり…うおっ!」
腕の力が尋常じゃない。その勢いにバランスを崩し、背後のテーブルに尻を乗せ座ってしまう。
「おい、離れろって!」
「裕孝の匂い久しぶり。もう離さないからな…ずっと一緒だ」
俺の胸に顔を埋め、スーハーと呼吸をする男子生徒。くたびれた35歳の体臭を嗅がれていると思うと急激に恥ずかしくなり、俺は思い切り彼の額を押して胸から引き剥がした。
「何なんだっての!」
「あうっ」
頭は離れたが依然抱きしめられているため、体は密着したままだ。
「…ミツル。彼は誰だ、何を言ってるんだ?」
事情を訊くが、ミツルは目を細くさせて口を尖らせ、呆れたような顔をしている。
「知らねえ。ヒロさんに会いにきたんだってよ。責任持って保護してやれよな」
「何だ保護って」
「んじゃ、俺らはカラオケでも行くかー!」
「ちょ、行くなお前ら!」
ミツルを先頭に寮を出て行く生徒達。残された俺は依然として謎のイケメンに抱き付かれたままだ。
「で、誰なんだお前は」
すると顔を上げた彼が、満面の笑みでそれに答えた。
「俺、武内瑠斗。3年A組。明日からここに転入するんだ」
そういえば、今年は3年に転入生が来るんだっけか。
「なんで俺の名前を?」
「裕孝、やっぱ俺のこと覚えてないか…」
密着したまま、武内瑠斗が少し残念そうに笑う。どう頭を回転させても見覚えがないため反応できずにいると、彼がニッと歯を見せて笑い、こう言った。
「俺はコロだよ!」
「あ?」
「裕孝が子供の頃、ずっと一緒だった」
コロ。その名前は知っている。
俺が子供の頃、実家で飼っていた雑種の中型犬だ。
「確かに犬は飼ってたが、それとお前と何の関係が…」
すると武内瑠斗が俺から少し離れ、全身がよく見えるよう両腕を広げてポーズを取った。
「俺さ、人間に生まれ変わったんだ」
「…………」
「それで、裕孝に会いに来た!」
頭の中が空転する。
生まれ変わった?コロが?人間に…このイケメンに?
「ガキみてえな嘘ついてんじゃねえよ」
「本当だって!めちゃくちゃ探したんだから」
再び俺に身を寄せてきた彼の肩を押し、何とか密着を防ぐ。それでも彼は目を爛々とさせて真正面から俺を見つめ、口元だけでにんまりと笑っている。
その大きな黒目に、俺は7歳の頃から10年飼っていた愛犬コロを思い出した。
河川敷に捨てられていたコロ。拾ったその日からコロは、家で居場所がなかった俺の唯一無二の親友になった。
この青年のように、じっと大きな目で――いつも俺を見つめていたっけ。
そこまで思い返したその時、少し身を屈めた彼が俺の顔を覗き込んで言った。
「裕孝、寮監なんだろ?俺達これから一緒の部屋?」
…もしかして俺は、コイツにからかわれているのだろうか。
俺の名前は名簿を見れば分かることだし、幼い頃に犬を飼っていた人間なんて大勢いる。コロという名前まで当てたのは不思議だが、一昔前の犬の名前としてはよくあるものじゃないか。
そんなことを考えていた俺の手を握り、武内瑠斗が甲に軽く唇を触れさせる。
「一緒の部屋じゃなくても、毎日会えるよな」
将来有望すぎて逆に不安になるほどのイケメンスマイルに、サラリと吐かれる気障な台詞。それが全て俺に向けられている訳だが――いったい何のために。
「えっと、武内…」
「瑠斗だぞ、裕孝!」
俺は額に手をあて、この一点の曇りもない目で俺を見ている美青年に言った。
「あー…、まあいいや。とにかくお前の部屋まで案内する」
「分かった!」
共用スペースを出ると突然瑠斗が自分の胸を片手で押さえ、大きな溜息をついた。
「はぁ、裕孝に会えて嬉しくて…心臓がバクバクしてる」
「…そうか」
「あと、もう少しでうれしょんするところだったから…今トイレ行っとく」
…マジで何なんだ、コイツは。
廊下を歩いている最中も、階段を上っている最中も、瑠斗は俺をチラチラと見ては唇を噛んでにんまり笑っている。
「本当にコロだっていう証拠はあるのかよ」
沈黙に耐えられなくて思わずそう訊ねれば、瑠斗がピクッと反応して嬉しそうにはにかんだ。
「あるよ。子供の頃の裕孝はピーマンが苦手」
「ピーマン苦手な子供は多いだろ」
「それと、ボール遊びが好きだった」
「子供ならみんな好きだろうが」
「それから」
瑠斗の視線が俺から外れ、長い睫毛が伏せられる。
「裕孝はいつも、寂しそうだった」
「…………」
言われて俺は瑠斗を見た。
瑠斗は前方斜め下を見つめ、それこそ寂しそうに唇を窄めている。
「だからずっと、俺が裕孝の傍にいるって決めた!」
次の瞬間には大きく見開かれた瑠斗の目に下から覗き込まれ、思わず体がビクついてしまう。
「…変な奴」
小さく溜息をついたその時、ちょうど瑠斗が使う部屋の前に到着した。
「ここがお前の部屋」
3年生は全て一人部屋だ。ベッドにデスクもあり、風呂は共用の浴場だがトイレと洗面台は部屋にそれぞれ付いている。
「へえ、普通にワンルームみたい」
「今時の学生はマジで贅沢だな」
言いながら部屋の中へ進み、窓のカーテンを開く。3階からの景色は絶景とはいえないが、都会のど真ん中にある学校と学生寮なので、夜でも俺の故郷よりはずっと明るい。
「アレンジは可能だが、落書きは禁止だぞ」
「裕孝の部屋は?」
「あるにはあるが、俺は住み込みじゃない」
「ちぇっ!」
嘘ではないが、基本は俺も同じ建物の部屋で寝泊りしている。24時間誰かしら大人のスタッフがいなければならないからだ。ただ代わりのスタッフがいる時は家に帰ることもあって、その際は寮の隣にある社宅用マンションに帰宅している。
「でもさ」
換気のため窓とシャッターを開けていると、瑠斗が隣に来て外の景色を見つめながら言った。
「こうやってまた裕孝と会えるなんて夢みたいだ」
「いやだから、人違いだろ」
「事実だよっ、コロの時の思い出も――」
「しつけえな。それはもういいっての」
いよいよ面倒臭くなって、つい吐き捨てるように言ってしまった。
今日会ったばかりの知らない奴にコロのことを言われるのは腹が立つ。あの頃の俺にとって無二の親友だった愛犬との思い出を、土足で踏みにじられている気分だ。
「…………」
流石に瑠斗も黙り込んでいる。傷付けてしまったかもしれないが、これで分かってくれたなら――
「もういいって、どういう意味?」
「う…」
瑠斗の顔がグッと近付いて、思わず息を飲んでしまった。
こんなに至近距離で見ても非の打ち所がない顔立ち。大きくても鋭い獣のような目。
「なあ裕孝」
両肩に手を置かれ、額が付くほど顔を寄せられ…低い声で囁かれる。
「俺がどれだけ本気で探してたか分かる…?」
「は…」
「コロの記憶を思い出してからずっと、裕孝のことだけ考えて…」
「何言ってんだお前…目が怖いぞ」
ギンギンに見開かれた目、半笑いの口元。…背筋がゾッとしてしまう。さっきまで超絶イケメンDKだったのに、この急な変化は何なのか。
「頭の中で何度も、裕孝をどうやって愛そうか考えてた。抱きしめて何度もキスして、全身舐めて俺の匂い付けて、それで――」
「落ち着け、おい!」
肩に置かれた手が重みを増してゆき、更に瑠斗が体の距離を詰めてくる。
「裕孝、愛してるよ」
「…………」
愛してる。
そんな台詞、二度と聞くことはないと思っていた。
――愛してるよ、裕孝。
めちゃくちゃ都合が良くて、安っぽくて、嘘を隠すには最強の呪文――。
「く、…!」
「愛してる。大好き裕孝…。俺達もうずっと一緒だよ」
「ふざけたこと言ってんじゃねえっ…!」
瑠斗の体を押し返すも、運動不足の俺よりガタイの良い瑠斗の方が力が強いのは明白だった。離すどころか逆に距離を詰められてしまう。
「うおっ…」
そうして一番危惧していたことが起きてしまった。瑠斗が力任せに、俺をベッドへ押し倒したのだ。
「裕孝…」
「おい、マジで洒落になら――うあっ!」
首筋に軽く歯を立てられ、頬がカッと熱くなる。獣の息遣いで俺の首に吸い付いてくる瑠斗の目は相変わらず狂気を孕み、年下相手に情けないが体が強張ってしまう。
「人間として、こうやって裕孝に触ることができて…」
「や、めろ…!」
「もう我慢できる訳ないじゃん。永遠に俺の物だよ、裕孝」
俺の膝に当たっている立派な感触のソレは、まさか。
「…お前、俺に何するつもりだ…」
努めて冷静に訊ねれば、瑠斗が俺の首元から顔を上げて目を丸くさせた。
「何って、交尾?」
「は…」
「ああ違う、セックスだよ」
頭の中が混乱して収拾がつかない。
初対面の男子に何故か好かれて、愛犬の生まれ変わりだと言われて、挙句の果てに――
もしかして俺は今、最大のピンチを迎えているのか。
あの「最悪の夜」よりももっと最悪の、場合によっては一発で人生終了レベルの。
正真正銘の大ピンチなんじゃなかろうか。
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フォビア。