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「フィオナ姉様……姉様がどうしたのですか?」
「今、君のお姉さんは家にはいないんだよ。しばらくの間リブレールで生活するそうだ」
「リブレールって……」
「聞いたことない? 温泉があって保養地として有名なんだけど」
「ごめんなさい、知らないです。でも保養って……姉様、どこかお悪いのですか!?」
クレハは俺に伸し掛からんばかりの勢いで詰め寄った。押されて後ろに倒れそうになってしまう。大丈夫だと口では言っていたけれど、すでにかなり動揺している。やはり平静で話を聞くのは難しいようだ。
「クレハ……落ち着いて。命に関わるような重大事ではないから」
彼女の顔を両手で包み込み、視線を合わせる。クレハがこうなる事を予想してはいたけれど、姉を思い悲痛な面持ちをしている彼女を見ると、やりきれない感情が込み上げてくる。
「クレハのお父上から手紙が来たんだよ……君を王宮で預かって欲しいってね。その時は俺も詳しい事情を知らなかったんだけど、雰囲気が只事じゃなかった。だからクレハを不安にさせたくなくて……つい嘘を言ってしまったんだ」
ジェムラート公と直接やり取りをした父から強引に話を聞き出し、そこで初めてフィオナ嬢の様子がおかしくなったのが原因だと知ったのだ。
平素の穏やかな振る舞いからは想像もできない乱心振りに、病ではないかとの疑いもあったこと……公爵夫妻は大層苦慮なさっていて、クレハへの対応をこちらに全て任せきりになってしまったことも謝罪していたなど……今までの流れを彼女に説明してやった。
「ご両親が君に秘密にして帰宅させなかったのは、俺と同じ理由だよ。クレハが心配だったんだ。クレハも体調を崩したりして万全ではなかったし、病の可能性があるなんて言われている姉と接触するのは避けた方が良いと判断したからだ」
「それでも……教えて欲しかったです。私、妹なのに……」
「仮に、クレハに最初から事情を説明していたとしたら……君は大人しく王宮で待機できた? お姉さんが心配で、少しくらいならいいだろうって無理やり家に帰ろうとするんじゃないか」
「それは……」
どうやら図星をつかれたようで、クレハは押し黙った。
「クレハ。君はジェムラート家の娘だ……でも、今はもうそれだけじゃない。俺の婚約者だよ」
はっとしたように彼女は息を飲む。改めて自覚させられたのだろう……今の自分の立場と肩書きを。
「君の身に危険が及ぶ可能性を俺は排除する。それがいかに些細なものでもね。その中には、君が容認できないこともあるかもしれない……」
お互いの鼻先が触れそうなほどの至近距離。彼女の頬に触れている手に自然と力が籠る。俺はじっとりと言い聞かせるように彼女に告げた。
「何度でも言おう……俺は君が好きだ。君を守るためならば、俺はどんなことでもするよ」
クレハの青い瞳が涙で潤んでいた。同じ涙でもさっき笑いながら溢していたものとは違う。悲しませたいわけじゃないのに……上手くいかないな。
「……姉様は大丈夫なんですか?」
「大丈夫だよ。フィオナ嬢の不調は精神的なものみたいだし、リブレールでゆっくり休養すればきっと良くなるよ」
あまり無責任な事も言えないが今はまだ……クレハには、そう伝えるしかなかった。
「姉様に会いたいです」
「それはもうしばらく我慢して。快方に向かっているとはいえ、まだ普段通りには程遠いらしいから」
クレハは俺に向かってゆっくりと体を傾ける。彼女の細くて柔らかい銀色の髪が頬を掠めた。首筋に顔を埋めて、もたれかかるように俺の胸の中にすっぽりと収まった。思わず目を見開く。クレハの心境を考えれば不謹慎でしかないけれど……俺に縋り付くその様に、言いようの無い満足感と喜びを抱いてしまう。だって仕方ないだろう、これは可愛い過ぎる。すぐさま彼女の背中に腕を回して抱き締めてしまったのも不可抗力だ。クレハは深く息を吐くと、この距離でもやっと聞こえるような小さくて、今にも消え入りそうな声で呟いた。
「……姉様も逃げ出したかったのでしょうか」
「うん?」
「姉様は私みたいにお勉強をサボったりはしません。宿題を忘れたり……もちろん、つまみ食いだってしません。私、姉様を完璧だと思っていたのです。お淑やかで頭が良くて……みんな姉様を褒めていました」
「俺もそう思っていたよ。会ったことは数えるほどしかないけど、言葉使いから身のこなし……同じ年頃の子とは比較にならないほど完成されていて感心した」
「レオンと姉様って少し似てます」
「……そうかな」
自分では思わないけど……それこそ見た目の話か? それならジェムラート家の子供と俺ははとこにあたるから、もしかしたら似た部分があるのかもしれないが……
「はい。綺麗で大人びてて、何でもできるって感じのところが。でも……前にレオンは言っていましたね。自分だって苦手なことはある。緊張もするし、やりたくないことだって沢山あるんだって」
「周りが言うほど俺は出来た子供じゃないよ。結構ワガママだし、サボりだってしょっ中だ」
「それを聞いた時レオンも私と同じなんだなって、ちょっと嬉しかったんですよ」
クレハは俺の肩口でクスクスと笑っている。この体勢だと顔が見えないのが残念だ。
「だから考えたのです、姉様はどうだったのだろうって……。周囲に気づかせなかっただけで、本当は辛い時があったんじゃないでしょうか」
フィオナ嬢は毎日のように茶会などの交友の場に招かれ、家を留守にしていたらしい。家庭教師も覚えが早くて、教えれば教えるだけ吸収していく彼女をとても気に入っており、おおよそ10歳の子供に不釣り合いな高レベルの学習もさせていたとクレハは言う。
「私、それを近くで見ていても姉様は凄いな、流石だなとしか思ってなくて……大変だったに決まってるのに。きっと息抜きをする暇も無かったんです。だから、今まで抑えていた感情が溢れ返ってしまったのではないかと……」
どんなに辛くとも周囲の期待に応えようと自分の体調を顧みず、頑張り過ぎてしまった健気な姉……クレハの中ではこんな設定ができているようだ。『可哀想なフィオナ姉様』を想像して盛り上がっているクレハには悪いが、御乱心の理由がそんなのだったら、俺も公爵夫妻も頭抱えてないんだよな……
クレハはフィオナ嬢の不調の原因をあれこれ考えている。しかし、まさか自分自身にその原因の一端があるとは露ほども思わないのだろう。
「レオンはリブレールに行ったことありますか?」
「3歳くらいの時に1度だけ……あんまり覚えてないけどね」
「温泉は体に良いんですよね。姉様が早く元気になって戻って来てくれるといいなぁ。そしたら私、フィオナ姉様と今まで以上にたくさんお話をしようと思います。辛い時に頼って貰えるような妹になりたいです」
クレハには分からないように溜息を吐いた。胸の中に収まっているひと回り程小さな彼女の体を、俺は更に強く抱き締める。