彼は、孤独という透明な壁の向こうにいた。
学生時代、誰とも深く話さず、部活動にも属さず、ただ光る画面を眺めていた。
時は流れるように進み、彼がそこそこの大学を卒業しそこそこの職業に就き、つまらない人生を30年謳歌した時だった。
ある夜、何気なく見ていた動画で、「Vtuber」という言葉が耳に残った。
CGの体を纏い、誰かになりきって喋る人々。
その時、彼の胸に小さな火が灯った。今時、おじさんでもボイスチェンジャーを使えば,女性になれる時代なのだ。彼は始めて何かに情熱を持った。幸い趣味にお金を費やすこともなく、貯金は沢山あったので、すぐにクオリティの高いアバターを製作することができた。
「ろびんの名前はろびんなんだよ〜!よろしくなんだよ〜!」そんな天津爛漫な性格…という設定の彼女、稲荷ろびんちゃんは、ライブ配信活動を始めた。初めはトークも苦手で、彼もしょせん高い趣味程度だと捉えていた。だが彼の演技力が上がっていくにつれ、次第に、確実に視聴者も増え、気づけば「ろびん」を演じていた彼はそこそこの人気Vtuberとなっていた。
登録者も20万人超えを果たした日の夜、コンビニでいつものようにエナジードリンクを買おうとした時だ。
いつも見るおばさんの店員は、いつものように「レジ袋はご利用ですか?」「ポイントカードはお持ちですか?」と聞いた。彼はこう返した。「ろびんはエコバッグ持ってるなんだよ〜!」
…時が止まった。レジの奥の蛍光灯が、彼の頬を妙に白く照らしていた。
相手からは、30代のおっさんが甲高い声で妙に元気で意味のわからない一人称で話しているからだ。彼は顔を赤くしながら謝り、さっさと支払いを済ませて店を出た。それからもライブ活動を続けたが、彼を襲ったのは、日に日に自分が自分じゃなくなっている感覚だった。何をしても「ろびんちゃん」の感覚、考え方、話し方、仕草。自分がそれを演じている内に、彼は彼女、つまり「ろびんちゃん」になってしまったのだ。最後には彼女は外で話す時、「彼」を演じることになった。
明らかに自分なのに、自分だと言う感覚が湧かない。
虚しさの中に、なぜか安らぎがあった。
それもまた、「稲荷ろびんちゃん」の思考回路なのかもしれない。
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