「ありきたりな口説き方ですね」
「まあ聞いて。俺の親戚が所有しているマンションだから、空きがあるか聞いてあげることもできる。家賃も交渉次第で安くできるよ」
家賃を安く……。
少しその気になったけど、すぐに我に返る。
「すごい疑問があるんですけど」
「うん、何?」
「あなた、私と初対面ですよね? どうしてそこまでしてくれるですか? わかった。傷心の女につけこんで遊ぶつもりですね?」
「酔ってるわりに冷静だな」
男は少し困惑の表情を見せたあと、落ち着いた口調で言った。
「こうして話すのは初めてだけど、実は君のことは知ってる。同じ会社だろう」
「うそ。私、知らない。だいたい、あなたみたいな人がいたら絶対目立つでしょ」
「このあいだ、君が落としたハンカチを拾ったよ」
「え? あ、あー……あの人?」
いや、でもそれだけで顔を覚えているもの?
この人、あのとき私の顔なんて見ていないはず……。
疑いの目を向けると、男はわざわざ名刺を見せてくれた。
たしかに同じ会社名だけど、なんか違う。
彼はグループ本体の人間だった。
「エリート組じゃないですか! うわ、なんかすみません。私さっきから失礼なことを……」
「これで身元は証明できたよね? それ、あげるよ」
私は受け取った名刺を数秒凝視した。
【月見里千秋】
Chiaki Yamanashi
「やまなしさん? めずらしい名字ですね」
「よく言われるよ」
「アルファベット表記ないと読めなかった」
「こういうとき英語は役に立つよね」
「え、ええ……」
会話は苦手なんだけど。
「で、月見里さんはどうしてうちの会社に? 出向ですか?」
「そうだよ」
彼はにこやかに答えた。
「でも最近ですよね? あんまり見かけたことないし」
「そう。半年前に海外事業部から戻ってここに配属されたんだよ」
海外にいたエリートがわざわざグループ会社に出向?
何か大きな失敗でもしたのかしら?
いや、でも必要な人事ってこともあるし。
何か責任を伴うプロジェクトに関わっているのかもしれない。
「これで素性がわかったから安心だろう? これから社内で会うこともあるだろうし、よろしくね」
うーん、解せない。
なぜハンカチを拾ってくれた人が私にこれほど親切にしてくれるのか。
でも、まあ引っ越し先の候補のひとつとしてありがたく話を受けておこう。
「ありがとうございます。ぜひ一度そのマンションの見学をさせてください」
「いつでもいいよ。じゃあ、その番号に連絡して」
彼は名刺を指差してそう言った。
私は「はい」と返事をした。
うっかり話し込んでしまって、スマホを見たらすでに深夜1時過ぎ。
終電逃してるのはもうわかってるからタクシーで帰るか、どこかのビジネスホテルにでも泊まるか。
そんなことを考えていたのだけど、予想外のことが起こってしまった。
*
目が覚めるとやけに静かな空間だった。
窓を閉め切っているので今が朝か夜かはわからない。
薄暗い室内にぼんやりオレンジと白の照明が照らされ、かなり広くて柔らかいベッドは天蓋付き。
壁にはヨーロッパの街が描かれた絵画。
立派なソファとテーブルに巨大テレビモニター。
比較的美しいラグジュアリーなラブホテルだ。
そう、私はビジネスホテルではなくラブホテルに泊まっていた。
で、布団をめくると私は下着姿。
全身から冷や汗が噴き出した。
「う、うそでしょ……まさか」
初対面の男とワンナイトしてしまった。
いやでも素性はわかってるし……ってそうじゃない。
「記憶がない」
慌てて思い出そうとしても最後の記憶はベッドにダイブしたところまで。
うわあ、一番大事なところの記憶がないなんて。
がちゃりと扉が開くと、月見里さんがバスローブで部屋に入ってきた。
どうやら浴室を使ったらしく濡れた髪をバスタオルで拭いている。
濡れた髪とか、最高にえろいですよね!
「やあ、起きたんだね。爆睡してたからさぞや気持ちよく眠れただろう」
うん? 気持ちいい記憶がないんです。
「あの、ごめんなさい。なかったことにしてください……そういうわけにはいかないですか」
「……何が?」
「えっと、だからその……昨夜私たち、いたしましたよね?」
「いたしてないよ」
「え?」
彼は髪をかき上げた状態でじっと見つめてくる。
いやそれ、最高なんですけど(えろくて)
「だって、君はこの部屋に入るなり爆睡したからね」
「あ、そうですか……でも」
下着姿だからてっきりやらかしたと思っていたのに。
そんな疑問を察したのか、彼は理由を述べた。
「君は自分の部屋だと思ったんだろうな。勝手に脱いで床に散らかしていたよ。だから畳んでおいた」
彼が指を差すソファの上には私の衣服が丁寧に畳んだ状態になっている。
家事スキルが高いと見た!!
「ありがとうございます。実は昨日の記憶がおぼろげで。この部屋に来たところまでは覚えているんですけど」
彼はにこやかに答える。
「そうなんだ。こっちはやる気満々で来たのに肩透かしを食らった気分だよ」
ですよねー。
男とホテルに来てまじで爆睡する女ってどうなんですかねー。
「今からでもぜんぜんいいよ」
「何がですか?」
「わかっているくせに」
彼はベッドに腰を下ろしてわざわざ顔を近づけてきた。
なので、少しあとずさりする。
「でも、今何時……」
「朝の5時。まだいいだろ?」
「ええっと、会社行かなきゃ」
「休めよ」
「他人事だと思ってそんなことを!」
あなたの仕事については知りませんが、私は今まさにやるべきことが山ほどあるんですよ。
などとこちらのことを言っても仕方がない。
「すみません。酔った勢いでいいやって思ったんですけど、冷静になってみたら私まだ彼氏と別れてないんです。これ不貞になりますよね?」
「未遂だよ。まあ、今からクロにしてもいいけどね」
「いやいや、帰ります。いろいろ整理しなきゃいけないこともあるし」
「そっか、残念だな」
うん? やっぱりこの人やりたいだけなんじゃ……?
結局、彼とはその場で別れ、私はひとり駅に向かって歩いた。
夜明け前の薄暗い空を見上げながら、これから起こるだろう面倒事を想像したら頭痛がした。
いや、この頭痛は二日酔いだ。
でも、なんか、気持ちは晴れ晴れしていた。
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