──コロ、おいで!
小さくてふわふわのコロは、いつも俺の後を付いて回っていた。呼べば嬉しそうに吠えて、短い手足で懸命に走って、抱き上げればめいっぱい甘えるように体を押し付けてきて。
本当に可愛くて健気なコロは、唯一俺が無条件で心を許せる存在だった。コロがいたから、毎日を頑張れたんだ。
俺の大好きな親友。もう10年以上前に死んでしまったけど──もしまた会えたなら、伝えたいこと、してあげたいこと、たくさんあると思っていた…けど!
「裕孝。俺も勉強したからちゃんと分かってる。裕孝が気持ちいいこと何でもしてあげられるよ。なあ、俺達やっと一つになれるんだ…もう離さないからな」
シングルサイズのベッドに押し倒された俺は、上から覆い被さってきた「彼」の両肩を必死で押し返しながら言った。
「いやいやいややめろって、何考えてんだお前!」
明日から夢が丘学園の一員となる転入生、武内瑠斗。
この長身イケメンDKいわく、自分は何と俺の子供の頃の愛犬──コロの生まれ変わりなのだとか。もちろんそんなの信じていないが、彼自身は至って本気でそう言っている。
それに加えて飼い主だった俺のことを、尋常でないほど愛しているらしい。
「今の俺なら裕孝を絶対満足させられるから…いっぱい気持ちいいことしよ」
「阿呆っ、大人をからかうな…!」
「からかってないよ、ずっと夢だったんだ。裕孝の全身に触って、キスして、隅々まで愛したい」
優しい言葉を吐いてはいるが、瑠斗の目はギンギンに血走っている。息も上がっているし、俺の頬を包み込む両手は火傷しそうなほどに熱い。
やばい。何とかしないと…本気で食われる。
「うおっ…!」
ジーンズの上から股間に触れられ、思わず腰がビクついた。──クソ、子供相手に何を怯んでるんだ俺は。
「お前な…、い…い…」
「手でもいいし、口でもしてあげられるよ?どっちがいい?」
「──いい加減にしろっての!」
「あうっ!」
伸ばした右手で瑠斗の顔面を押さえ込み、渾身のアイアンクローをかます。堪らず瑠斗が上体を仰け反らせ、俺はその隙にベッドから滑り落ちるようにして脱出した。
──あ、危なかった…。
床に立ち、ぜえはあと息をしながら瑠斗を睨みつける俺。瑠斗はベッドの上で丸まり、「いたい…」と両手でこめかみを押さえている。
人懐っこい暖かな眼差しとは全然違う、俺を押し倒した時のコイツはまるで獣そのものの目付きになっていた。力も恐らくは俺より強い。今は運良く防げたが、本気を出されたら力づくで組み伏されてしまうんじゃないだろうか。
「うえぇ…脳が軋む…」
武内瑠斗、コイツはヤバすぎる。
なるべく2人にはならないようにしないと…。
*
翌日。
春休みも終わって生徒達が登校し、寮にもいつもの活気が戻ってきた。とはいえ今日は始業式なので、笠原さんや調理スタッフと昼食・夕飯の準備をするだけ。掃除も昨日までに終わらせているし、洗濯スタッフも出勤は明日からだ。
朝の休憩でコンビニへ出かけた俺は、帰り道で何気なく学園の校庭を覗いてみた。
都会のど真ん中にある夢が丘学園は、中高一貫の男子校だ。生徒数は約千人。中等部の学生寮はまた別にあって、基本的に高等部とは関わりがない。
この時間ちょうど始業式が終わったらしい。体育館から出てきた生徒達が上履きのまま校庭を突っ切り、それぞれの教室を目指して歩いている。
「あ…」
その中には瑠斗の姿もあった。特に誰と話すでもなくただ歩いているのだが、こうして見てもやっぱり顔立ちはハンサムだなと思う。
コロの生まれ変わりだなんて言ってるが、これだけのルックスならきっとすぐに恋人ができるだろう。男でも女でも、コイツなら選び放題じゃないか。
──なのにどうして、俺なんかに。
そこまで考えた時、瑠斗の背後にやってきた生徒が片足で瑠斗の尻に蹴りを入れた。彼は3年の不良のまとめ役、工堂ミツルだ。
ミツルに尻を蹴られて瑠斗が振り返るが、そのきょとんとした顔を見る限り、痛がるどころか全く効いていないらしい。
「なに喋ってんだ…?」
ミツルが一方的に何か言って、瑠斗が首を傾げたり頷いたりしている。そのうちミツルの取り巻きがやってきて、瑠斗をぐるりと囲み込んだ。周りの生徒達はチラリと視線をやるだけで、特に瑠斗を助ける気はないらしい。
──まさかミツルの奴、転入生を集団でボコる気か。
「ん?」
しかしどういう訳か、瑠斗はニコニコ笑って何かを言っている。時折頭をかいて照れたり、女子のように口を押さえて「キャ!」みたいな顔になっている。
その人懐こい笑顔からは、昨日見た獣の目付きは微塵も想像できない。犬の生まれ変わりだなんて突拍子のないことを言うタイプにも見えない。
一体、どっちが本当の瑠斗なんだ。
やがて瑠斗がミツルの頭をポムッと叩き、再び晴れやかな顔で歩き始めた。残されたミツルの顔は真っ赤だ。地団太を踏んで取り巻きを焦らせているので、恐らく怒っているのだろう。
何があったのか気になりつつも、俺はその場を離れて寮へと戻った。今日は授業がないから、もうすぐ生徒達が大勢寮に戻ってくる。
「昼の献立はカレーですか。美味そうですね」
食堂に入ると、カウンターで仕切られた厨房側では既に昼食の準備が進んでいた。
炊き立てのご飯と具だくさんのカツカレー。おかわり自由の野菜サラダも。食事が美味いというのが寮の自慢で、俺も賄い飯を毎回楽しみにしているのだ。
「夕食は麻婆豆腐よ。みんな喜んで食べてくれるから作り甲斐があるわ」
笠原さんが笑って皿の準備をしている。俺も布巾でカウンター、それから生徒達が使うテーブルを拭いていった。
その時──
「裕孝ぁっ!」
「うわっ!」
突然後ろから何かが覆い被さってきて、俺は咄嗟に背中を仰け反らせてしまった。テーブルを拭くのに前屈みになっていたため、一瞬変質者に襲われたかと思ったのだ。
「だ、誰だっ!」
振り向くと、俺のすぐ後ろに瑠斗が立っていた。新品の制服を着てニコニコと笑っている。
「何やってんだお前…?」
「へへ。早く裕孝に会いたくて、ホームルーム終わってすぐ帰ってきた!」
「だ、だからっていきなり抱き付いてくんなっ」
「ごめんごめん。廊下から裕孝が見えたから、つい!」
恐らくは少しも悪いと思っていない、底抜けに明るい笑顔。俺は無視して残りのテーブルを拭き、笠原さん達に挨拶をしてからそそくさと食堂を離れた。
しかし。
「裕孝!」
「うおっ?!」
トイレでも。
「裕孝ごはん一緒に食べよ!」
「ひっ…!」
昼飯の時も。
「裕孝、裕孝ぁっ!」
瑠斗は寮のあちこちで俺を見つけては毎回どこからともなく現れて、後ろから前から横から、突然抱き付いては俺の心臓を凍り付かせた。
「お、お前マジでいい加減にしろっ!急に飛び出してくんな!」
「ご…ごめん。嬉しくて、体が勝手に動いちゃって…」
夕食後の廊下で流石にブチ切れ状態となった俺を見て焦ったのか、瑠斗はあわあわと口を開閉させながら狼狽えている。たまたまそこに居合わせた生徒達も訳が分からないようで、皆呆然と俺達を見ていた。
「ごめん…」
しゅんとなって目を伏せる瑠斗の仕草は、それこそ本当に叱られた時の犬のようだ。つい笑って許してしまいたくなるというか、頭を撫でて安心させてやりたくなるというか──もちろん本物の犬の場合なら、だが。
「…遠くからでも裕孝の匂い感じると、頭の中がぶわって…自分でも分からないくらい暴走しちゃうっていうか…」
「人の迷惑になることはするなって、子供でも分かることだろ。走って他の生徒にぶつかって、お互い怪我したらどうする」
「…………」
ついきつめに言ってしまい、周囲を歩いていた生徒達に「そんな怒んなよ~」と野次られた。瑠斗は唇を噛んで俯いている。
「…とにかくもう、勘弁しろ」
俺はひとつ溜息をつき、踵を返して自室へ向かった。
*
夜──消灯時間も過ぎた午前0時。
今日は泊まりでの勤務だったため、俺は自分の部屋で寛ぎながら雑誌を読んでいた。
生徒達も今夜は、春休み明け久々に再会した友人たちと楽しんでいるだろう。中等部の学生寮は規則も厳しいが、高等部は消灯後の部屋移動程度なら黙認されることが多い。もちろん飲酒や喫煙などは見過ごせないが。
今朝コンビニで買って冷やしておいたイチゴゼリーを食べながら、誰にも邪魔されない夜の自由時間を満喫する。何気に一日で一番好きな時間帯だ。
「…ふあ…そろそろ寝るか」
午前0時半。最後にトイレに行ってから寝ようと、ベッドから降りて部屋を出る。位置的に寮の共用トイレが近いため、俺の部屋にはトイレがないのだ。
念のため騒いでいる生徒がいないか耳を澄ましながら廊下を歩き、すぐそこのトイレに入ろうとした、その時──
「あっ…!」
げっ。
武内瑠斗。なぜ消灯後のトイレに!
「裕孝っ、…あぁ違う、ダメだ裕孝っ…」
俺を見て一瞬満面の笑みになった瑠斗だが、すぐにギュッと目をつぶり、かぶりを振って天井を仰いだ。どうやらさっき俺が怒ったのを気にして、突然の抱き付き行為をすんでのところで我慢したらしい。
「…いや、なんで共用トイレにいるんだ。自分の部屋にあるはずだろ」
「あ、あの」
俺から視線を逸らしたまま頬を赤くさせて、瑠斗が言う。
「部屋のトイレットペーパーが残り少なかったから、隣の部屋の人に聞いたら『緊急時はここから取っていい』って言われて…」
「そ、そうか。悪い、補充し忘れてた」
トイレの中は明かりが点いている。だけどしんと静まり返った夜の寮内で瑠斗と2人きりになってしまうのは流石にヤバい気がした。
「…………」
俺の頭の中にはどうしても、昨日ベッドに押し倒された時の獣のような瑠斗の姿が焼き付いて離れないのだ。
「…本当は、備品は希望を提出してもらって補充するんだが、今回は俺の不手際だからな、ここから1つ持ってけ。ていうか早く寝ろよ」
「う、うん。おやすみ」
トイレットペーパーを手に持ってどぎまぎしている瑠斗。俺が警戒しているのも分かっているのだろう。
瑠斗が廊下へ出て行ったのを確認してから、俺は用を足すためジャージのウエスト部分に手をかけた──のだが。
「裕孝っ…」
「う、わっ…!」
またしても唐突に背後から抱きしめられ、一瞬、本気で心臓が止まりかけた。
「な、何だよっ!?お前部屋に戻ったんじゃ…!」
「…………」
耳元に感じる瑠斗の息遣いは荒く、しっかりと俺を抱きしめる腕は熱い。
やばい。まさかまた襲われる…!?
心臓が早鐘を打ち、全身から冷や汗が吹き出す。だけど夜中とはいえ他の生徒達が大勢いる寮で大声を出す訳にもいかない。この絶体絶命の大ピンチをどう打破できるかと、俺は硬直したまま頭をフル回転させた。
「…裕孝」
しかし。次の瞬間には個室に放り込まれるか、壁に押し付けられて動きを封じられるかと思っていたのに、どういう訳か瑠斗は俺を抱きしめたままそれ以上のアクションを見せない。
いや、それどころか…
「ごめん裕孝。俺のこと怖がってるだろ。本当にごめん」
「え…?」
何と答えていいのか分からなかった。
瑠斗の声が、想像以上に優しかったからだ。
昨日の発情した荒々しさではなく、日中俺にまとわりついていた時の底抜けに明るい声でもなく。
「もう裕孝を怖がらせたり、傷付けたりしない。…だから心配しないで」
「…………」
瑠斗のその囁きに、何故か俺は微かな懐かしさを感じていた。言葉では説明できない不思議な感覚…記憶になくても潜在意識がそれを覚えているというような。
俺を後ろから抱きしめたまま、瑠斗が言った。
「コロの頃からずっと決めてたんだ。裕孝を悲しませることだけは絶対にしないって。俺が裕孝を守るんだって」
コロ。俺の親友。
夏でも冬でも、夜はいつも寄り添って寝ていた。トイレが怖かった時、悪夢に目が覚めた時、いつだって俺の傍にいてくれた。温かくて柔らかくて、優しい目で俺をじっと見つめていたコロ。
何で俺はコイツに抱きしめられて、コロの温もりを思い出してるんだ。
何も言い返せずにいると、ふふ、と耳元で瑠斗が笑った。
「小3の夏休みにさ、二人で一緒に冒険したよね。長崎から北海道のばあちゃんちまで歩いて行こうって、すごい無謀な計画立ててさ」
「え…」
「俺よりずっと早く裕孝がギブアップして、泣いてたらお巡りさんに保護されて…あの時に俺、裕孝を絶対に守るんだって決意したんだよ。俺が付いてなきゃダメだって」
くすくすと笑われて、俺は耳が熱くなるのを感じた。
あの夏の日。蝉の声と麦わら帽子。しっかりと握りしめたリード。
入道雲に手が届きそうだった、どこまでも続く畦道──。
何故それを瑠斗が知ってるんだ。こんな話、誰にもしたことないのに。
「ど、どうして…」
まさかコイツ。
本当の本当に、俺の愛犬だった…コロなのか。
「あのさ裕孝。もし良かったら今週末、一緒に出掛けない?見せたい物があるんだ」
「み、見せたい物って…」
「まだ秘密だよ。でもきっとこれで裕孝も、俺がコロの生まれ変わりだって信じてくれると思う」
心臓がバクバクしているのは、まさかの事態に気持ちが追い付いていないからだ。
だって、普通こんなのあり得るか?
大好きな愛犬がイケメンに生まれ変わって現れたなど、とても信じられることではない。
「いいかな、裕孝」
信じられない。
「…………」
だから知りたい。
「…分かった。土曜日に時間を取る」
どうしても俺は、武内瑠斗が本当にコロだという決定的な証拠が欲しい。
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🅗︎🅐︎🅡︎🅢︎🅗︎🅐︎